ヤクルト投手陣と日本プロ野球を救った男・古田敦也の凄さ
2018年5月2日 更新

ヤクルト投手陣と日本プロ野球を救った男・古田敦也の凄さ

ヤクルト一筋で数々の記録を打ち立て、2004年に起こった「プロ野球再編問題」の際に選手会会長としてグラウンド外でも奮闘。2005年~2007年まで選手兼任監督を務めた名捕手、古田敦也選手の成績を改めて振り返ります。

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そして1993年、セリーグ連覇を成し遂げたヤクルトは日本シリーズで再び西武と対戦。前年同様に7戦までもつれましたが、4勝3敗で雪辱を果たします。
これはヤクルトにとって15年振り2度目の日本一でした。
(この年、古田選手はシーズンMVPを受賞)

1995年ヤクルト優勝の歩み

1994年シーズンは、古田選手の負傷が響いたのか4位に沈み、更にその年のオフにハウエル選手と広沢選手が巨人に移籍…となかなか苦しいシーズンになりましたが、1995年シーズンは入れ替わるように阪神から移籍してきたオマリー選手が活躍。古田選手とバッテリーを組んだテリー・ブロス選手がノーヒットノーランを達成。巨大戦力を有した巨人圧倒的有利の下馬評を覆し、2年振りのリーグ優勝。更に、オリックスと対戦した日本シリーズでは「イチロー封じ」に成功し、4勝1敗で2年ぶりの日本一に。
1996年はけが人が続出し、4位沈むものの、1997年には2位に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武を4勝1敗で退けます。
(この時古田選手はシーズンMVPと日本シリーズMVPを獲得)
1998年に4位に終わった野村監督が勇退。
1990年代野村監督の下で4度のリーグ優勝・3度の日本一を果たし「黄金時代」と呼
ばれたヤクルト。ただ、いずれの優勝も、シーズン開幕前は巨大戦力を有する巨人有利という下馬評。さらにシーズン中ヤクルト投手陣にけが人が出て…と、決して楽な優勝でなかったのです。
野村監督の采配という事ももちろんあるのですが、その苦しいチームを正捕手として、クリーンナップとして古田選手は貢献し続けたのです。

○「黄金時代」は過ぎた?

野村監督後、チームを引き継いだ若松監督の1年目は4位に低迷。
ヤクルトは「4位の次の年は優勝」というジンクスがあったものの2年目も4位…ということで、黄金時代は過ぎたのか…と思われていました。
宙に舞う若松監督

宙に舞う若松監督

そして迎えたのが2001年シーズン。
入団2年目の藤井秀悟選手、この年テスト入団した入来智選手、前年にテスト入団していた前田浩継選手…という開幕前は全く予想されていなかった投手陣が奮闘。
そしてロベルト・ペタジーニ選手、古田選手ら野手陣が支え、巨人とのし烈な優勝争いを制し、4年ぶりのリーグ優勝。更に日本シリーズでも「いてまえ打線」を誇る近鉄バッファローズ打線を、ほぼ完ぺきに抑え4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成します。ちなみにこの年、古田選手は8月末に左膝後十字靭帯を損傷する重傷を負ったものの、驚異の回復を見せ、シーズンの後半に復帰しています。
黄金時代は終わり、低迷時期に入ったと思われていたヤクルトにとって、この優勝はより価値があると言えるのではないでしょうか。

○「プロ野球選手会会長」として

選手として成熟期を迎えていた古田選手に、グランド外での大仕事が待ち受けていたのは2004年に起こった「プロ野球再編問題」でした。

ナベツネ「たかが選手が」

2004年大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想が表面化。
経営難にあえぐ球団も多く、最終的に8~10球団の1リーグ制へ…との動きも見せていました。
この動きにプロ野球選手会とファンは猛反発。
当時労働組合日本プロ野球選手会を務めていた古田選手が「オーナー陣と話し合う機会を設けて欲しい」という要望をすると無礼なこと言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄氏が発言。
これが、更に野球ファンの反発を招くことになります。
選手会の会長としてグラウンド外で奮闘する古田選手が打席に入るたび、当時相手チームからも声援が飛びました。
スト決行を伝える各スポーツ紙

スト決行を伝える各スポーツ紙

その後も選手会と経営陣との交渉は難航し、選手会はついに2004年に9月18日・19日の2日間にわたって日本プロ野球史上初のストライキを決行。
選手会の奮闘を知るこのストをプロ野球ファンは支持。
その後行われた両者の交渉によって、オリックスと近鉄の合併阻止には至らなかったものの、新規参入の確約をはじめとした合意を得ることになりました。
これが、楽天イーグルスの球団創設や、交流戦の実施、各球団のファンサービスの向上…など様々なプロ野球改革につながっていくのですが、それも古田選手の奮闘があればこそと言えるのです。

○「代打、オレ」

プロ野球再編問題に一応の決着をみた後、2005年4月には捕手としては野村克也以来2人目。社会人出身としては史上初の2000本安打を達成。
更に10月に1000打点を記録。更にこの年限りで勇退した若松監督に代わり2006年シーズンから古田選手は今度は「選手兼任監督」としてヤクルトの指揮を執ることになります。(野村克也以来29年振り)
監督就任後は、怪我や不調、若手育成というチーム事情も相まって、選手としての出場機会は減らしていくものの時折の先発出場するや健在ぶりを見せつけ、2006年7月4日、5日にいわゆる「代打・俺」を告げるなど引退するまでファンを大いに沸かせました。

古田選手対佐々岡選手

2007年シーズンでチームのBクラスが確定すると、監督としても選手としても引退することを決意。10月7日に神宮球場で古田選手の引退試合がとりおこなわれる事となったが、その時マウンドに上がったのは、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司選手が直訴して登板。9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被り、本拠地のファンに別れを告げると、横浜スタジアムでのシーズン最終戦に、リグス選手に代わって「代打・俺」を告げ最後のバッターボックスに立つと、レフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾りました。
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