すっかり監督のイメージが定着した森保一。日本代表監督候補の筆頭にまでなった「ポイチ」
2012年から監督を務めたサンフレッチェ広島で3度のリーグ優勝を果たし、「FIFAクラブワールドカップ2015」では3位にまで導いた若き名将・森保 一(もりやす はじめ)。
現在はU-23サッカー日本代表を率いて、さらに先のロシアワールドカップでは日本代表のアシスタントコーチとして西野朗監督を支え、チームのグループリーグ突破に貢献しました。
現在はU-23サッカー日本代表を率いて、さらに先のロシアワールドカップでは日本代表のアシスタントコーチとして西野朗監督を支え、チームのグループリーグ突破に貢献しました。
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サンフレッチェ広島時代は前任のペトロヴィッチ監督の可変システムを継承し、さらに自分の色を付け加えてチームを常勝軍団へと進化させました。
その手腕の一方で、氏名の漢字から付けられたあだ名は「ポイチ」。なんとも愛くるしいあだ名となっています笑
本稿では2018年7月14日現在、次期日本代表監督も噂される森保のサッカー人生をまとめてみようと思います。
その手腕の一方で、氏名の漢字から付けられたあだ名は「ポイチ」。なんとも愛くるしいあだ名となっています笑
本稿では2018年7月14日現在、次期日本代表監督も噂される森保のサッカー人生をまとめてみようと思います。
オフトに見出された森保の視野の広さ。「ドーハの悲劇」を経験した無名の選手!
1993年10月28日は、日本サッカー界が直前で世界への扉を閉ざされた「ドーハの悲劇」が起きた日です。この時のアメリカワールドカップ最終予選には、カズやラモス、柱谷、中山、福田というまさに日本を代表する選手たちが招集されていました。
そこに彼らでさえ、名前を知らない選手がひとり招集されていました。それが森保でした。
そこに彼らでさえ、名前を知らない選手がひとり招集されていました。それが森保でした。
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森保は1987年に長崎日本大学高等学校から、現在のサンフレッチェ広島の前身であるマツダにテスト生として入団します。そこで監督をしていたハンス・オフトと出会います。そう後の日本代表監督ですね。
当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていましたが、オフトに運動量と視野の広さを見出され、その後のプロ契約へと繋がっていきます。途中、チームの二部降格によりオフトは退団しますが、ビル・フォルケスコーチに育てられたそうです。
当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていましたが、オフトに運動量と視野の広さを見出され、その後のプロ契約へと繋がっていきます。途中、チームの二部降格によりオフトは退団しますが、ビル・フォルケスコーチに育てられたそうです。
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そして、オフトが1992年に日本代表監督に就任するとすぐさま日本代表に招集されました。長崎日大高時代には攻撃的なMFとして山梨国体選抜に選ばれるなどしていましたが、全国的には無名選手の森保を、オフトが大抜擢の形でワールドカップ初出場を目指す日本代表に引き入れます。
同じサンフレッチェ広島のチームメイトである”アジアの大砲”こと高木琢也とGK前川和也の二人以外は、森保の漢字を読めなかったそうです。ちなみに調べたところ、森保という名字は現在全国におよそ700人しかいません。珍しい部類に入る名字かと思います。
話は脱線しましたが、オフトの大抜擢に応えるように森保は日本代表でメキメキと頭角を現していきます。
話は脱線しましたが、オフトの大抜擢に応えるように森保は日本代表でメキメキと頭角を現していきます。
森保は「オフトサッカーの申し子」と呼ばれ、「ボランチ」が広く知られる事に!
1992年5月のオフトジャパン初戦となったアルゼンチン戦で先発初出場を果たした森保。試合は0-1で敗戦しますが、対戦相手のアルフィオ・バシーレ監督とFWカニージャから、森保を指して「日本にはいいボランチがいる」と高く評価されました。
これにより「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴び始めます。ボランチとは、主に後方のMFが務め、攻守の要となる、舵取りの役割をも担う選手の事です、今日のサッカーでいえば柴崎や遠藤といった選手が挙げられます。
以降、オフト監督の採用した4-4-2のシステムでは、いわゆる中盤の底を務めた森保。ラモスと福田ら攻撃的陣を、後方でクレバーに支え「オフトサッカーの申し子」と呼ばれるまでに成長しました。
これにより「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴び始めます。ボランチとは、主に後方のMFが務め、攻守の要となる、舵取りの役割をも担う選手の事です、今日のサッカーでいえば柴崎や遠藤といった選手が挙げられます。
以降、オフト監督の採用した4-4-2のシステムでは、いわゆる中盤の底を務めた森保。ラモスと福田ら攻撃的陣を、後方でクレバーに支え「オフトサッカーの申し子」と呼ばれるまでに成長しました。
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当時ワールドカップが”夢の舞台”でしかなかった日本代表でしたが、オフト監督がその手腕を発揮し、ダイナスティカップやアジアカップ優勝に導きます。カズなどの豪華タレント陣の陰で、森保は名ボランチとして守備的な仕事をこなして貢献しています。