2018年1月23日 更新
プロレスリング・ノアの生き字引!「中年の星」杉浦貴選手の素顔に迫ります!!
かつて三沢光晴さんがその志を体現すべく立ち上げたプロレスリング・ノア。同団体のデビュー1号で以来ノア一筋17年間、緑のマットを牽引し続けるのが杉浦貴だ。30歳でのプロデビュー、代名詞である必殺技「オリンピック予選スラム」にみる彼のバックボーンを”硬軟織り交ぜながら”お届けしたいと思います!
いえいえ!僕からです。カミさんと話がまとまってから、自衛隊体育学校の上司に「僕、プロレスの世界に行きたいです」と。その時のレスリング班のコーチが本田多聞さんとアマレス同期だということで、コーチが「じゃあ、本田さんに聞いてやるよ」と言ってくださって、それでトントンと繋いでいただけたんです。本田さんも自衛隊体育学校ご出身です。
【閑話休題】20代の頃は…??
-杉浦選手が20代の頃というと世間ではバブル時期…ジュリアナとかディスコ、クラブが流行っておりましたが。
我関せずでしたね。興味や欲求がソッチ方面に行かなくて。その当時はプロレスとかレスリング。「ディスコ行きてぇ」とも思わなかった(笑。
-いや、失礼しました!キャバクラのイメージがどうしても頭に残っておりまして(汗
あ~、キャバクラはですか。それは結構話できますよ(笑。僕、プロレスに入る前というか20代でもう結構お店に行ってたんで。
自衛隊の頃はお給料をいただいたら、もうワアーーーって(笑。池袋とか新宿まで風俗行ってキャバクラ行って。で、体育学校って入校当初はその日の内に寮に戻らなくてはいけないんですけど、2、3年目になると(申請したら)外泊が許されるんですよ(笑。だから僕、20代前半で1人でキャバクラ行ってました!
でしたね(笑、30代の頃になると地方でご縁やお付き合いで行く流れが増えて、1人では行かなくなりました。だから20代で1人キャバクラは卒業です!プロレス界に入る前に一通り、ええ、もう、一通りやってきてからプロレス界に来たんです。
はい!風俗3か所くらい1人でハシゴしたり。
当時はピンサロが全盛期だったと思います。で、池袋はフルーツの名前が付いた店が多かったんですよ、ストロベリーとかレモンとか。だから給料が入ると「よし!今日はフルーツ巡りだ!」って(笑。で、3軒くらいハシゴ!そしたら、一軒目で僕が行った店に近隣大学のレスリング部の学生が入ってきたんですよ。彼らからしたら僕は先輩ですから「やっべ!杉浦さん居るよ!」って他の店に行って。で、僕がその店終わって次の店に行ったら、また彼らと遭遇して。そしたら彼らが「やっべ!杉浦さんまたこっちにも来た( ゚Д゚)!」って(爆
-プロレス界に入る前にそんな事が…(汗。1人で行くって「本物」ですね!
本物です!
僕はディスコとかナンパとかは興味がなかったんです。「金払って済ませた方が早いだろ」って(笑。というか、体育会系はそうなんです。うまいこと女口説くとかできないですもん、体育会系は。
-そ…そうなんですね(汗!では、プロレス界に入った後は遊ぶよりリングに集中と。
はい!いやまあ、そんなコトもないんですけど(苦笑)…でも、そうですね。リングに集中して今日まで、です!
杉浦選手のプロレス観、プロレスへの想い
-スミマセン、再びプロレスに触れたいのですがご自身の技については研究など…?
特定の技へのこだわりがある、というより、僕の場合は「こういう動きにして、こういう技に持っていったら盛り上がるだろうな」というのが、ボーーーっとしている時に浮かんだりします。技だけをボーンって出すより、こうした時にこういう出し方としたら良いなあ、というのが思い浮かぶんですね。
あとブレていた時もそうでない時も、リングの中に関しては、ふざけたことはありません。リングの外ではキャバクラとかやってたけど、あの頃も今も試合に対する気持ちは変わってないんですよね。
-これまでの試合でとくに印象に残っている出来事はありますか?
無いですね。新しい試合をする度に記憶に上書きされていく感じです。あ、でも、ガッカリした試合は記憶に残ったりしますね…試合をやってみて「あっ…こんなしょっぱいんだ、この人」とか、ファン当時は凄いと思っていたけど実際にやってみたら「何だよ…」とか、まあ、噛み合わない時などですね(苦笑)
それでいくと三沢さんはテレビで試合を見ていた時も実際に試合をさせていただいた時も「そのまま」で、すごかったですやっぱり。
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