「ピッカリ投法」でお馴染みの佐野重樹(慈紀)
90年代に近鉄バファローズ(大阪近鉄バファローズ)で活躍した投手。
さの しげき。1968年4月30日生まれ。
愛媛県松山市出身。
【個人データ】
身長:175 cm
体重:87 kg
投球・打席:右投右打
さの しげき。1968年4月30日生まれ。
愛媛県松山市出身。
【個人データ】
身長:175 cm
体重:87 kg
投球・打席:右投右打
太めの体型と投球中に帽子を落として、光る頭を見せる「テカテカ投法」で話題を提供し、チームのお笑い担当としても人気選手だった。
現役時代から話術もプロ並みで、引退後の現在はユーモアたっぷりの語り口で解説も務めている。
「テカテカ投法」は最終的に「ピッカリ投法」と言う名前に落ち着き、プロ野球マスターズリーグやモルツドリームマッチなどのOB戦では牽制球の際にも帽子を落とす「ピッカリ牽制」も見せている。
プレミアム・モルツ ドリームマッチ 2010 佐野 ぴっかり投法
via www.youtube.com
【所属チーム】
・愛媛県立松山商業高等学校
・近畿大学工学部(同学部内硬式野球部)
・近鉄バファローズ(大阪近鉄バファローズ) 1991年~1999年
・中日ドラゴンズ 2000年
・エルマイラ・パイオニアーズ 2001年~2002年
・オリックス・ブルーウェーブ 2003年
【プロでの経歴】
プロ入り:1990年(ドラフト3位)
初出場:1991年4月9日
最終出場:2003年7月27日
・愛媛県立松山商業高等学校
・近畿大学工学部(同学部内硬式野球部)
・近鉄バファローズ(大阪近鉄バファローズ) 1991年~1999年
・中日ドラゴンズ 2000年
・エルマイラ・パイオニアーズ 2001年~2002年
・オリックス・ブルーウェーブ 2003年
【プロでの経歴】
プロ入り:1990年(ドラフト3位)
初出場:1991年4月9日
最終出場:2003年7月27日
プロ入りまでの佐野 重樹(慈紀)
松山商業高校時代は、1986年の夏に愛媛県の代表として、プロでもチームメイトとなる水口栄二らと第68回全国高等学校野球選手権大会に出場。
19安打を放った水口の活躍もあり、準優勝した。当時の佐野は右翼手兼控え投手だった。
近畿大学工学部(呉キャンパス)進学後は同学部内硬式野球部(広島六大学野球連盟加盟チーム)に在籍。その後、エースとなり、リーグ10連覇に貢献した。最優秀投手賞を4回受賞。
19安打を放った水口の活躍もあり、準優勝した。当時の佐野は右翼手兼控え投手だった。
近畿大学工学部(呉キャンパス)進学後は同学部内硬式野球部(広島六大学野球連盟加盟チーム)に在籍。その後、エースとなり、リーグ10連覇に貢献した。最優秀投手賞を4回受賞。
1986 明野 対 松山商業
via www.youtube.com
近鉄バファローズにドラフト3位で入団!
1990年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受けて入団した。
ルーキーイヤーではなぜかほとんど投げないにも関わらず「シュートが得意」という触れ込みが広がっており、佐野はそのイメージを利用してガンガン内角をストレートで攻め、本来の武器であるスライダーとの相乗効果もあっていきなり6勝を挙げる。
93年には、防御率2.00(厳密には1.995)を挙げ、近鉄では主に中継ぎ投手として活躍。
94年は47試合に全試合中継ぎとして登板、93と1/3回を投げて8勝4敗2セーブと、チームの中継ぎの柱となる活躍で7月には月間MVPを獲得し、翌95年にはチームが不調な中44試合で10勝4敗6セーブと活躍ぶりと額が光り、先発登板が1度も無かったにも関わらず2桁勝利を挙げている。
そして、96年オフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の「1億円プレーヤー」となった。
ルーキーイヤーではなぜかほとんど投げないにも関わらず「シュートが得意」という触れ込みが広がっており、佐野はそのイメージを利用してガンガン内角をストレートで攻め、本来の武器であるスライダーとの相乗効果もあっていきなり6勝を挙げる。
93年には、防御率2.00(厳密には1.995)を挙げ、近鉄では主に中継ぎ投手として活躍。
94年は47試合に全試合中継ぎとして登板、93と1/3回を投げて8勝4敗2セーブと、チームの中継ぎの柱となる活躍で7月には月間MVPを獲得し、翌95年にはチームが不調な中44試合で10勝4敗6セーブと活躍ぶりと額が光り、先発登板が1度も無かったにも関わらず2桁勝利を挙げている。
そして、96年オフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の「1億円プレーヤー」となった。
1996.6.13 近鉄vsダイエー12回戦 19/23
via www.youtube.com
1998年は肘の故障で一軍登板はなく(穴埋めとして盛田幸妃投手を獲得)、1999年は7月7日の福岡ダイエーホークス戦でプロ初完封勝利を無四球で挙げるも、不本意な成績に終わり、同年オフに小池秀郎・善村一仁とともに、門倉健・東瀬耕太郎・古池拓一との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
しかし、2000年5月に一軍登録されたものの、6月21日の対巨人戦(ナゴヤドーム)で1イニング4被本塁打の日本プロ野球タイ記録を作り、翌日登録抹消。
以降、一軍への出場機会が無いまま、シーズンオフに戦力外通告を受け、アメリカ合衆国へ渡る。
2001年は独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズでプレー。2002年はMLBのロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約するも、メキシカンリーグのメキシコシティ・タイガースに移籍した後、エルマイラ・パイオニアーズに復帰する。
2003年にオリックス・ブルーウェーブへテスト入団し、日本球界へ復帰。また、入団テストの頃より活動名義を「佐野 慈紀」に変更した。しかし、一軍登板は2試合にとどまり、現役を引退。
via ameblo.jp
ハゲ頭関連のエピソードの宝庫!
「ハゲ魔神」の愛称通り、ハゲ頭が愛くるしい佐野。
自身を「チビで、デブで、ハゲ」と三拍子揃っていると自慢し、自虐的な歌「♪ハゲ、ハゲ、ハゲ・ハゲ・シゲ~ みんなで歌おう ハゲ・ハゲ・シゲ」というゲゲゲの鬼太郎の替え歌を、同僚の池上誠一と歌うなどユニークな人物である。
他にもハゲ頭関連のエピソードとして、
・近鉄時代の1999年に当時の大阪府知事の横山ノックが大阪ドームで始球式に登場した試合の先発を務めたが、プロ野球の珍プレー・好プレーの特番でほぼ同じ箇所がハゲていたせいかノックとのツーショットシーンを「親子競演(ノックが佐野の父親)」などと言われたことがある。
・オリックス在籍時は、その頃から自分と同じく頭が薄い和田一浩(西武に在籍)をライバル視していた。
・「カツラ業界の皆さん、ドラフト1位でどうですか?」、「アルシンドになってるよー!」などの持ちネタがあり、アートネイチャーのCM曲の替え歌「男はオオカミ 俺は少髪(しょうかみ)」なども歌っていた。
自身を「チビで、デブで、ハゲ」と三拍子揃っていると自慢し、自虐的な歌「♪ハゲ、ハゲ、ハゲ・ハゲ・シゲ~ みんなで歌おう ハゲ・ハゲ・シゲ」というゲゲゲの鬼太郎の替え歌を、同僚の池上誠一と歌うなどユニークな人物である。
他にもハゲ頭関連のエピソードとして、
・近鉄時代の1999年に当時の大阪府知事の横山ノックが大阪ドームで始球式に登場した試合の先発を務めたが、プロ野球の珍プレー・好プレーの特番でほぼ同じ箇所がハゲていたせいかノックとのツーショットシーンを「親子競演(ノックが佐野の父親)」などと言われたことがある。
・オリックス在籍時は、その頃から自分と同じく頭が薄い和田一浩(西武に在籍)をライバル視していた。
・「カツラ業界の皆さん、ドラフト1位でどうですか?」、「アルシンドになってるよー!」などの持ちネタがあり、アートネイチャーのCM曲の替え歌「男はオオカミ 俺は少髪(しょうかみ)」なども歌っていた。
みんなで歌おうハゲハゲシゲ
via www.youtube.com
二番手として登板した佐野。ノーアウト一、二塁のピンチ。
しかし、佐野が見事な二塁へのけん制球でランナーを刺す!