●盛田投手の球歴
函館有斗高校時代に、3度の甲子園出場を経験。
1987年オフに横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団します。
1987年オフに横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団します。
高卒1年目から1軍デビュー。1992年には、中継ぎ投手ながら「規定投球回数」に到達するほどフル回転。この年、防御率2.05で最優秀防御率のタイトルを獲得します。
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盛田投手の決め球はシュート。
「盛田・佐々木が出てくる前に勝ち越さないといけない」と対戦チームに思わせていました。
「盛田・佐々木が出てくる前に勝ち越さないといけない」と対戦チームに思わせていました。
大洋時代の盛田投手の投球
落合選手、松井選手ら巨人打線との息詰まる対決です
via youtu.be
佐々木主浩とともに「ダブルストッパー」と呼ばれる活躍を見せていたのですが、大矢明彦監督の方針により先発転向。2年連続で開幕投手も勤めるが、調整方法の違いにより調子を崩していきます。
そして、1998年に中根仁選手との交換トレードで近鉄バファローズに移籍します。
そして、1998年に中根仁選手との交換トレードで近鉄バファローズに移籍します。
●脳腫瘍の発覚。そして奇跡の復活
近鉄移籍後はリリーフに戻ると、盛田投手は開幕から好調を持続します。
ですが、5月末頃から右足首に違和感や麻痺などが起こり次第に状態が悪化。
8月に一軍登録を抹消され、検査を受けるとゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受けます。
この時医師から「野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたものの、壮絶なリハビリを開始。
翌年の1999年には二軍戦に登板。この年の最終戦で一軍復帰を果たすのです。2000年は3試合登板。2001年6月13日の福岡ダイエーホークス戦、盛田投手は同点の5回から登板。7回表にチームが勝ち越して1082日ぶりの勝利投手となるのです。
盛田投手の「奇跡の復活」がチームに与えた影響は大きく近鉄は12年ぶりのリーグ優勝。
盛田投手は34試合に登板し、カムバック賞を受賞します。
8月に一軍登録を抹消され、検査を受けるとゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受けます。
この時医師から「野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたものの、壮絶なリハビリを開始。
翌年の1999年には二軍戦に登板。この年の最終戦で一軍復帰を果たすのです。2000年は3試合登板。2001年6月13日の福岡ダイエーホークス戦、盛田投手は同点の5回から登板。7回表にチームが勝ち越して1082日ぶりの勝利投手となるのです。
盛田投手の「奇跡の復活」がチームに与えた影響は大きく近鉄は12年ぶりのリーグ優勝。
盛田投手は34試合に登板し、カムバック賞を受賞します。
近鉄バファローズ 2001年優勝の軌跡
via youtu.be
翌2002年シーズン限りで現役を引退します。
この盛田投手の奇跡の復活劇はしばしばマスコミで取り上げられました。
この盛田投手の奇跡の復活劇はしばしばマスコミで取り上げられました。
盛田幸妃 執念の復活
via youtu.be
●再三の闘病生活。そして…。
引退後は、横浜球団の職員を務めながら、TBSラジオ専属の野球解説者として活躍していた盛田さんですが、脳腫瘍の再発と戦う闘病生活の末、2015年10月16日午前、転移性悪性腺腫のため死去。45歳の若さでした。
via tr.twipple.jp
告別式にはDeNAの三浦投手ら約120人が参列。
野球関係者から多数の弔電が届きました。
野球関係者から多数の弔電が届きました。
via m.sponichi.co.jp
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