将棋タイトル戦の発足
2017年5月9日 更新

将棋タイトル戦の発足

竜王、名人、王将、王位、棋聖、棋王、王座。 将棋界には七つのタイトルがあり、タイトルをかけた戦いが存在する。 戦いにはそれぞれの起源があり、そして、物語がある。ご紹介しよう。

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 時は1947年に戻る。

 動きの奔放さと明るさがウリであった辰巳柳太郎が、ひとりの将棋指しのを演じた。
 タイトルは「王将」
 大阪出身の劇作家・北條秀司が、同じく大阪出身の坂田三吉を描いた作品であった。
 翌1948年には阪東妻三郎を主演として映画「王将」も公開される。

 1950年。将棋界のほうでも《王将戦》が登場した。
 翌51年、タイトル戦の扱いになる。
 これがまたとんでもない事になった。

 駒落ち将棋というものがある。
 文字通り上手が下手に対して駒を落とすもので、飛車だったり香車だったりが抜ける。
 プロがアマなどに行う指導対局で行われるのが普通だが、それとは別に《指し込み》というものが存在している。平手で数回勝負し、どちらかが連勝した場合、勝った方が駒を落とすという制度である。

 王将戦はこれを採用した。
 で、第1回大会で升田幸三が登場。
 当時の木村名人に対してまたたく間に3連勝をあげ、《名人に対してハンデ戦を行う》という前代未聞の時代を発生させたのである。
 木村は八段に昇段した時、先輩の八段格全員に対して同じことを行ったという。これは偉業なのだが、痛烈すぎるしっぺ返しをくらったかたちになった。

 「木村が升田に指し込まれる」だけならまだしっぺ返しで済んだ話かもしれない。
 だが「名人が指し込まれる」となると、江戸時代であれば何人か詰め腹を切らねばならない事態にもなりえた。玉音放送を聞いた時以上の衝撃だった、と語る棋士もいた。

 そして升田は、対局を拒否した。
 またもや大騒ぎとなったが、当事者の名人木村義雄が事態を収拾し、3年後、升田はある名人にハンデ戦を行う事態を発生させる。

 このあたりの顛末は《陣屋事件》と呼ばれている。
 何かと語り草の多い升田幸三でも指折りの逸話であろう。
坂田三吉

坂田三吉

1955年、日本将棋連盟は坂田に名人と王将を贈った。
坂田は1946年に亡くなっている。

王位戦

 最初にある大会が開催され、数回開催しながら整備されタイトル戦に発展する、という流れが存在している。

 1960年。
 北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社が主催する《三社杯B級選抜トーナメント》が《王位戦》に名を変えた。
 予選はトーナメントで行い、それぞれでトップになった人物が《紅組》と《白組》にわりふられる。
 それぞれの組のトップが挑戦権をかけて戦い、勝利すると王位戦七番勝負に登場するという仕組みである。

 この戦い、ドリームの気配が濃厚である。
 本来タイトル経験者や前大会の成績優秀者にはシード権が付与される。
 将棋の場合は別の大会とリンクしていることがあり、例えば名人位であれば他の大会でもある程度のシードの位置が用意されていたりする。

 王位戦はそんなことしない。容赦なく予選をやる。

 例えば第57期(2016年)の王位戦では郷田王将、渡辺明棋王、糸谷竜王が軒並み予選を通過できずにいる。
 番勝負挑戦者がタイトルホルダーということが珍しくない世界においてこの過酷さは独特である。
 この結果だけを見ると「タイトルホルダーって案外大したこと無いんじゃないの?」と言えてしまうかもしれない。

 2017年5月現在、第58期王位戦の予選は終わっている。
 挑戦者決定リーグ戦、白組のなかに渡辺竜王と佐藤名人の名前が存在している。
 大会開始時の名前で登録されるため称号こそ異なっているものの当然、同一人物である。
 タイトルホルダーはすなわち優勝経験者である。勝負強く、経験が豊富で、大勝負が多い。
 郷田王将は惜しくも予選最終戦で阿久津主税八段に敗れてしまった。阿久津八段はタイトルの経験こそ無いが、A級在位経験がある強豪棋士のひとりである。

 なお、お察しの方も多いだろうが第57期の名人、王座、王位、棋聖は羽生である。
 58期の王座、王位、棋聖も羽生である。
第57期王位戦七番勝負第7局

第57期王位戦七番勝負第7局

対局場は秦野市「元湯 陣屋」。
陣屋事件のあの陣屋は今でもタイトル戦に使われている。

棋聖戦

 名人であったわけではないが、名人並あるいはそれ以上の力を持っていたのではないかという人物がいる。
 えてしてそういう人物はどこか不遇であり、また、当人も破天荒な性質を持っていることが多い。

 天保、弘化、嘉永、安政といった時代に活躍し、将棋に生きた男、天野宗歩。
 ついたあだ名が《実力十三段》。
 後世では《棋聖》とも呼ばれる。


 1962年。棋聖戦が登場する。
 当時のタイトル戦番勝負が数日かけて1局を行うものであったのに対し、棋聖戦は初の1日制対局を採用した。

 これにも噂がある。
 1日制なのは、抜群の棋力を持っておきながら体力に足をひっぱられる升田幸三にタイトルを取らせるためだ、というものである。
 どうだろうか。
 升田は朝日新聞社の嘱託であり、棋聖戦の開催は産経新聞社である。

 1日制であり、しかも「年2回開催」という特徴を持った棋聖戦であったが、創設から第7期までは升田の弟弟子、大山康晴名人が独占した。
 開催側に何かしらの思惑があったかどうかは謎である。
 だがもしあったら、どんな勝負でも引き受ける男と床に落ちた勝負は拾わない男ということでまた何かしらの逸話の種になっていたかもしれない。

 棋聖戦は1995年から年1回開催になった。
棋聖 天野宗歩手合集

棋聖 天野宗歩手合集

天野宗歩関連の本は定期的に出版されている。

棋王戦

 1954年。共同通信社は《九、八、七段戦》を開催していた。
 これが後に《日本一争奪戦》そして《最強者決定戦》と名を変え、1975年から《棋王戦》というタイトル戦になった。

 《九、八、七段戦》とは別に《六、五、四段戦》もあり、こちらは《古豪新鋭戦》、《名棋戦》と名前を変えてから1981年に棋王戦に合流している。

 じゃっかんややこしい経歴を持っている。

 そもそもタイトル戦というのは大会の一形式である。
 大会であるからには主催がいて、対局料を支払うスポンサーが必要となってくる。
 将棋の大会の開催は大半が新聞社である。
 では、新聞社は棋士から何をもらうのか。
 棋譜をもらうのである。社名がついた服を着てもらうわけではない。

 タイトル戦の仕組みがおおいに発展したのは戦後が中心である。
 当時は新聞というのが生活必需品であり、たいへんな情報源であった。
 そして新聞社側からすると、他の新聞を読まずにうちの新聞を読んでもらうためにどうすれば良いか、ということを考えていくことになる。
 いくつかの試みがあった。そのうちひとつが将棋であったのである。

 将棋指しと新聞の繋がりは古く、例えば坂田三吉は1908年に大阪朝日新聞の嘱託になっている。
 すると大阪朝日新聞は坂田三吉の将棋を掲載することができるようになる。
 坂田三吉の棋譜が読みたければ大阪朝日新聞を読めば良い、という仕組みだ。
 当時の将棋指しはプロ野球選手やグラビアアイドル的存在だったのかもしれない。
 こういう背景があるから、朝日の嘱託の升田幸三と毎日の嘱託の大山康晴は兄弟弟子でありながら仲がこじれたという話もある。

 棋王戦創設期にある試行錯誤めいた名称変更にはこのような事情も関わっていたかもしれない。
若かりし加藤一二三九段

若かりし加藤一二三九段

加藤一二三九段も朝日新聞の嘱託であった。
 さて、最近棋王戦でとある記録が出現した。

 タイトル戦には永世位、名誉位というものがある。
 通算、あるいは連続でタイトルを獲得すると引退後などに名乗ることができる。
 米長邦雄永世棋聖という呼び方を聞いたことがある人もおられるだろう。

 名人であれば通算で5期獲得すると永世名人という称号がもらえる。
 では永世棋王になるための条件は何か。
 《連続5期獲得》
 である。
「永世棋王」で検索をかけると「永世棋王 難しい」と予測検索がでてくる。

 2017年3月27日。
 第42期棋王戦五番勝負は第5局、渡辺明棋王の勝利で幕を閉じた。
 これによって渡辺棋王は連続5期獲得、羽生善治につづく2人目の永世棋王の誕生であった。
将棋の渡辺くん

将棋の渡辺くん

渡辺明が主人公(?)の漫画。作者は渡辺明の妻の伊奈めぐみさん。
ノンフィクションらしい……。

王座戦

 1983年《第31期王座戦》が開催された。
 31期ではあるが王座戦としては初の開催であった。それまでは《世代別対抗将棋戦》という名前だったのである。1953年から開催されていた比較的古い大会であった。

 王座戦についてはひとつのことをご紹介しておけば十分だろうと思う。
 31期にして初代王座は中原誠である。
 現在64期が終了しており、年1回開催なので通算34人の王座が登場していることになる。
 そのうち24人は羽生善治である。当然のように今年も防衛した。
 また中原名人は永世位の名誉王座を所持している。通算6期。
 今まで将棋界に誕生した34人の王座のうち、30人がこの2人である。
中原誠永世名人

中原誠永世名人

中原誠は名誉王座の他、永世十段、永世名人の称号を保持してる。

これからのタイトル戦

 2017年2月。
 14年間にわたって羽生善治と名人位を独占していた森内俊之九段が順位戦から身を引くことを表明した(フリークラス宣言)。

 4月。
 将棋連盟会長の佐藤康光九段が紫綬褒章を授与された。


 羽生にとって佐藤と森内は《島研》の同窓にあたる。
 年齢もほぼ同じで45歳を超えたところ。
 
 羽生善治はこれからも変わらず勝負を続けていくのだろうか。
 あるいは弟子多き森内のように後進の育成に力を傾けるのか、佐藤のように運営のことを視野に入れていくのか。

 来月6月1日からは棋聖戦五番勝負が開催される。
 羽生棋聖は9連覇中。
 相手の斎藤慎太郎七段は2012年にデビューしてからすでに3回昇級しており、詰め将棋選手権で連覇している注目の存在。

 世代交代という逆風がふいているとしたら、羽生はその影響を受けるのだろうか?
 あるいは今後のタイトル戦を占う番勝負が展開されるのかもしれない。
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