夏の食べ物と言えば?ぱっと思いつくのはスイカ、かき氷…そして、そうめん。
今も昔も変わらない夏の風物詩、そうめん
そうめん(素麺)。小麦粉に食塩と水を混ぜてよく練り、綿実油などの食用油、もしくは小麦粉やでん粉を塗ってから、よりをかけながら引き延ばして乾燥、熟成させた細長い麺のことで、室町時代までには現在の形状が確立していたようです。
ルーツははっきりしておりませんが、奈良県桜井市を発祥地とする通説が一般的。奈良時代に唐から伝来した唐菓子「索餅(さくべい)」から発展したと言われております。天武天皇の孫・長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡がそれら通説の根拠ですが、「素麺」という単語自体が文献に登場するのは14世紀・南北朝時代。以後、江戸時代には「素麺」「索餅」はごっちゃで認識されていたようです。
105巻81冊からなる『和漢三才図会』(寺島良安 編/正徳2年(1712年))では索餅を「さふめん」と読み「俗に素麺ともいう」とあります。
ルーツははっきりしておりませんが、奈良県桜井市を発祥地とする通説が一般的。奈良時代に唐から伝来した唐菓子「索餅(さくべい)」から発展したと言われております。天武天皇の孫・長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡がそれら通説の根拠ですが、「素麺」という単語自体が文献に登場するのは14世紀・南北朝時代。以後、江戸時代には「素麺」「索餅」はごっちゃで認識されていたようです。
105巻81冊からなる『和漢三才図会』(寺島良安 編/正徳2年(1712年))では索餅を「さふめん」と読み「俗に素麺ともいう」とあります。
有名な「揖保乃糸」
そうめんと言えば、有名なのは「三輪そうめん」や「揖保乃糸」かな?と思いますが、三輪そうめんは先に述べた桜井市の素麺。素麺作りの歴史が最も古い桜井市の三輪そうめんは各地の素麺のルーツでもあります。
そしてテレビCMでも有名な「揖保乃糸」。コチラは兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標です。推古天皇14年(606年)創建の斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町)の寺院日記『鵤庄引付』の応永25年(1418年)9月15日の条に「サウメン」の記述がありますから、兵庫ではこの頃から素麺の生産が行われていたようです。
そしてテレビCMでも有名な「揖保乃糸」。コチラは兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標です。推古天皇14年(606年)創建の斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町)の寺院日記『鵤庄引付』の応永25年(1418年)9月15日の条に「サウメン」の記述がありますから、兵庫ではこの頃から素麺の生産が行われていたようです。
涼を感じることが出来る「流しそうめん」
さて!そんなそうめんといえば「流しそうめん」♪そうめんを竹の樋(とい)を使って流し、箸で捕まえて食べる…子供も大人も楽しめる流しそうめんは、まさに夏の風物詩。
実は発祥がはっきりしておりまして、初めて商品化したのは宮崎県高千穂峡。高千穂峡の真名井ノ滝近くにある「千穂の家 元祖流しそうめん(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井御塩井)の 店舗の入口には「昭和参拾年創業 元祖流しそうめん」の看板があります。昭和30年ですので1955年。63年前ですね。
で、ここからが民俗コネタ的流しそうめんルーツのお話
宮崎というより、主に鹿児島県では、流しそうめんと言うより「そうめん流し」と言うことが多いようです。これは円卓テーブル上で円環する樋に素麺を流して箸ですくい食べるもので、宮崎が竹の一本「縦」なら、こちらは回転式の装置による「丸」。このそうめん流しも商品ルーツははっきりしております。1962年創業の鹿児島県指宿市唐船峡のそうめん流しです(「市営唐船峡そうめん流し」鹿児島県指宿市開聞十町)。
鹿児島県観光サイト「どんどん かごしまの旅」には
鹿児島県観光サイト「どんどん かごしまの旅」には
“回転式そうめん流し発祥の地で、いまでは全国から年間約20万人の利用客が訪れています。昭和37年、川上の湧水を利用し、竹樋で作ったそうめん流しがスタート。昭和45年には回転式そうめん流し器の意匠登録をし、全国第1号のそうめん流し発祥の地となりました。”
とあります。
この鹿児島のそうめん流しはもともと商業前から存在しておりました。最後の琉球国王尚泰の孫である尚昌の子女たちの名付け親である歴史学者東恩納 寛惇(ひがしおんな かんじゅん、明治15年(1882年)~昭和38年(1963年))によると、薩摩藩の支配の下のおかれていた江戸時代の琉球王国では、薩摩藩の役人への接待の中に、那覇湾の一角に崖上から落下する清冽な泉流の上源から素麺を流し、中途ですくって食べるというものがあったそうです。
琉球に存在した薩摩藩の出先機関(在番奉行)の薩摩人はこれを夏の楽しみにした、と記しております(『東恩納寛惇全集5』)P367。第一書房./琉球新報社 編 池宮城秀意・仲宗根政善・宮城栄昌・和田久徳 監修/全10巻/1978年)。
また、市営唐船峡そうめん流しでは、天保年間に書かれた旅行記『鹿児島風流』(かごしまふり。伊藤草臣 著/万延元年(1860年))に「夏は素麺流しとして、水上より素麺を流し、下にてすくい食う。石の上の酒宴、甚だ興あり。最も紅葉の名所なり。」と書かれていると紹介しております。
この鹿児島のそうめん流しはもともと商業前から存在しておりました。最後の琉球国王尚泰の孫である尚昌の子女たちの名付け親である歴史学者東恩納 寛惇(ひがしおんな かんじゅん、明治15年(1882年)~昭和38年(1963年))によると、薩摩藩の支配の下のおかれていた江戸時代の琉球王国では、薩摩藩の役人への接待の中に、那覇湾の一角に崖上から落下する清冽な泉流の上源から素麺を流し、中途ですくって食べるというものがあったそうです。
琉球に存在した薩摩藩の出先機関(在番奉行)の薩摩人はこれを夏の楽しみにした、と記しております(『東恩納寛惇全集5』)P367。第一書房./琉球新報社 編 池宮城秀意・仲宗根政善・宮城栄昌・和田久徳 監修/全10巻/1978年)。
また、市営唐船峡そうめん流しでは、天保年間に書かれた旅行記『鹿児島風流』(かごしまふり。伊藤草臣 著/万延元年(1860年))に「夏は素麺流しとして、水上より素麺を流し、下にてすくい食う。石の上の酒宴、甚だ興あり。最も紅葉の名所なり。」と書かれていると紹介しております。
最後に「ひやむぎ」って何?
というわけで南国の方々が楽しんだそうめんの楽しみ方が全国に広がり、流しそうめんになったというわけですが、最後に、「ひやむぎ」って何?というお話。
現在のそうめんは、手延べして干した「手延べそうめん」と機械で作る「機械そうめん」に分けられております。『乾めん類品質表示基準』では直径1.3mm未満の麺をそうめん(素麺)とし、直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、1.7mm以上はうどん(饂飩)と分類しております。手延べそうめんも同様に「手延べ素麺」「手延べひやむぎ」「手延べうどん」です。
ひやむぎは室町時代に登場した「切麦(きりむぎ)」がルーツとも。うどんを細く切って作られていたことから「切麦」と呼ばれ、その切麦を冷やして食べるのを「冷麦」と言い、これが現在の「ひやむぎ」になったそうです。うどん由来だったとは~。
現在のそうめんは、手延べして干した「手延べそうめん」と機械で作る「機械そうめん」に分けられております。『乾めん類品質表示基準』では直径1.3mm未満の麺をそうめん(素麺)とし、直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、1.7mm以上はうどん(饂飩)と分類しております。手延べそうめんも同様に「手延べ素麺」「手延べひやむぎ」「手延べうどん」です。
ひやむぎは室町時代に登場した「切麦(きりむぎ)」がルーツとも。うどんを細く切って作られていたことから「切麦」と呼ばれ、その切麦を冷やして食べるのを「冷麦」と言い、これが現在の「ひやむぎ」になったそうです。うどん由来だったとは~。
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