巨大ヒグマと戦った“熊殺し”の男、ウィリー・ウィリアムス
2017年10月22日 更新

巨大ヒグマと戦った“熊殺し”の男、ウィリー・ウィリアムス

大山倍達といえば“牛殺し”で有名。しかし、そんな伝説の空手家をも凌ぐ“熊殺し”の快挙を成し遂げた男が、大山が設立した極真会館からかつて誕生したのをご存知でしょうか?今回は、そんな“熊殺し”の男・ウィリー・ウィリアムスについて紹介していきます。

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強すぎるヒグマ。人間は太刀打ちできないはずだけど…

ヒグマのスペックをご存知でしょうか?

体調はオスの成獣で2~3m、体重は200kg~500kg。最大時速は50キロ(全盛期のウサイン・ボルトで時速44キロ)で、100メートルを7秒台で駆け抜けます。全身は筋肉の鎧でありながらネコのようにしなやかで、木登りも得意、そして爪と牙は包丁のような鋭さ…。
ヒグマ

ヒグマ

言うまでもなく、人間が太刀打ちできる要素は何一つありません。出会わないことを祈るのみです。ネット上では「クマの倒し方」なるマニュアルが出回っていますが、どう考えても組み伏せることなど不可能。仮に遭遇したら、刺激しないように逃げるだけです。そんなクマに異種格闘技戦を挑んだ無謀な格闘家が、本稿で紹介する極真会館の空手家、ウィリー・ウィリアムスです。
お馴染みクマの倒し方の図解

“総帥”大山倍達は、牛を47頭も屠った!

極真会館の創設者といえば、マス大山こと大山倍達。彼が“牛殺し”の異名を持つことはあまりにも有名。自伝などで語り継がれるところによると、素手で47頭の牛を倒し、うち4頭を即死させたと言われています。
1954年(昭和29年)には映画『猛牛と戦う空手』として、実際の映像も公開されているのですが、どう控えめに見ても、編集マジックをつかっているようにしか見えません。まぁ、仮に倒していなかったとしても、角の生えた牛の前に立ち、攻撃を仕掛けただけでも、常人にはできないことですし、たいしたものだと言えるでしょう。

牛と闘う大山館長

杉板の試割り26枚という当時の記録も持っていたウィリー

ウィリー・ウィリアムスは、そんな総帥が行った異種格闘技戦を超える伝説を打ち立てようとしたのでしょうか。
1950年にアメリカ合衆国・ノースカロライナ州に生まれたウィリーは、8歳でストリートファイトの世界に身を置き、荒くれ者たちとの闘争の中で五体を磨いていきます。その後、極真会館コネチカット支部に入門。大山倍達の弟子・大山茂の指導を受けメキメキと頭角を現していき、1979年には杉板の試割り26枚という当時の世界最高記録を樹立。

1980年には、アントニオ猪木に「格闘技世界一決定戦」と銘打った異種格闘技戦を仕掛け、あの伝説のモハメド・アリ戦をも凌ぐ死闘を繰り広げたというから、やはりこの男、只者じゃありません。

熊殺しウィリー・ウイリアムス 対 アントニオ猪木

そんな剛の者・ウィリーの仕掛け人を買って出たのが、ご存じ・梶原一騎。極真会館の総帥・大山倍達とは1954年からの知己であり、その強さ・優しさ・孤独すべてに惚れ込んだ結果、1971年に漫画『空手バカ一代』のプロジェクトを主導。マス大山と極真空手の凄さをドラマチックに伝えた同作の影響は凄まじく、連日50人から100人の入門志願者が極新会館へ押し寄せたといいます。

こうした極真空手の魅力に取り憑かれていた頃の梶原にとって、身長196センチ・体重100キロの巨躯で怪力を誇ったウィリーは、ロマンと創作意欲が掻き立てられる存在だったに違いありません。実際、梶原原作の漫画『四角いジャングル』においてウィリーは、人間離れした腕っぷしと獣心を持つ怪人として描かれており、いささか脚色が過ぎるような気もします。しかし、漫画の世界では脚色してナンボだし、キャラが起ってナンボ…。

そんな思想性を三次元に持ち込んだかのような企画が、梶原一騎制作の実写映画『地上最強のカラテPART2』における、ウィリーと巨大なグリズリーとのバトルでした。

実録!ウィリー・ウィリアムスvs2メートル45センチのヒグマ

前置きが大変長くなりましたが、まずは映像をご覧になってください。

ウィリー・ウィリアムスvsヒグマ

相手のヒグマは、体長2メートル45センチ、体重320キロ。むろん、普通の人間が敵うはずもありません。にもかかわらず映像の中のウィリーは、この猛獣を素手で圧倒しているではありませんか!「爪と牙を抜かれている」「レスリング・ベアという調教されたクマだった」「鎮静剤で弱らせている」など、さまざまな疑惑があるのは事実です。しかし、仮に周りのオトナたちがどれほど八百長めいたお膳立てをしていようが、おそらく、ウィリーだけはガチ。
「熊と闘うシーンを撮影した時は、一発勝負なので大変だったよ。スタッフは熊を見た途端、逃げ出してね。皆、怖がってうろたえていた。僕にも恐怖心はあったが、僕の方がパワーがあると思っていた。だから熊を制することができたのさ!」
こんなふうに語っているのだから、きっと、自分がほんとうにクマに勝ったと信じているのでしょう。もし、彼が“共犯者”だったとしても、いろいろな細工が施されているとはいえ、クマの前に立つというリアルを演じただけでも、賞賛すべきだといえるのではないでしょうか。

なお、現在は空手のコーチの傍ら、木彫り職人をやっているというウィリー。彼のつくった「木彫りの熊像」なら高値が付くに違いありません。
(こじへい)
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