デカすぎてハミ出てしまう男 篠原信一(1) オリンピックすら凌駕するデカさ
2021年11月14日 更新

デカすぎてハミ出てしまう男 篠原信一(1) オリンピックすら凌駕するデカさ

史上最強クラスの強さでシドニーオリンピックに乗り込み、誤審により銀メダル。しかし一切、審判を批判せず「自分が弱いから負けた」の一言だけ。侍のような精神力的強さも見せつけた。

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篠原信一は、1973年1月23日生まれ、元SMAPの中居正広と同い年。
青森生まれ、神戸、長田区育ち。
両親は建設関連会社を営んでいて、2階建てのアパート、丸々一棟、全8部屋が自宅。
1階隅に両親、2階真ん中に祖父母、2階奥に篠原信一、その他の部屋には父親の会社で働く職人さんが住んでいた。
食事や風呂は両親の部屋に下りていき、終われば自分の部屋に戻るという生活スタイル。
各部屋にキッチンとトイレがあり、ドアも施錠できるため、プライバシーの保護はバッチリで
「1人でいろいろなことをたくさんすることができた」
という。
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少年時代から背が高く、学校で高いところにあるものをとるときや、手の届かないところを掃除するときに大活躍。
顔について
「顔、デカッ」
「顔、長ッ」
「馬っぽい」
といわれ続け、
「うるさいわ」
「ほっとけ」
と返していたが、やがて「どうでもエエわ」と思い始めた。
得意科目は給食。
家で宿題をしたことはなく、勉強はまったくできなかった。
しんどい事が嫌いで、スポーツにもまったく興味がなく、山下泰裕がロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲ったことすら知らなかった。
「学校帰りに友達と遊んで帰ってご飯を食べて寝て、また学校に行くという生活だったが、十分楽しく満足していました」
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中学校に入ったその年に柔道部ができて、180cmあった篠原信一は、怖そうな顧問に勧誘され、断れずに入部。
背は高いが筋肉がないヒョロヒョロの篠原信一は、投げられてばかりで、
「痛いわしんどいわ、柔道着はクサいわで、まったく柔道なんて好きになれませんでした」
と練習をサボりまくり、試合に出るとかんたんに負けた。
中学3年生のとき地区大会で3位になり、そのとき試合会場にいた育英高校柔道部監督、有井克己に
「うちに入って柔道やれ」
とスカウトされたが
「いや、俺、高校は行かへん」
と断った。
中学を卒業したら働いて、自分でお金を稼いで好きなことをしたいと考えていた。
しかし母親に進学を勧められ、成績的にいける高校が少なかった篠原信一は育英高校に進んだ。
育英高校柔道部は兵庫県でベスト8に入るくらい強く、篠原信一は、いつも投げられ、抑え込まれ、締められ、高校になると解禁になる関節技を極められた。
何度も辞めようと思ったが、有井克己が
「コイツやばいぞ」
と思うくらい半端なくコワかったので、辞めたいということができないまま、柔道の基礎を叩き込まれていった。
その結果、育英高校柔道部、創立91年目にして初の県大会優勝に貢献した。
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篠原信一は中学生の頃からタバコを吸っていたが、有井克己に見つかったとき、
「メガトンパンチを落とされた」
という。
それでも吸いたくて安全な場所を探した。
定番とされる体育館裏はバレやすく危険で、最終的に道場と同じ建物の中にあるトイレが穴場であることに気づいた。
そのトイレは鍵がかかっていて誰も来ないのでバレない。
鍵は有井克己の机の中にあって、スキをついてそれをとってトイレに入り、一服。
吸い終わったら鍵をかけ、机に戻すということを繰り返した。
ある日、いつものようにトイレにこもって満喫していると、突然ドアが開き有井克己が現れた。
「なにタバコなんか吸っとんじゃ!」
その後、教育的指導が行われた。
タバコの臭いに気づいた有井克己は、トイレの対面にあったシャワールームに潜んで待っていたという。
しかし結局、篠原信一はタバコをやめることができず、オリンピックに出たときも吸っていた。
いろんな人に、「やめろ」「吸うな」と散々いわれたが
「こんな美味しいもん、やめるなんてアホちゃう」
と思っていた。
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高校の最高成績は、団体戦全国5位、インターハイ2回戦進出。
卒業が迫ると、働いて好きなものを買って楽しもうと思っていたが、
「天理大学に行って柔道やれ」
と天理大学出身の有井克己にいわれると逆らえなかった。
天理大学柔道部は全国から強豪が集う名門。
監督は有井克己と同期の正木嘉美だった。
篠原信一はすぐに
「あ、ヤバいところに来てしまった」
と思った。
大学の入学式といえば基本的にスーツだが、天理大学柔道部には1年生新入部員は学ランを着るという伝統があり、篠原信一は坊主頭に学ランで入学式に参加。
道場は100人以上が汗だくになって練習してミストサウナかと思うほど熱気がこもっていた。
柔道の稽古は受け身、打ち込み、投げ込みなどいろいろあるが、1番白熱するのは「乱取り」といわれる試合形式の練習。
ボクシングでいうスパーリングだが、いかつい顔と体をした先輩が、目を血走らせながら乱取りをするのをみて、1年生の篠原信一はできるだけ目立たないようにしていた。
しかし道場で身長が1番高く目立つためか
「おい、そこの1年、ちょっと来い」
とよくお声がかかり、なすがままに投げられ、抑え込まれ、締められ、極められた。
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天理大学柔道部は全寮制。
4年生は王様、3年生、2年生は貴族、そして1年生は奴隷で先輩にこき使われた。
寮の掃除。
先輩の柔道着の洗濯。
洗濯機は全自動ではなく2層式で手間がかかった。
大きくて重い柔道着によって洗濯機が壊れると手で洗い、手で絞った。
そして「肩を揉め」といわれたらマッサージ。
「アイス買ってきて」といわれたら炎天下をダッシュ。
「おい、篠原」
といわれたら、基本的に断ることはできないのでハードな言いつけでないことを祈るだけ。
当初は
「おい、誰か1年いるか?」
とお呼びがかかれば、
「はい」
といって出て行っていたが、やがて部屋の中で寝たふりをするという技を身につけた。
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寮費はすべてコミコミで月26000円で、朝昼晩、3回、食事を用意してもらえた。
朝は白ご飯、みそ汁、漬物、そして山盛りの生卵。
卵は各自2個までで、生でも焼いても茹でてもOKというシステム。
しかし先輩が
「俺、卵4つ、半熟で」
「俺3つ、固めに焼いて」
とルールを無視するため、1年生は先輩の世話が終わった後、漬物と味噌汁で白飯をかきこんだ。
夜にカレーが出ても
「俺、肉大盛りで!」
と4年生から順番に肉をタップリ持っていき、3年、2年と減っていき、1年生はルーカレーになってしまう。
おかずが余ることはめったにないが、白飯は余ることがあった。
するとそれは1年生が夕食で平らげてしまわなければならなかった。
「篠原、今日はダブルな。
食って早く大きくなれ」
ダブルとは2つのドンブリにメシを入れてガチャンと合わせてマンガのような山盛り飯にすること。
背は高いが痩せていた篠原信一を重量級の体にするための先輩の愛情だった。
しかし白飯だけではなかなか食べ切れない。
すると先輩は
「これで食え」
と自分が食べ終わったカップラーメンの残り汁をダブルにかけた。
(食いたくねえよ)
篠原信一は心の中で毒づきながら完食。
こうして日々、練習、特訓、しごき、可愛がりが繰り広げられた結果、自分でもわからないうちに強くなっていた。
体も大きくなって、1年生で試合のメンバーに選ばれるようになった。
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篠原信一は大学時代を通して、練習の後に、飲み放題、歌い放題、時間無制限で3000円ポッキリのスナックに行くことが生きがいとなった。
「定食屋で600円を5回食べるより、スナックに1回行くほうが上」
と外食は我慢し、食事は必ず寮で済ませる。
実家から高級なウイスキーを黙ってもらってきて、スナックで2本の安いウイスキーと交換してキープボトル。
そこまでしてスナックにいきたい理由は2つ。
1つは道場で一緒に苦しい稽古をした仲間と、どうでもいいバカ話で盛り上がる時間が何物にも代えがたいものだったこと。
もう1つは、近くに看護学校があって、そこの学生もよく店に来ていたこと。
女子とキャッキャッやることが楽しかった。
酒、バカ話、女子によって稽古で強張った心身は気持ちよくほぐれていった。
寮には点呼があって25時には帰り、見回りの先生が去るのを確認して、またスナックに戻った。

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天理大学柔道部には2歳下に野村忠宏がいた。
後にアトランタ、シドニー、アテネとオリンピックで3大会連続金メダルを果たす天才柔道家。
豪快だが愚直な篠原真一に比べ、野村忠宏はスター性があり、女性ファンも多かった。
191cmと164cmの凸凹コンビは、階級がまったく違うため直接的なライバルではないが、妙に張り合い、妙に仲がよく、漫才コンビのようなやり取りで周囲を笑わせた。
野村忠宏のセンスや才能をみて篠原信一は、もっと練習するしかないと思ったという。
「才能の差は小さい、努力の差は大きい、継続の差はもっと大きいねん」
(篠原信一)
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後に嫁となる幸世とは、大学の授業で出会った。
幸世は、ハンドボール部に入っていて、年齢は1つ上。
学年をまたいで行われた授業で先輩に紹介された。
「第一印象は正直、特にかわいいとは思いませんでした。
だけどなんか気になる。
俺がかまってあげないといけない。
僕の中にある母性本能がくすぐられたわけです」
つき合い始めると柔道の練習後や休日にデート。
柔道部はアルバイト禁止で、お金がない篠原信一は、実家から学校に通ってアルバイトもしていた幸世に借りることもあった。
しかし1度も
「返して」
といわれたことがないという。
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