極真分裂.01  後継者の資格
2020年10月25日 更新

極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。

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「これは事実談であり、この男は実在する」
空手バカ一代は、そういって始まるが、多くのフィクションが含まれていた。
特に大山倍達の死後、それが明らかになったが、マンガそのままだったのは、圧倒的な強さと人間的な魅力だった。
普通は逆だけど・・・・
やっぱり大山倍達はすごい!
大山倍達は、日韓併合によって、まるで沖縄や北海道のように日本の一部となり、その統治下にあった大韓民国(韓国)の
全羅北道(チヨルラブクド)金堤郡(キムジエグン)龍池面伏龍里(ヨンジミヨンワリヨンニ)の大きな農家で生まれた。
農場で働いていた人の中にボクシング経験者がいて、
小学校に入ったばかりの大山倍達は指導を乞うて、毎日、サンドバッグを叩き、シャドーボクシングをした。
学校ではたくさんの子分を従えるガキ大将だったが、弱い者いじめや卑怯なこと、自分の正義に背くことはしなかった。
日本の軍事教育やナポレオン、ビスマルクなどの伝記を読んで軍人になることを夢み、
吉川英治の『宮本武蔵』を読んで欲望を断ち切りひたすら武の道を追求する生き様、
ブレーズ・パスカルの哲学書『パンセ』の「正義なき力は圧倒なり、力なき正義は無能なり」という一文に心打たれた。
中学校は地元ではなくソウルの学校に1人暮らしをして通った。
そして学校の近くにあったYMCAで本格的にボクシングを習い始め、15歳のとき、市民大会のウェルター級で優勝。
ある日、ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)沿いをランニングしていていると、
数人の男に言い寄られ、嫌がっている女学生グループを発見し、追い払った。
数日後、ボクシングの試合で勝利した後、女性に花束を渡されたが、
それは女学生グループの1人だった。
2人は、その後何度がデートをした。
しかしこの女性には日本人の婚約者がいて、浮気を知ると怒った婚約者は、仲間を引き連れ大山倍達の下宿先に乗り込んだ。
そして警察が出動するほどの大乱闘となった。
警察沙汰になったことで大山倍達は学校は退学処分、両親からも勘当された。
大山倍達は、兄が留学している日本行きを決意。
大山倍達が日本へ行く方法は密航しかなかった。
まず釜山に行き、兄の婚約者が経営する製紙工場で働きながら、その準備をした。
この密航の準備期間中、後に空手の師となる曺寧柱と出会った。
曺寧柱は、中学生の頃から朝鮮独立運動に参加。
朝鮮独立のためには共産主義しかないと共産主義運動が盛んだった日本の京都大学に留学。
共産主義の教授が不当解雇されたことでデモが起こり、参加していた曺寧柱は京都大学を退学させられ、同じ京都の立命館に入学。
共産党指導者が転向声明を発表し、党員の大量転向が起き、曺寧柱は共産主義に失望。
朝鮮ですでにボクシングとウエイトトレーニングを経験し、来日後、空手を学び、すぐに関西随一の実力者となっていたが、
闘争心のはけ口を武道の稽古に求め、憂さは酔いでまぎらわした。
やがて釜山港から船に乗り山口県下関に上陸。
「アジアが一致団結し、いつか来るアメリカとの最終決戦に備えるべきだ」
という東亜連盟の運動に身を投じるようになった。
釜山で行われた講演会で、曺寧柱は民族協和を訴えたが、大山倍達は話よりも鍛えられた肉体に魅かれ、講演後、自分から話しかけた。
曺寧柱は技をみせた。
その突きは、ボクシングのパンチとは違った。
その蹴りは、背丈以上の高さに達した。
大山倍達は、もうすぐ日本へ行くことを告げ、再会の約束をした
やがて釜山港から船に乗り山口県下関に上陸。
兄のいる東京に行きたかったが警察の目を考え曺寧柱のいる京都へ向かった。
そして東亜連盟の寮に住み、毎日、曺寧柱から空手を習った。
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数ヵ月後、大山倍達は軍人になる夢を曺寧柱に相談。
京都大学を中退し立命館に学んだ曺寧柱はその想いを理解した。
しかしその年の陸軍士官学校の受験はすでに終わっていたし、大山倍達は中学を中途退学していたので、
まず山梨県の飛行機の整備技術を教える学校を卒業してから改めて士官学校に入ることを薦めた。
こうして18歳の大山倍達は、山梨の航空学校に入学し寮に入った。
親とは絶縁、3人の兄は戦争を危惧してすでに帰国していたため、お金を得るために授業の後に輪タク(自転車タクシー)のアルバイトに出て、
たまに夜の町で不良やヤクザにケンカを売ってお金をまきあげた。
そうやって3年間、勉強と京都で学んだ空手の稽古を続けたが陸軍士官学校の試験は不合格。
大山倍達は京都に戻ろうと思ったが、頼りの曺寧柱は治安維持法違反の容疑で拘置所に収監されていた。
そこで都議会議員に立候補するという東亜連盟の先生の東京の自宅に書生として居候しながら、ポスター貼りや接待、ボディガードなどをした。
そして松濤館に通い、空手の稽古を行い、8ヵ月後には初段となった。
異例のスピード昇段だった。
第2次世界大戦で日本軍の敗色が濃くなってくると徴兵、徴用が拡大。
大山倍達も千葉県館山に徴用工として配属され、1945年8月15日の終戦は千葉県で迎えた。
終戦は36年間日本に支配された朝鮮半島が解放された日でもあった。
(その後、朝鮮半島は南北をソ連とアメリカが分割統治したことで北朝鮮と韓国という2つの国に分断される)
アメリカは圧倒的な軍事力で日本を叩きのめした後、GHQを進駐させた。
GHQは、
自らを含む戦勝国民を第1国人、
敗戦国民(日本人)を第2国人、
(朝鮮人を含む)戦勝国民でも敗戦国民でもない人を第3国人
とした。
第1国人は、第2国人に対しても第3国人に対しても強かった。
第2国人は、第1国人に対しても第3国人に対しても弱かった。
第3国人は、第1国人には弱かったが、第3国人には強かった。
こういった特殊な治外法権下で、一部の在日朝鮮人は、不法占拠、略奪などを行った。
闇市の縄張り争いなどで日本人ヤクザと争い、QHQの取り締まりにも抗った。
大山倍達も仲間とあちこちの軍事施設から食料や物資を奪い闇市に流して現金を得た。
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また共産主義国家樹立を求める「朝連(在日朝鮮人連盟)」 と
民主主義による朝鮮の建国を目指す「建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)」という在日朝鮮人同士の抗争も起こった。
大山倍達は、建青の千葉県館山支部のリーダー格でメンバーを空手で鍛えた。
それは寸止めや型の空手ではなく、対武器、対多人数を含む実戦を想定した空手だった。
そして千葉から各地の建青の活動に参加した。
最初の戦いは、150人の朝連と50名ほどの建青の戦いだった。
その強さは異様で、次々に相手を殴り倒し数十名に重傷を負わせた。
その後も、5人で20人と戦ったり、1人で7、8人を相手にした。
あるとき5人をのばした後、右手の親指が痛いのでみてみると相手の歯が刺さっていた。
また大山倍達の左腕には何本も傷跡があった。
その必勝パターンが、左腕で相手の攻撃を受け、右拳を叩き込むというものだったためで、左前腕にベルトを巻いて戦うこともあった。
右顎と唇の間にも傷跡があった。
顎を短刀で刺され、刃先が歯ぐきを突き抜け口の中にあったが、そのまま戦い続けたという。
大山倍達の活動は関東全域、そして関西にも及び、「空手の大山」」と恐れられた。
建青は東京の青山にあった旧日本陸軍大学を占拠し本部とし、
GHQや旧日本軍から手に入れた物資を闇市で売ったり、歌やスポーツイベントを催し資金を稼いだ。
歌謡ショーを催したとき、客として来ていた米兵が、日本人女性の肩に手を回して話しかけ始めた。
女性は恐怖で動けなかった。
警備をしていた大山倍達は部下をやってやめさせようとしたが、米兵はまったく相手にしなかった。
怒った大山倍達は、走っていってその米兵の顔面に突きを入れた。
すると仲間の米兵がかかってきたので、これにも突きや蹴りを叩きこんだ。
すると勤務中の米兵も集まってきたため、建青と米兵の大乱闘になった。
ショーは中断。
客は逃げ出した。
結局、大山倍達らは捕まり留置場に入れられた。
留置場から胸を張って出てくる大山倍達をみて、曺寧柱は危険なものを感じ、抗争から遠ざけるべく岐阜の東亜連盟の先生宅に入れた。
しかし大山倍達は岐阜から各地の建青の活動に参加した。
内心、敵の襲撃を期待しながら・・・
ある集会で朝連から殴り込みを受けると乱闘の先頭に立って相手を潰していった。
栃木に戻るとどんな忙しくても、毎日数時間の空手の稽古だけは欠かさなかった。
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栃木から東京に戻った大山倍達は早稲田大学に入学。
(2年後に退学)
ある講演会でお手伝いをしていた智弥子夫人に出会った。
1946年6月に2人は結婚した。
「式は井の頭公園でお弟子さんの前でボートに乗ってそれで終わり(笑)。
その後、主人と一緒に田中清玄(東大在学中に共産党に入党し書記長となり武装共産党を指導、大物フィクサー)先生のところに結婚のご報告に行ったんです。
それ以前から主人は田中先生にはずいぶんお世話になっていたみたいですね。
そのときに田中先生はこうおっしゃったんです。
『大山さん、結婚するといってもどこに住んで何をやって食べさせるんだ。
そんなこともちゃんとできないで人の大事なお嬢さんをもらいましたといっても人生は通らないよ。
君がちゃんと生活できるようになるまでは奥さんは私たち夫婦が預かっておきます。
家庭を持てる状態になったら、いつでも迎えにいらっしゃい』
で、それから1年近く田中先生のところで坊ちゃんのお守りのようなことをしながら、お世話になったんです」
大山智弥子の元の名は「照子」だったがほかの男から呼ばれていた名を嫌った大山倍達に、「置八子」、「智弥子」と2度、変えさせられた。
「本当に大山倍達と暮らした50年間は毎日、いや1秒1秒がドラマでした。
本当に凄い人でしたよ。
ヤクザかといったらそれは違う。
かといって生真面目な人間かといったらそれも当たらない。
大山倍達をただの空手バカという人もいますけど、私は決してそうは思いません。
本当に並の星の下に生まれた人じゃなかったですね。
あんな破天荒な行き方をしたのに、理解して応援してくれる人はたくさんいましたからね」
大山智弥子はそういうが、彼女もかなりだった。
父親は県会議員というお嬢さん育ちで、ミス東京に選ばれ、芸能界や宝塚からも誘いがあったが、結婚後、千葉県のトイレもないボロ屋で暮らし始めた。
大山倍達はほとんど家に帰ってこず、どこに行っているのかもわからず、近所から「愛人ではないか」と疑われたこともあった。
電気代が払えず電気が止まると家の板や柱を燃料にしてしのいだ。
京都で武道大会が開催され、大山倍達はこれに優勝。
優勝カップを持って家に帰ると、妻:智弥子は長女を出産していた。
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大山倍達は、若木竹丸にウエイトトレーニングを習った。
若木竹丸は中学時代に相撲で関東学生選手権2位。
ウエイトトレーニングは相撲の鍛錬の1つとして始めた。
大学ではボクシングや柔道を学びウエイトトレーニングの研究を続け、日本腕相撲選手権で優勝。
著書「怪力法(怪力法並びに肉体改造体力増進法)」を出版した。
そのトレーニングは合理的で、バーベルの重量が限界に近づいてきたら、トタン板のプレートを使いグラム単位で増やしていった。
こういった方法に加え、大山倍達はバーベルが挙げられなくなると、お尻に畳針を刺してもらい、飛び上がるような痛みで、瞬発力をつけて、バーベルを挙げた。
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大山倍達は、巻き藁を突き、バーベルを挙げ、板やレンガを割り、組手をして稽古に没頭した。
そしてケンカが起こると真っ先に飛んで行った。
それは決して民主主義思想のためではなかった。
1人で何人倒せるか。
自分の技の威力はどれだけか。
戦うこと、強い自分が好きだった。
空手も、型より組手、技より力主義だった。
あるとき、建青の訓練所で剣道を指導していた日本人の先生が大山倍達を一目みて曺寧柱に忠告した。
「あいつは狂っている。
精神を鍛錬しなければいつか殺されるかダメになってしまう。」
こうして大山倍達は、曺寧柱の指示で数か月間、身延山の久遠寺に入り、修業を行った。
そこで地元の猟師や農家と仲良くなってお土産をもらったため、山を下りるとき入る前よりたくさんの食料を持ち帰った。
やがて大山倍達は、7年に及ぶ在日朝鮮人同士の抗争から身を引いた。
建青を抜け、千葉から東京へ引っ越した。
そして山口剛玄の道場に入り稽古を積んだ。
(2年後には剛柔流6段となる)
空手一筋になったのはよかったが、収入がなくなったためヤクザの用心棒をしてしのいだ。
そんなときにアメリカ遠征の話が舞い込んできた。
アメリカに渡ってプロレスのリングで戦ってみないかという。
このとき受け取った契約金で東京都豊島区目白に大きな家を建てた。
この家の庭で空手の稽古と指導を行った。
「目白の野天道場」と呼ばれた。
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戦後、すでに柔道はアメリカにも普及していたが、空手は初上陸だった。
初戦は、シカゴの1万人を超えるプロレスファンが集ったホールだった。
初戦といっても、プロレスをするのではなくプロレスのリングでデモンストレーションを行うことが目的だった。
その控室でのこと。
大部屋にたくさんの外人レスラーが入っていて、その巨体と筋肉に圧倒された。
「何か準備するものはありますか?」
主催者に聞かれ、大山倍達は
「1インチの板5、6枚とレンガを数個」
と注文した。
やがて時間が来て大山倍達はリングに上がった。
そして一礼してから、まずは型。
わけのわからないダンスにブーイングが起こった。
次は試し割り。
「こんな板、割れるのか?」
板を持つパートナーが聞いた。
そこには板が2枚あり、1枚は注文通り1インチほどの板だったが、もう1枚は5インチ(約12㎝)もある板だった。
1インチの板は難なく割れた
続いて分厚い板。
深く息を吸い込み、それを吐き出し、半歩下がって構え、拳を放つと板は真っ二つになった。
そしてすでに拳は、そこにはなかった。
一瞬の出来事だった。
歓声が起こった。
続いて、手刀でのレンガ割り。
しかしリングの柔らかいマットのせいで2度失敗。
3度目は、台座をリング中央からコーナー寄りに移して、衝撃の吸収を少しでも下げ、かつ肘に替えてなんとか成功させた。
客の溜息と拍手を聞きながら、大山倍達は礼をしてからリングを下りた。
初めてのアメリカでの空手のデモンストレーションは成功した。
翌日、新聞のスポーツ欄には、「KARATE」の文字が躍った。
ある日、控室にいた大山倍達がビジネスパートナーと打ち合わせをしていると1人のプロレスラーが近づいてきて、大山倍達の足に唾を吐き、仁王立ちで挑発した。
ビジネスパートナーは囁いた。
「このまま引き下がったらダメ。
なにかこの男脅す方法ない?」
大山倍達は躊躇いながらも、両手の親指と人差し指だけで逆立ちをした。
「ヘイ・ユー・ルック」
丸太のような腕を組んでみていたプロレスラーは冷蔵庫から瓶のコーラを取り出し、歯で栓を抜き、中身を飲み干し、肘に白い布をかぶせ、そこに瓶を挟み、呻き声を上げながら肘を曲げて瓶をバリバリと砕いた。
退いたら負け。
次は大山倍達の番だった。
中身を半分ほど残したコーラ瓶をテーブルの上に立てた。
その前に立って、深く息を吸い込み、カーッと吐き出した。
そして腰を落として決め、手刀をつくり、首の後ろに振りかぶり、気合もろとも瓶口めがけ打った。
すると小さな塊が壁に飛んで、床に転がった。
テーブルには首がなくなったコーラ瓶が立っていた。
瓶切りが成功した。
首が吹き飛んだ瓶をみて誰かがいった。
「オー・マイ・ゴッド・・・」
こうして大山倍達の手は「ゴッドハンド」となった。
その後、大山倍達は、シカゴ、イリノイ、アイオワ、ミシガン、ミネソタ、カナダ、インディアナ、ジョージア、サウスカロライナ、フロリダ、キューバと全米を周った。
そして5セント銀貨を人差し指と中指に親指の3本で曲げて潰したり、手の甲の拳ダコをハンマーで叩かせたり、自然石を手刀で割ったり、アトラクションとしてプロレスと試合を行った。
飛び入りの挑戦者を相手に賞金を賭けて対戦したこともあった。
アイオワ州で警官の挑戦を受けたときは、相手の乱暴な攻めに怒った大山倍達が組みつこうとする相手の右手を左手で払いのけて飛び込み、右手で相手の両目を突き上げ、右膝で金的を蹴り上げた。
そして相手の胸板に拳を叩き込み、肋骨を7本折った。
なんでもアリのルールだったが、観衆は怒り出しリングになだれこもうとしたため、大山倍達は警備員の力を借りてリングを去った。
しかし群衆はホテルまで押しかけたため、警官にシカゴまで護送された。
プロレスのレフリーをつとめていたジャック・デンプシー(元プロボクシングヘビー級チャンピオン)が大山倍達がデモンストレーションをみて、控室を訪ね、その拳をさすったこともあった。
2度目の渡米時には、シカゴで牛を相手に角折のデモンストレーションを行った。
「KARATE」と「Hand of Got」は、アメリカで爆発的な人気を得た。
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大山倍達は、牛と戦うことを空手家の宿題と考えていた。
1953年、アメリカのシカゴで、牛と格闘し、手刀で角を折った。
1954年、千葉県館山の八幡海岸で「猛牛と戦う空手」という記録映画が撮られた。
1000名以上の見物客と4台のカメラが見守る中、大山倍達は、トランクスに上半身裸で登場。
そして450㎏を超える牛の根元の太さは10㎝超、長さ約40㎝という大きな角をつかみ、ねじり倒そうとした。
牛の角で腹部から出血しながらもなんとか倒し、起き上がろうともがく牛の頭を押さえ込んだ。
そして牛の角を左手でつかみ、右手を振り上げ、もう一方の角に振り下ろし、角を叩き折り、表皮だけでつながった角をもぎとり高々とかかげた。
1956年にも田園コロシアムで「牛との格闘」が公開された。
そして「牛殺しの大山」といわれた。
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大山倍達は目白の豪邸から板橋区のアパートに転居し、大山道場を立ち上げた。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、
野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、
大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、
去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、
ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。
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1964年、国際空手道連盟極真会館ができた。
目白の野天道場で2年、オンボロバレエスタジオで8年、10年間のときを経て、大山道場は「極真会館」となり、実戦空手、武道空手の聖地となった。
「寸止めではなく、実際に当ててみなければ、真の強さを極めることはできない」
大山倍達は「実戦空手」を提唱した。
そして世間からは「空手は悪い人間がやるもの」といわれ、空手界からは「ブチ壊しの空手」「ケンカ空手」と異端視され続けた。
1970年代、「空手バカ一代」が大ヒット。
「これは事実談であり、この男は実在する。」という冒頭のフレーズに多くの若者が惹きこまれた。
そして空前の空手ブームが起こった。
極真会館には連日、入門希望者の列ができて、道場に入りきれず廊下やロビー、路上でも稽古が行われた。
また全国各地に支部がつくられていった。
極真は、
「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」
という格言に因んでいる。
「初めて武道を志し、修行によってようやく初心に達するまでに千日(3年)が必要で、その極意、境地に至るためには万日(30年)はかかる」
という意味で、大山倍達は
「武道を志す者は、毎日稽古に没頭し、例えば拳の握り方ひとつについて常に悩み、工夫、研鑚を重ね、ただただ奥義を究めるべく不断の努力をしている1人の求道者に過ぎない」
「中途半端な強さではなく、真の勇者たれ」
という。
どんな困難にも決して「あきらめない」という精神的姿勢は極真空手家に強くみられる特徴である。
大山倍達は、極真空手は、スポーツでも、格闘技でもなく、「武道」であるという。
そして
「武の道の探求は、断崖をよじ登るがごとし。
休むことなく精進すべし」
「空手の修行は急ぐことはない。
階段を1段づつ上がるように、ゆっくりと歩めばよい。
しかしそれは稽古をやりたくなければ休めばいい-ということではなく、焦るな-ということ。
稽古は休まず地道に続ける。
毎日続ける。
しかし精神的に決して急がない。
自分にあったペースで、自分の稽古を積み上げていくこと。
それが武道の修行である」
という。
その願いは
「極真空手を志したすべての人が本当に強くなって胸をはって生きていけるようになってほしい」
ということだった。
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