極真分裂.04  みんな極真を愛していた
2020年11月8日 更新

極真分裂.04 みんな極真を愛していた

2000年以降、極真の分裂は沈静化。いろんなことがあったが、結局、みんな極真空手が好きだった。

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2000年4月26日、緑派が護国寺で大山倍達の7回忌を行った。
2000年5月、メインイベントをヒクソン・グレイシー vs 船木誠勝とする格闘技イベント「コロシアム2000」(テレビ東京主催)が開催され、その中で、緑派所属の鈴木国博とルシアーノ・バジレ(ブラジル)のワンマッチが行われた。

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2000年8月、長谷川一幸が地元の2001年度版のタウンページに自分の道場の広告を出そうとすると
「商標権者(松井章圭)の申請により掲載できない
とNTTに断られた。
長谷川一幸は
「自分はどうしても松井が許せない。
1人でも裁判をやるつもりだ。
費用は名古屋に持っているビルを売ってでも捻出する」
と大阪地方裁判所に「商標権による妨害禁止の仮処分」を申請。
「松井を含め大山倍達の弟子には極真の名称を使用する権利がある」
と主張した。
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2000年9月、松井章圭は、1994年に法人登記した「(有)極真」を「(株)国際空手道連盟極真会館」に変更。
取締役は、郷田勇三と盧山初雄だった。
大山倍達は遺言書で極真会館の財団法人化を望んでいた。
社団法人は、共通の目的をもつ「人々」の集合体。
財団法人は、共通の目的をもつ「お金」の集合体。
実際は社団法人も財団法人も、社会貢献を目的になにか事業を行っているので大差はない。
財団は、トヨタ財団や三菱財団などというように実業家や企業が財産を拠出することが多く、その財産は何らかの目的のために運用されている。
また社団法人、財団法人は事業内容の公益性が特に高いと認められると、公益社団法人、公益財団法人という法人格を得て、税制の優遇措置を受けることができる。
極真会館が目指すのは、財団法人化、、公益財団法人化だったが、現状ではハードルが高く、それを目指す段階としてとりあえずの会社法人化だった。
しかし
「松井は、大山倍達が遺言書で指示した公益法人化を無視し金儲けのために極真を株式会社にした」
と叩かれた。
2000年10月10日、緑派は、東京都にNPO(特定非営利活動法人)の認可を受けた。
これにより緑派は、新しいアマチュア的な団体というイメージが、松井派は、古いプロ的組織というイメージができた。
NPOは、比較的かんたんな手続きで取得できるが、財団法人ではない。
NPO、非営利組織とは、市民が主体となって継続的、自発的に社会貢献活動を行う営利を目的としない団体。
ちなみにNGO、非政府組織とは、紛争、人権、貧困などの世界的な課題の解決に向けて活動する国際団体。
NPOもNGOも社会をよりよくすることを目指す非営利団体である。
非営利とは、収益を出してはいけないということではなく、事業を有料で提供して収益を出してもいいが、契約以上に人件費をを払うことは許されず、今後の活動費に使って、より一層社会に還元しなければならない。
ここが収益を出すと株主や従業員に還元できる民間企業とは根本的に異なる。

【新極真会】 第32回全日本大会準々決勝 塚本徳臣vs逢坂祐一郎 SHINKYOKUSHINKAI

2000年12月、緑派の32回全日本空手道選手権大会決勝で、塚本徳臣は鈴木国博に勝利。
しかしドーピング検査で大麻の陽性反応が発覚し優勝は取り消された。
その後、一時出場停止処分を受けた。
塚本徳臣は、高い身長、長い腕と脚と活かし、ステップとフットワークを踏みながら相手の動きや間合いをコントロールし、「マッハ蹴り」と呼ばれる変則的な回し蹴り、膝蹴り、かかと落とし、胴回し回転蹴りを叩き込んだ。
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2001年4月26日、
「空手の実力者が一般人とケンカした場合は素手であっても武器を持っているのと同じだ」
と東京地方裁判所は鈴木国博に傷害事件の加害者として被害者に対して1500万円の賠償を命じた。
鈴木国博が傷害事件を起こしたのは1997年。
その後、裁判が4年続いたが、その最中を含めて鈴木国博は2000~2003年全日本大会3連覇、2003年世界大会優勝と緑派を代表する選手に成長した。
この事件の内容や、その後の経過、そしてその空手の組手スタイルをみても、鈴木国博は正義感が強く、不器用で真っすぐ、そして絶対にあきらめない強い人間だった。
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2001年10月25日、松井章圭が記者会見を開き、自身が実行委員長である「Kネットワーク」主催で格闘技イベント「一撃」を行うと発表。
ルールは、空手ではなくK-1のようなキックボクシングルール。
極真会館だけでなく正道会館や全日本キックボクシング連盟も参戦し、メインイベントは「野地竜太 vs 武蔵」だった。
これまでK-1などに極真の選手が出場することはあったが、極真がプロの大会を主催するのは初めてだった。
K-1への参戦も否定的だった盧山初雄は、これだけはどうしても賛成できなかった。
「極真は武道空手としての道を進んでいくべきだ」
かつて極真空手のプロ化はあり得ないといっていた松井章圭は
「選手引退の先は、支部長になって生計を立てていくことが理想的です。
しかし現実問題、支部はすでに飽和状態になりつつあります。
組織が大きくなり選手人口も増えていく中にあって選手たちにはもっと多くの選択肢が必要です。
その1つがK-1などへの参戦であり、一撃の開催もその一環です」
という。
こうして大山倍達の死後、一貫して同じ方向に向かって戦ってきた師弟の間に初めて溝が生まれた。
盧山初雄は、大山倍達の遺言書の証人の1人であり、極真奨学会の理事長である梅田義嘉に相談。
梅田義嘉は、松井章圭に大山倍達の死後、なくなっていた最高幹部会を月1回開くことを提案し了承された。
最高幹部とは、
郷田勇三、
盧山初雄
浜井識安
山田雅捻
廣重毅
梅田義嘉
だった。
その後、最高幹部会では、極真会館の財団法人化、極真奨学会の立て直し、新会館の建設、プロ化の問題などについて話された。
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「私は松井館長に賛成です」
「一撃」の開催について郷田雄三は容認していた。
郷田雄三自身、1975年頃に大山倍達に「プロ空手」実現のため、選手の育成を命じられたことがあった。
城東支部の道場にはその名残としてリングの跡が残っていた。
大山倍達は極真にプロ部門を設けようとする一方、
「断じてショー空手であってはいけない」
といっていた。
結果的に、このときのプロ空手は、スポンサー企業の倒産などで実現しなかった
「君は極真のプロ化はしないと断言したじゃないか。
どうしても「一撃」を開催したいなら館長を退くべきだ」
と激しく反対する盧山初雄は、プロのリングを経験していた。
第5回全日本選手権優勝、第1回世界選手権準優勝の盧山初雄は、高校時代、大山道場に入門し、10代で極真会館の総本部指導員となった。
1967年、修行のためにオランダ支部からヤン・カレンバッハが総本部にやってきた。
ヤン・カレンバッハは積極的で誰にでも組手を申し込んだ。
187㎝110㎏、柔道の猛者でもあるヤン・カレンバッハは、長身を利してスピードの乗ったパンチを打ち込み、それが外れてもそのまま接近して襟首をつかみ、相手を投げた。
その強さは総本部道場の茶帯は全員やられ、黒帯も苦戦した。
松井章圭の師である加藤重夫も右ストレートと足払いでやられた。
そしてついに盧山初雄が組手を挑まれた。
顔面と金的をガードしたままジリジリ攻め寄るヤン・カレンバッハに盧山初雄は道場の壁まで後退。
捨て身の攻撃を仕掛けたが、突いても蹴ってもまったく効かなかった。
ヤン・カレンバッハは前蹴りで盧山初雄を大きくのけぞらせ、左右の正拳突きを連打。
サンドバッグ状態になった盧山初雄は「まいった」した。
この瞬間、総本部道場指導員の自信とプライドは粉々に砕け散った。
またどんな相手も一撃で倒せるという空手の理想も崩れた。
「所詮、大きな者には勝てないのか?」
素人や中途半端な格闘技経験者なら自分より体が大きくても勝つ自信はあった。
しかし自分と同じように真剣に修練を積み、かつ自分より体が大きな人間には勝てないのではないか?
そして体重別で行われるキックボクシングに転向し、「嵐五郎」の名前でリングに上がった。
あるとき公園でキックボクシングの練習をしていると
「それは何の練習だね?」
と60歳オーバーの老人に尋ねられた。
盧山初雄は説明すると
「蹴ってこい」
と挑発してきた。
盧山初雄がケガさせないように軽く蹴ると、何をされたのかわからないまま倒された。
次は本気になって蹴って突いたが子供扱いされた。
この老人は、中国で意拳の達人である王向斉に学び、日本で「太気拳」を創始した澤井健一だった。
年齢や体格に関係のない強さがそこにあった。
「これこそ望んでいたものだ」
盧山初雄は、 即、キックボクシングを引退した。
その後、拳道会の中村日出夫などにも師事。
過酷な修行を終えた後、極真会館へ戻った。
以後、本当の空手道の強さを追求し続けた。
分裂後、一貫して
「松井章圭が2代目」
と支持し続ける反面、さまざまな苦言も呈してきた。
「大山道場時代、大山総裁は、100人の弟子より1人の強い弟子が欲しいと指導されていた」
松井章圭は、そういう盧山初雄の空手を追求する姿勢や、職人的な気持ちで指導することは大事だと思いつつ、多様化の重要性を説いた。
「老若男女、さまざまな人たちがさまざまな目標をもって道場に集まってきているわけですから、極真という軸が外れない範囲で、その人たちが望む活動の場を与えていかなければなりません」
2人は、空手観、武道観は一致していたが、組織論で食い違いがあった。
2001年7月17日、大山派時代(1999年6月)に訴えていた「松井章圭の商標権取得の無効」が退けられ、緑派は高等裁判所に抗告。
自分たちこそ商標権を持つべきと主張した。
しかし商標権を松井章圭から奪うことは難しいと予想された。
「どうも極真会館の名前が使えなくなりそうだという話になりました。
商標権の問題で松井側と争っていたのですが劣勢でした。
緑さんは『いざとなったら使えなくても仕方ない』と戦略を変えず、『裁判で負けたら名前を変える』『名称は多数決で決める』と判決が下りる前からいっていました」
(田畑繁)
「自分は極真を名乗るすべての団体が分派という認識でしたが、緑さんたちも松井さんたちも「自分が正当」という考えでした。
その中で松井さんが商標権を取得し緑派は極真会館を名乗れなくなるかもしれないという話になった。
『裁判で負けたら名前を変えよう』という意見も出ましたが、それは違うと思いました」
(七戸康博)
「緑派の中で団体名を変えてもいいという雰囲気になっていました。
正直、こいつらはバカかと思いました。
極真でなくなったら、もはや他流派」
(長谷川一幸)
こうして緑派から長谷川一幸、大石大吾ら重鎮、理事である七戸康博、坂本恵義、田畑繁が自ら離脱した。
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2001年7月17日、大山派時代(1999年6月)に訴えていた「松井章圭の商標権取得の無効」が退けられ、緑派は高等裁判所に抗告。
自分たちこそ商標権を持つべきと主張した。
しかし商標権を松井章圭から奪うことは難しいと予想された。
「どうも極真会館の名前が使えなくなりそうだという話になりました。
商標権の問題で松井側と争っていたのですが劣勢でした。
緑さんは『いざとなったら使えなくても仕方ない』と戦略を変えず、『裁判で負けたら名前を変える』『名称は多数決で決める』と判決が下りる前からいっていました」
(田畑繁)
「自分は極真を名乗るすべての団体が分派という認識でしたが、緑さんたちも松井さんたちも「自分が正当」という考えでした。
その中で松井さんが商標権を取得し緑派は極真会館を名乗れなくなるかもしれないという話になった。
『裁判で負けたら名前を変えよう』という意見も出ましたが、それは違うと思いました」
(七戸康博)
「緑派の中で団体名を変えてもいいという雰囲気になっていました。
正直、こいつらはバカかと思いました。
極真でなくなったら、もはや他流派」
(長谷川一幸)
こうして緑派から長谷川一幸、大石大吾ら重鎮、理事である七戸康博、坂本恵義、田畑繁が自ら離脱した。
 (2233552)

2001年10月2日、大阪地方裁判所は、長谷川一幸の訴えを認めた。
「原告のタウンページへの広告掲載を認める
2001年12月、緑派だった長谷川一幸、大石大吾、七戸康博、田畑繁、桑島保浩、三和純、そして遺族派だった手塚暢人、安済友吉らが「極真連合会」を発足。

NANDA!? 「極真空手/一撃必殺特集:緑健児・塚本徳臣(格闘技・武道)」_02

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