高速スライダーの元祖、伊藤智仁のあまりに短い野球人生
2022年6月5日 更新

高速スライダーの元祖、伊藤智仁のあまりに短い野球人生

伊藤智仁投手は、1992年ドラフトでヤクルトスワローズに1位入団をした選手。入団後すぐから大活躍を見せ、ヤクルトにはなくてはならない選手になっていきます。右打者の背中にぶつかりそうなところから、外角にいっぱいに決まる。そんな高速スライダーを武器に、打者をバタバタと切って取っていったのです。

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伝説の「高速スライダー」見参

【これは打てない】全盛期の伊藤智仁のスライダー

1992年に開催されたバルセロナオリンピック、その野球日本代表にも選出された伊藤智仁は、1大会27奪三振のギネス記録を作ります。アメリカとの3位決定戦でも先発し、日本の銅メダル獲得に貢献しました。その年のドラフト会議では、1位指名で3球団競合の末にヤクルトスワローズが獲得します。

伊藤智仁のルーキーイヤーとなる1993年、アリゾナのユマキャンプでのこと。実際に伊藤を見た野村克也監督は、その驚きによる喜びと興奮を隠すことができなかったそうです。ヤクルトスワローズの監督に就任して4年目。これほどの新人投手を見たことがありませんでした。と言うか、長いプロ野球人生において、ここまで完成された投手に出会ったことがなかったのです。キャンプ開始後の数日で、野村監督は、屈指の名投手が入団したと確信していました。

すぐにプロで通用する

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後に、セ・リーグの強打者連中をきりきり舞いさせることになる高速スライダー。その魔球を見事に操る使い手こそが、新人右腕伊藤智仁だったのです。その実力は野村監督の想像以上でした。長いプロ野球人生において、一、二を争うスライダーの持ち主と感嘆するほどの逸材に、興奮しないはずがなかったことでしょう。

野村監督が初めてキャンプで伊藤のボールを見た際、普通なら投手の魅力はストレートの威力ということで、ストレートに惚れるものですが、この伊藤の場合は違いました。スライダーの素晴らしさに驚愕したのです。初めて見てすぐに、すごいスライダーを投げると驚き、同時に、すぐにプロで通用するなとも思ったそうです。

いきなりの大活躍が

ヤクルト伊藤智仁 新人時代

指揮官が見立てた通り、伊藤智仁は見事な活躍を披露します。イースタン・リーグ開幕戦では、同年のドラフト1位で巨人の入団した松井秀喜にホームランを打たれて敗戦投手になりますが、一軍昇格後の4月20日には初登板の先発で、7回を10奪三振2失点で勝利投手に。150km/hを超えるストレートと打者の手元で真横に滑るように曲る高速スライダーを武器に、投球回を上回る三振を奪います。その結果、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91という素晴らしい成績を挙げたのです。

6月9日の対巨人戦では8回まで無失点で、その上にセ・リーグタイ記録となる16奪三振を奪っていました。しかし0-0で迎えた9回裏二死から、篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けに。負け試合における1試合16奪三振は、このケースが初めてでした。そして運命の7月4日の登板を最後にして戦線を離脱することになります。捕手をしていた古田敦也は、9回の先頭打者を討ち取った際に異変を感じていました。後に、伊藤を交替させるべきだったと語っています。

そしてその年のシーズン終了まで、伊藤の1軍復帰は叶いませんでしたが、前半だけの記録で新人王を受賞。それほどまでに、強烈な印象意を与えていたのでしょう。特に、6月だけで5試合に先発して投球回数は49回2/3、実に694球も投じられていたのです。規定投球回には届きませんでしたが、防御率0点台の新人王は伊藤と2021年の栗林良吏のみの2人だけなんですよ。

マウンド上で仁王立ち

伊藤智仁 江川が絶賛する完璧なフォーム

伊藤智仁の高速スライダーは、本当によく曲がった、女房役を務めた古田敦也は語ります。他の投手とは明らかに腕の振りが違うとか。佐々木主浩や野茂英雄の場合、頭の上で手首を返してからひじが落ちてきます。しかし伊藤の場合は、打者の手元に近づいてきてもまだ投げないとか。球持ちの良い投手は打ちにくいと言われますが、伊藤の場合は更なる球持ちがあったそうです。

古田が、直角に曲がると称した高速スライダー、瞬く間に日本球界の注目の的となりました。各チームの名だたる主力打者が手も足も出ないんです。まさに鬼神、圧倒的存在感を漂わせる伊藤智仁が、マウンド上で仁王立ちしていました。

登板過多の代償

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しかし、登板過多の代償が伊藤を襲います。7月4日の巨人戦で137球を投げ続けた伊藤は、試合中に右ひじを負傷していたのです。そして、残りのシーズンを棒に振ることに。その時は伊藤自身も、アマチュア時代にひじを故障などなかったので不安はありましたがすぐに治ると思い込んでいて、シーズン後半の復帰を目標にリハビリに励んでいました。

結局、この年の復帰はできませんでしたが、シーズン序盤における大切な時期の活躍で、伊藤はチームの日本一にも貢献したのです。更に、この驚異的な記録が評価され、あの松井秀喜を抑えて新人王にも輝きました。実働は僅か3カ月弱しかなかったのですが、前半戦に見せた鮮烈な閃光は、ファンの胸に強烈に焼きついていたのでした。

さらなる試練

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野球の神様というのは残酷なもので、伊藤に更なる試練を与えます。右ひじの回復の兆しが見えていた2年目の春キャンプ、ここで新たに右肩を故障したのです。結局、復帰できたのが2シーズンを棒に振った後の1996年。翌1997年には、リリーフ役でチームの日本一にも貢献、カムバック賞も獲得したのですが、その後の伊藤智仁のプロ野球人生は苦難の連続でした。1999年には血行障害で右肩にメスを入れます。右腕は常に冷たい状態で、血圧測定の際には、なんと「0」が記録されていたのでした。

そんな訳で、2001年にも改めて右肩の手術に挑みました。実際は、手術をしても完治の保証はありません。それでも、何もしないよりはましと僅かな望みに賭けなければならないほど深刻だったのです。他の人にはない可動域を誇っていた右肩だからこそ誕生した高速スライダー、その半面で故障を誘発しやすい諸刃の剣でもあったのです。

たび重なる故障から引退に

【伊藤智仁】引退試合での投球

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