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ロンドンオリンピックで男子柔道は、7人の代表のうち4人が世界選手権で優勝しており、金メダルを何個獲得できるか注目されていた。
しかし結果は
60kg級 平岡拓晃 銀
66kg級 海老沼匡 銅
73kg級 中矢力 銀
81kg級 メダルなし
90kg級 西山将士 銅
100kg級 メダルなし
100kg超級 メダルなし
と史上初の金メダル0個。
1964年に正式競技になった東京オリンピック以来、男子柔道が金メダルを獲れなかったことは1度もなかった。
100kg、100kg超級という最強のクラスで日本選手が共に2回戦で敗退したことも衝撃的な出来事だった。
山下泰裕は
「最低の結果。
この事実を真摯に受け止め、ゼロからつくり上げていかないと、なかなか上がれないでしょう」
と語った。
帰国後、篠原信一は叩かれた。
オリンピックイヤーに11回も合宿を行ない、オーバーワークによってケガをする選手が続出させたことを問題視され、
「篠原信一の精神主義が敗因」
という意見もあった。
篠原信一は代表監督を辞任。
選手としても監督としてもオリンピックの金メダルには縁がなかった。
「もちろん選手に勝ってもらいたいと、しっかり練習はさせていたと思う。
でも練習する環境は整えてやるから、あとは勝ちたかったら自分でやれよという感じだったのがいけなかった。
例えば自分は、『内股は、ガッと引き出して、タタンッと入って、バシッと投げるねん!』とか『釣手をつかまれたらはじいて技をかけたらいいやろ』という指導だったけど、井上康生は『何でかわかる?』と選手に聞き、理解・納得してやらせるという指導をしていた」
しかし結果は
60kg級 平岡拓晃 銀
66kg級 海老沼匡 銅
73kg級 中矢力 銀
81kg級 メダルなし
90kg級 西山将士 銅
100kg級 メダルなし
100kg超級 メダルなし
と史上初の金メダル0個。
1964年に正式競技になった東京オリンピック以来、男子柔道が金メダルを獲れなかったことは1度もなかった。
100kg、100kg超級という最強のクラスで日本選手が共に2回戦で敗退したことも衝撃的な出来事だった。
山下泰裕は
「最低の結果。
この事実を真摯に受け止め、ゼロからつくり上げていかないと、なかなか上がれないでしょう」
と語った。
帰国後、篠原信一は叩かれた。
オリンピックイヤーに11回も合宿を行ない、オーバーワークによってケガをする選手が続出させたことを問題視され、
「篠原信一の精神主義が敗因」
という意見もあった。
篠原信一は代表監督を辞任。
選手としても監督としてもオリンピックの金メダルには縁がなかった。
「もちろん選手に勝ってもらいたいと、しっかり練習はさせていたと思う。
でも練習する環境は整えてやるから、あとは勝ちたかったら自分でやれよという感じだったのがいけなかった。
例えば自分は、『内股は、ガッと引き出して、タタンッと入って、バシッと投げるねん!』とか『釣手をつかまれたらはじいて技をかけたらいいやろ』という指導だったけど、井上康生は『何でかわかる?』と選手に聞き、理解・納得してやらせるという指導をしていた」
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翌年には天理大学の教員も辞めた。
理由は
「このままなんとなく柔道着を着たまま人生をなあなあで過ごしていくと、将来、元オリンピックメダリスト、しかも金ではないというどうしようもないジジイになってしまう!」
という危機感。
今までに人生に囚われない、何か新しいことをしようと、40歳にして廃棄物の会社「株式会社マイドス」を立ち上げた。
周囲には
「安定した収入捨ててもったいない」
「なんで大学の先生やめてまでゴミ屋やねん」
といわれ、嫁、幸世には
「アホか」
といわれ、自分でも自分に
「華麗ではない加齢なる転身」
と突っ込んだ。
この業種を選んだのは、同じ神戸、長田区出身の天理大学の先輩、そして育英高校の先輩、尊敬する2人の先輩が廃棄物回収業をしていたからだった。
許可関係が難しかったため、「マイドス」は事業系廃棄物の管理業。
1つの会社の廃棄物処理の窓口を一手に請け負う仕事だが、いきなりはできないので、1年間、先輩の仕事を手伝って、車でスーパーや市場を周って魚のアラを回収する作業をした。
回収車に乗るオリンピックメダリストをネガティブな目でみる人もいた。
しかし篠原信一はポジティブだった。
柔道を始めたのも、大学や日本代表の監督になったのも誰かに頼まれたり断れなかったから。
これまでは流されて生きてきたが、マイドスは人生で初めて自分からやりたいと思って始めたことだった。
理由は
「このままなんとなく柔道着を着たまま人生をなあなあで過ごしていくと、将来、元オリンピックメダリスト、しかも金ではないというどうしようもないジジイになってしまう!」
という危機感。
今までに人生に囚われない、何か新しいことをしようと、40歳にして廃棄物の会社「株式会社マイドス」を立ち上げた。
周囲には
「安定した収入捨ててもったいない」
「なんで大学の先生やめてまでゴミ屋やねん」
といわれ、嫁、幸世には
「アホか」
といわれ、自分でも自分に
「華麗ではない加齢なる転身」
と突っ込んだ。
この業種を選んだのは、同じ神戸、長田区出身の天理大学の先輩、そして育英高校の先輩、尊敬する2人の先輩が廃棄物回収業をしていたからだった。
許可関係が難しかったため、「マイドス」は事業系廃棄物の管理業。
1つの会社の廃棄物処理の窓口を一手に請け負う仕事だが、いきなりはできないので、1年間、先輩の仕事を手伝って、車でスーパーや市場を周って魚のアラを回収する作業をした。
回収車に乗るオリンピックメダリストをネガティブな目でみる人もいた。
しかし篠原信一はポジティブだった。
柔道を始めたのも、大学や日本代表の監督になったのも誰かに頼まれたり断れなかったから。
これまでは流されて生きてきたが、マイドスは人生で初めて自分からやりたいと思って始めたことだった。
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しっかり者の嫁、幸世が社長となって、1人の社員も雇わずに4人の子供を育てながら仕事をこなし、専務の篠原信一を
「なにも専務」
と呼んでいる。
2人でいるとき、篠原信一はほとんどずっとしゃべっているという。
車の中でも買い物しているときも、子供が寝た後も話し続け、
「うっさいわ」
「あんたアホか」
「黙れ、ボケ」
と突っ込まれている。
唯一の娘、海帆に篠原信一はデレデレで、3人の息子には厳格に接することもできるが、娘には嫌われたくないので何かあると
「お姉ちゃんにいうとけよ」
と嫁にいってもらっているという。
篠原信一は、人生で1番長続きしているのは「タバコ」、2番目は「柔道」、3番目「嫁」という。
ついにオリンピックの女神を微笑んでもらえなかったが、最強の女神様がついているようである。
「なにも専務」
と呼んでいる。
2人でいるとき、篠原信一はほとんどずっとしゃべっているという。
車の中でも買い物しているときも、子供が寝た後も話し続け、
「うっさいわ」
「あんたアホか」
「黙れ、ボケ」
と突っ込まれている。
唯一の娘、海帆に篠原信一はデレデレで、3人の息子には厳格に接することもできるが、娘には嫌われたくないので何かあると
「お姉ちゃんにいうとけよ」
と嫁にいってもらっているという。
篠原信一は、人生で1番長続きしているのは「タバコ」、2番目は「柔道」、3番目「嫁」という。
ついにオリンピックの女神を微笑んでもらえなかったが、最強の女神様がついているようである。
篠原信一 進撃のスパプー CM
via www.youtube.com