1974年の日本ハム・初代ユニホームが復活!大谷もお気に入り!
2016年11月25日 更新

1974年の日本ハム・初代ユニホームが復活!大谷もお気に入り!

日本ハムは球団史を振り返る「レジェンドシリーズ2016」で着るユニホームを発表。日本ハム球団誕生の1974年前期シーズン(当時のパ・リーグは前後期制)のデザインを復刻した。在京球団時代の日本ハムファイターズも振り返る。

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日本ハムの1974年・初代ユニホームが復活!

日本ハムは球団史を振り返る「レジェンドシリーズ2016」で着るユニホームを28日、発表した。日本ハム球団が誕生した1974年の前期シーズン(当時のパ・リーグは前後期制)デザインを復刻した。
今季は1974年前期に着用した初代ユニホームが復活。黒字のファイターズロゴに、赤い縁取りが入ったシンプルなデザインだ。同年は張本勲氏(野球評論家)が首位打者、最高出塁率、ベストナインを獲得した。

栗山監督は「あまり最初のユニホームは印象がなかった。こんなユニホームだったかと。この時は三原(脩)さんが球団社長で、プロで最初に教わった中西(太)さんが監督。僕にとっては意味がある。感慨深さはあります」と話した。
また、ユニホームを着た大谷は「シンプルでかっこいい」と気に入った様子。
復活した初代ユニホーム

復活した初代ユニホーム

「レジェンドシリーズ2016」は、8月30日から9月19日までの主催計11試合が対象。8月30日の楽天戦(東京)と、9月18日のロッテ戦(札幌)では、来場者全員にユニホームのプレゼントもある。
左から中島卓也選手、栗山英樹監督、大谷翔平投手

左から中島卓也選手、栗山英樹監督、大谷翔平投手

1974年の日本ハム初年度は最下位!

1973年11月19日に身売りされていた球団を日本ハムが買い取り、法人名「日本ハム球団株式会社」となった。
オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任した。

公募により選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters )」となった。
1974年の初年度の日本ハムの成績は、前後期ともに最下位で総合最下位に終わった。

一方で「安打製造機」の張本勲が自身7度目の首位打者獲得した。
その後、チームはフライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。
同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史が広島にそれぞれ移籍した。
日本ハムファイターズ時代の張本勲

日本ハムファイターズ時代の張本勲

その後の「日本ハムファイターズ」

1976年には大沢啓二が監督に就任し、見事1981年にファイターズ初のパ・リーグ優勝に輝いた。

1988年、後楽園球場の解体により、本拠地を東京ドームに移転。1989年以降は近藤貞雄や土橋正幸が監督に就任するも低迷期に入る。

1993年に大沢啓二が監督に復帰すると優勝争いに絡み、2位となる。1994年、最下位となり大沢啓二が辞任。最終戦で大沢はファンの前で土下座している。

1995年以降も何度か優勝争いに加わるも、最高順位は2位だった。上田利治が監督に就任。

2003年、球団初の外国人監督として、トレイ・ヒルマンが監督に就任。

2004年、フランチャイズを北海道札幌市へ移転。「北海道日本ハムファイターズ」に名称変更。
大沢親分こと大沢啓二

大沢親分こと大沢啓二

1976年頃
1993年には流行語「親分」で、大衆語部門・金賞を受賞...

1993年には流行語「親分」で、大衆語部門・金賞を受賞した大沢啓二

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