デカくてハミ出てしまう男 篠原信一(2)  加齢なる転身
2021年11月20日 更新

デカくてハミ出てしまう男 篠原信一(2) 加齢なる転身

悲劇の銀メダリスト、篠原信一は、母校で指導者となり、数年後、日本代表監督に抜擢されると大いに盛り上げたが、最終目標、ロンドンオリンピックでは日本男子柔道史上初の金メダルゼロの悪夢。その後、華麗ではない加齢なる転身を図る。

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篠原信一は、シドニーオリンピックを悲劇的な銀メダルで終えた。
「大学に戻って来い」
天理大学柔道部監督、正木嘉美にいわれたが
「いや、無理っす」
と断った。
大学で教員になれば、教壇に立って授業をしながら柔道部を指導することになる。
勉強をまったくしてこなかった篠原信一は、自分に先生ができるはずがないと思った。
しかし正木嘉美は続けた。
「お前はどこで強くなったんや?」
「天理です」
「じゃあ、後輩を強くして恩返ししろ」
結局、天理大学の教員となり、柔道部の監督に就任。
教員としては体育学部の学生に柔道を教え、実技はもちろん、図書館で情報を収集したり、動画を編集したりしてパソコンとプロジェクターを使って講義も行った。
柔道部では自ら相手をした。

JUDO 2001 All Japan: Kosei Inoue 井上 康生 (JPN) – Shinichi Shinohara 篠原 信 (JPN)

「柔道はシドニーでやめる」
と決めていた篠原信一だったが、
「勝ってからやめないと後悔するぞ」
と斎藤仁にいわれ、練習を継続。
しかしそれはしぶしぶ身の入らない稽古だった。
2001年春、全日本体重別で優勝し、5連覇達成。
しかし直後の全日本選手権(無差別)では決勝で井上康生に判定負け。
井上康生は、「最強の柔道家」と尊敬する篠原信一に3度目の対戦で初勝利し、初めて全日本チャンピオンになった。
秋の世界選手権で篠原信一は、準々決勝で、アレクサンドル・ミハイリン(ロシア)に開始早々、隅返で敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位。
また国体成年男子の部に奈良県代表として出場し、準決勝で内股すかしで敗れた。

JUDO 2003 All Japan: Keiji Suzuki 鈴木桂治 (JPN) - Shinichi Shinohara 篠原 信 (JPN)

2003年、全日本選手権(無差別)に出場。
約1年半ぶりの試合だったが、準決勝で鈴木桂治に判定負けし、3位。
「やっぱり追い込んだ練習をしないと勝てないんだ」
と納得し、晴れ晴れとした気持ちで現役を引退。
以後、指導に専念した。
自身が3年生のとき以来、天理大学は全国大会で優勝できていない。
「ほな、俺がさせたろ」
そんな気持ちを持ちながら、教員としても柔道部監督としても充実した生活を送った。
東京の講道学舎にいた大谷将平をスカウトしたのもこの頃の話である。
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指導に専念し始めて数年後、斎藤仁が天理大学にやって来て、突然
「篠原、全日本の監督をやれ」
といわれた。
篠原信一は
「無理っす」
と答えた。
全日本の監督になれば天理大学の監督はやめなければいけない。
篠原信一は全国優勝に向けて頑張っている途中で、それを投げ出すわけにはいかないと説明。
それでも斎藤仁は
「やれ」
といい続け、最後に
「まあ考えておけ」
といって帰っていった。
数週間後、斎藤仁が全柔連の強化委員長、吉村和郎を伴って再びやってきた。
「お前、監督やれ」
という吉村和郎に篠原信一は全日本代表でコーチ経験もない自分に監督なんて務まらないと断った。
「いいからやれ。
お前の好きなようにやれ」
「ゴチャゴチャいうな。
男らしく腹決めろ」
強引な2人をなんとか送り帰したが、
「断ることなんてできるんやろうか?」
と思った。
果たしてしばらくすると斎藤仁から呼び出しを喰らい、告げられた日時にその場所に行くと、記者会見が用意がされていた。
「新しい監督を発表します」
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2008年11月、篠原信一は男子全日本代表監督となってロンドンオリンピックに向けて強化を始めた。
シドニーオリンピックで男子柔道は、金メダル3つ、(篠原信一が獲った)銀メダル1つ。
アテネも金3つ、銀1つ。
北京では金2つ。
「日本柔道は弱くなった」
「次回のロンドンオリンピックでは金メダル0もあり得るのでは・・・・」
「Xデーはいつだ」
と世間にいわれ全柔連も危機感を持っていた。
篠原信一は北京オリンピックを解説者として現地でみて
「変わってきているな」
と感じていた。
自分が現役の頃は、5分という試合時間の中で3分を過ぎると外国人選手の息が上がり始め、日本人選手はそこから攻め上げた。
そういった粘り強さこそ日本の強さだと思っていたが、北京では日本選手は外国人より先に息を切らしてしまい、後半に投げられてしまっていた。
「まずは体力を何とかしないといけない」
試合時間は5分間、ゴールデンスコア(延長戦)までフルに戦えば8分間。
8分×5試合=40分。
まずこの時間、試合で攻め続けられる体力をつけることをテーマとした。
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前任の斎藤仁は選手の自主性を重んじ、合宿で選手たちの要望を受け入れて朝のランニングを廃止することもあった。
しかしその話を聞いたとき、篠原信一は
「お前らホンマに金メダル獲る気あるのか?」
と思ったという。
そして自分が監督になると代表合宿の数を増やし、メニューも大幅に変えた。
朝食前の走り込みも復活させ、5kmのランニングの後、400mと800mのインターバル走。
ダラダラ走っている者がいれば容赦なく蹴りを入れた。
気迫や粘りが足りない練習をみると大声で
「アホ」
「ボケ」
「ダボ」
「なにやっとんじゃ!」
山下康裕や斉藤仁が監督やコーチをしていた時代には考えられなかったことだった。
科学的データに基づいたトレーニングとコンディショニング、選手のモチベーションを上げるメンタルマネジメント、階級ごとに海外選手の研究と対策、そういったことはなしにして、ひたすら厳しい稽古とトレーニングで限界まで追い込むのみ。
当然、
「あまりに根性論過ぎる」
「もっと科学的にトレーニングをやるべきだ」
「長期的なビジョンがない」
とクレームが出たが
「ついてこれない奴は出ていけ」
と突き放した。
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一方、練習後は積極的にコミュニケーションを図り、選手と一緒にメシに行くと対等な立場で話し、男同士で盛り上がった。
妻帯者には
「奥さんと仲ええの?」
彼女持ちには
「ちょっと写真みせろ」
お独り君には
「どんな子がタイプなん?」
と話しかけ、その後、得意の下ネタに持ち込み、1本級の爆笑を量産していった。
小学校時代、「うしろの百太郎」というマンガを読んで以来、篠原信一は幽霊が苦手だった。
地縛霊やコックリさんの話を読んだその日の夜は頭まで布団をかぶって寝た。
代表合宿でも夜、押入れから
「カタカタッ」
と音がしたため
「おい、穴井、起きろ」
と同部屋の100kg級日本代表、穴井隆将を無理やり起こし確認させた。
「何もないですよ」
穴井隆将はまったく気にせずに寝たが、篠原信一は一睡もできなかった。
「襟でもつかめたら大外刈りかましたるのに・・・」
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2009年1月、国際柔道連盟は「世界ランキング制」を導入した。
主要な大会の成績に応じポイントを与え、その合計ポイント数によって世界ランキングを決定。
男子はランキング上位22名、女子は14名がオリンピックの出場権を得るというシステム。
日本の場合、オリンピックに出場するためには、全日本選手権(無差別)、全日本体重別選手権、世界選手権で勝つことが条件だったが、ランキング制の導入によって国際試合に出てランクを上げることが必要になった。
必然的に出場試合数が増え、特に減量がある選手はキツくなった。
その上、外国のナショナルチームに比べ、日本は代表合宿の数が多かった。
そして篠原信一はトコトン追い込む練習を行ったので、オーバーワークやスランプに陥る代表選手が続出。
ケガを抱えたまま、数ヵ月間、合宿と試合に出続ける選手もいた。
「スランプ(Slump)」は本来、経済用語。
需要が高まって価格が暴騰することをブーム(景気)、逆に暴落することをスランプ(不景気)というが、スポーツでは、心身のコンディション不良や練習や試合で成果が出ないときにいわれる。
その原因の多くが、オーバーストレス(オーバーワーク)
日々の苦しいトレーニングや練習、ウエイトコントロール、ストイック(禁欲的)な生活、目標達成のプレッシャーなど様々なストレスに心身が蝕まれているケースが多い。
心身のストレスレベルが高まると心身に悪影響をもたらし、練習効果の停滞やパフォーマンス低下が起こる。
すると焦燥感や不安、自己嫌悪、罪悪感などネガティブな感情が起き、さらにオーバーワークを起こし、練習効果の停滞、パフォーマンスの低下を引き起こすという悪循環に陥る。
この状態がスランプ。
トレーニング&レスト(休息、休養)バランスが重要視される所以だが、男子柔道日本代表のランキング制への対応の遅れを指摘する声が国内の指導者からも上がっていた。
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2009年8月26~30日、オランダのロッテルダムで世界選手権が行われた。
篠原信一にとって初陣となるこの大会で、日本男子代表は、

60kg級、平岡拓晃、銀
66kg級、メダルなし
73kg級、メダルなし
81kg級、メダルなし
90kg級、メダルなし
100kg級、穴井隆将、銅
100kg超級、メダルなし

と金メダルなしという歴史的敗北。
100kg超級の棟田康幸は、
「待て」
がかかった後、引き落とされ、左肩を痛め、その後、右大大腿裏も故障し、立つのがやっとの状態となり、戦う姿勢をみせられず、4度の「指導」を受けて反則負け。
100kg級の穴井隆将は準々決勝で負け、敗者復活を勝ち上がって3位。
全7階級で決勝に進んだのは平岡拓晃だけだった。
平岡拓晃を除いて、日本選手に勝った外国人選手の中で、優勝した選手は0人。
つまり日本人選手は、格下といわれる選手に負けたケースが多かった。
11月、講道館杯が行われ、篠原信一が代表選手に出場を義務づけたため、全7階級に全柔連の強化指定選手、13人が出場。
13人の中で優勝したのは2人だけ。
穴井隆将が初戦で1本負けするなど世界選手権に出た6人の中に優勝者はなかった。
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2010年5月、篠原信一は奈良を離れ、都内で単身赴任を始めた。
この年の世界選手権は日本開催。
東京の国立代々木競技場で行われ、フジテレビによって中継放送されるため、篠原信一も積極的にPR活動に起用された。
あるバラエティー番組にも出演したとき、全裸で合宿先の風呂場を紹介し、選手のアソコにかかったボカシには「重量級」と書かれたが、篠原信一は「軽量級」と書かれてしまった。
9月9日~13日、世界選手権が行われ、昨年、金メダル0だった日本男子代表は、

60kg級、平岡拓晃、銅
66kg級、森下純平、金
73kg級、秋本啓之、金
81kg級、高松正裕、銅
90kg級、西山大希、銀
100kg級、穴井隆将、金
100kg超級、メダルなし
無差別級、上川大樹、金

と新鋭の活躍が光り、最大のメダル獲得数を記録した。
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