アントニオ猪木の燃える事件簿1  プロレスラー時代編
2016年12月19日 更新

アントニオ猪木の燃える事件簿1 プロレスラー時代編

1960年代にプロレスラーになってから、1989年に国会議員になるまでのアントニオ猪木のまとめ。 「プロレスこそすべての格闘技の頂点」、「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」というストロングスタイルのプロレスで、人々を熱狂させ、現在の総合格闘技の源流となる異種格闘技戦を行った燃える闘魂の事件簿。

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力道山

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1943年2月20日、アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区で生まれた。
家は石炭問屋を営んでいた。
寛至が5歳のときに父親が死去。
時代の流れは、石炭から石油へ移行し、猪木家は石炭問屋を廃業。
寛至が13歳のとき、祖父、母親、兄弟でブラジルへ移住した。
その渡航中、船上で祖父は死去した。
ブラジルのサンパウロ市近郊の農場に着いた翌朝の5時にラッパの音で起こされ、夕方5時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事に従事した。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないという契約だった。
転機はサンパウロで興業を行っていた日本プロレスの力道山が猪木に目をつけたときだった。
猪木の噂を聞いた力道山は、猪木を呼んでいった。
「おい、裸になれ。」
そして猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ。」
そして
「3年でモノにしてみます。」
といって自身の付き人として日本につれて帰った。
そして日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端ではなかった。
猪木、馬場達、若手の連中が一同に並び行うスクワットによって、流した汗は湯気と水溜りとなった。
倒れれば容赦ないゲキと竹刀が飛んだ。
猪木は5ヶ月のスパルタ教育に経てデビューを果たした。

猪木とジャイアント馬場は、同じ日に入門し、同じ日にデビューした。
しかし力道山の2人への接し方は違った。
ジャイアント馬場は、プロ野球出身で、知名度もあり肉体的にも恵まれていた。
力道山の付き人を経験せず、すぐにアメリカ遠征に出され給料も出た。
猪木は、朝から夜の遊びまで付き人をさせられ、力道山は目の仇のように厳しく育てた。
例えば、猪木が力道山にリングシューズを履かせるとき、ちょっと紐の掛け違っただけで殴り蹴飛ばしたり、灰皿を投げつけたり、人前で靴を履かせて履かせ方が悪いと靴べらで顔を殴ったり、飼い犬を番犬として教育する際の実験台にしたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり、意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、「声を出すなよ」といってアイスピックで刺したり、素人に猪木をサンドバックとして殴らせたりした。

東京プロレス旗揚げ-倒産、日本プロレス復帰-追放

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1963年12月15日、力道山が死去。
1964年、猪木はアメリカへ武者修行。
1966年、
「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」
と猪木は東京プロレスを旗揚げしたが、3か月で破産し日本プロレスに戻った。

BI砲  ジャイアント馬場&アントニオ猪木

日本プロレス復帰後、馬場とタッグを組みBI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。
シングルでもUNヘビー級王座を獲得。
そして猪木は、力道山の生前、16戦全敗だった馬場との直接対決を要求した
しかしそれは叶わなかった.。
また猪木は、日本プロレスの不透明な経理に対して不信感を抱いた。
こうして確執が深めた猪木は、1971年に日本プロレスから追放処分を受けた。
猪木の除名を発表した記者会見後、日本プロレス事務所では、選手会によるビール乾杯が行われた。

倍賞美津子と結婚

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1971年11月、猪木は倍賞美津子と結婚した。
1億円の結婚式は話題になった。
猪木は、これより前、アメリカ武者修業時代に、アメリカ人女性と結婚し、離婚。
2度目の倍賞美津子との結婚は17年位続いたが、2人共に浮気があり離婚。
そして1989年に、22歳年下の女性と3度目の結婚をしたが、再び猪木の浮気により離婚した。

新日本プロレス

新日本プロレスを旗揚げ戦 猪木 vs カール・ゴッチ
1972年1月26日、猪木は新日本プロレスを旗揚げ。
社長は猪木で、専務取締役兼営業本部長は新間寿だった。
新間寿は、中央大学に入学後、柔道部に所属しつつ日本プロレスの道場にボディビル練習生として通った。
大学卒業後、マックスファクター(化粧品メーカー)でサラリーマンをしていたが、猪木と共に東京プロレスの立ち上げた。
東京プロレスは3ヶ月で倒産したため、新間は小来川鉱山鉱夫、ダイナパワーセールスマン、寿屋パン店の経営を経て、そして新日本プロレスに入った。
旗揚げ戦で猪木はカール・ゴッチと対戦。
15分10秒、猪木の卍固めをはずしたゴッチがリバーススープレックスから押さえ込んだ。

スタン・ハンセン入場

当初、新日本プロレスの経営は苦しかった。
全日本プロレスの圧力で有名外国人プロレスラーは呼べなかったため、無名の外国人選手を発掘し招聘した。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどは後にスター選手となった。
新間寿

新間寿

そして新間寿は企画で勝負した。
大物日本人対決、遺恨試合、実力世界一決定戦など、これまでタブーとされていた試合や奇抜で魅力ある試合をマッチメイクしファンの心をつかんだ。
新間は「過激な仕掛け人」と呼ばれ、ブーム時、新間はレスラー並の人気があり、「Cash on delivery(現金払い」という新間寿本部長のテーマ曲まであった。
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