”フォーク音楽の女王”ことジョーン・バエズは永久不滅です!!~1960年代フォーク音楽事情
2018年12月13日 更新

”フォーク音楽の女王”ことジョーン・バエズは永久不滅です!!~1960年代フォーク音楽事情

読者の方でジョーン・バエズという米国の歌手をご存知な方はどれだけおられるか、ちょっと心配ですが、私たちがちょうど大人の階段を登ろうとしていた時期に深夜ラジオなどで聞いていたんですよ!!

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ジョーン・バエズはフォークロックの草創期から、今なお活動

1961年の頃のジョーン・バエズ

1961年の頃のジョーン・バエズ

ジョーン・バエズ(英: Joan Chandos Baez、1941年1月9日 - )は、米国出身の女性ミュージシャン、シンガーソングライター。フォークロックの草創期から、今なお第一線で活動し続けている女性音楽アーティストの第一人者。キャリアは60年間にも及び、フォーク界に多くの足跡を残した。

出生名 Joan Chandos Baez
生誕 1941年1月9日(77歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州スタテンアイランド
ジャンル フォーク
フォークロック
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル、ギター、ピアノ、ウクレレ、ジャンベ
活動期間 1958年 - 現在
幼少期のジョーン・バエズ

幼少期のジョーン・バエズ

1941年1月9日、米国・ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に三姉妹の次女として生まれた。父アルバート・バエズ(1912-2007)は、後にスタンフォード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)で教鞭を採るメキシコ系の物理学者であり、Joan Seniorまたは "Big Joan"と呼ばれる彼女の母親、ジョーン・バエズ(1913-2013)(néeBridge)は、スコットランド系の血をひいていた。
父親のアルバートは物理学者であるが、当時としては珍しく、軍需産業への協力を拒否し続けていて、こういった父の毅然とした態度は、娘ジョーン・バエズが歌手となっても貫き続けた公民権運動や反戦運動に対する考え方にも相通ずるものがある。

海外生活で培われた正義感!!

イラクにいた頃のジョーン・バエズ

イラクにいた頃のジョーン・バエズ

ジョーンの父親の仕事の都合で何回か大規模な引越を経験するが、一度は海外の中東イラクのバクダッド大学で教鞭をとり、物理学の研究所を作る仕事に携わることがあり、家族も一緒にその地で暮らすことになった。この頃はジョーンが丁度8~9歳頃であったが、その場所で見たこと、聞いたことがジョーンにとって、”社会の正義”に対する彼女の情熱の基になっていると彼女本人が告白している。
つまり、米国では絶対見れない光景ー動物を人が見ている前で叩き殺したり、乞食がゴミ箱で食い物をあさったり、足を失った子供たちがダンボールの上に乗ってズルズル引きずり回しながら物乞いをしている姿などなど、-子供心にさえも見るに耐え難いものであったのであろう!!

肌の色による差別を体感!!

14歳の頃のジョーン・バエズ

14歳の頃のジョーン・バエズ

1951年、ジョーンが10歳になる頃、父親と一緒に米国に戻り、カリフォルニア州のレッドランズという所で暮らすようになり、2年後には中学校に通うことになったが、この頃に初めて人種の壁を感じる出来事を体験することになる。
ジョーンはラテン系と白人系のハーフになるが、見た目は白人というよりはラテン系が強く現れていたため、白人には”有色人種”扱いをされ、また、スペイン語をうまく話せなかったため、ラテン系には”白人”扱いされるようになり、差別を体感するようになった。
そんな折、彼女を癒したのが「音楽」であった。彼女は合唱団に入り、ソプラノ・メゾソプラノ・アルト・テノールの各々パートを必要に応じて、すべて担当していたそうだ。また、ピアノやギター演奏も習得していた。当時の米国で人気の音楽と言えば、カントリー&ウェスタンとリズム&ブルースで、彼女はその音楽で使用されるコードの殆どを中学校の時にマスターしたそうだ。
The First Lady of Folk - 19...

The First Lady of Folk - 1958-1961 ジョーン・バエズ

1958年に、彼女の父親はMITの教職職を受け入れ、家族は父親と一緒にマサチューセッツ州に移った。移り住んだ所は民俗音楽の中心で有名なこともあり、ジョーンはボストン近郊のケンブリッジの近くでライブ活動を始めた。彼女はクラブでも演奏し、ボストン大学でも約6週間出演したそうだ。1958年に、ケンブリッジのクラブ47で、彼女は彼女の最初のコンサートを行ったのだ。彼女の本当のプロのキャリアは1959年のニューポートフォークフェスティバルからで始まった。その後、
1960年には人生初のファースト・アルバム『ジョーン・バエズ』を世に出した。爆発的なヒットではなかったが、そこそこの成績は収めるのであった。
同アルバムは「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏された物であった。

Joan Baez ~ Donna, Donna

1938年に Dana Dana (ダナダナ)として作られたイディッシュ語の歌で、ウクライナ生まれのユダヤ系アメリカ人ショロム・セクンダ作曲、ベラルーシ生まれのユダヤ系アメリカ人アーロン・ゼイトリン (Aaron Zeitlin) 原作詞である。1940年から1941年にイディッシュ語ミュージカル Esterke に使われた。
牧場から市場へ売られていくかわいそうな子牛を歌っており、これに関して、ユダヤ人がナチスによって強制収容所に連行されていくときの様子を子牛に見立てた反戦歌とする説があるが、定かではない。

Joan Baez - House of The Rising Sun, 1960

「朝日のあたる家」(あさひのあたるいえ、英: The House of the Rising Sun)は、アメリカ合衆国の伝統的なフォーク・ソング。
“Rising Sun Blues”とも呼称される。娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌で、暗い情念に満ちた旋律によって注目された。"The House of the Rising Sun" とは、19世紀に実在した娼館、または刑務所のことを指すという説があるが、確証はない。

内田裕也 - 朝日のあたる家(The House of the Rising Sun) NYWRF 40th

ちょっと前に大女優の樹木希林が亡くなった時、彼女が生前に夫の内田裕也が歌う『朝日のあたる家』が一番聞きたいと言っていたそうな。朝日つながりでアップしてみた・・・。
ほどなくして、1961年9月発売の『ジョーン・バエズ Vol.2(Joan Baez, Vol. 2)』はゴールド・アルバムとなり、翌年リリースされた『ジョーン・バエズ・イン・コンサート 』も同じくゴールド・アルバムを獲得した。バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストは彼女を模倣した

公民権運動・反戦運動にのめり込んで行く!!

1966年頃のジョーン・バエズ

1966年頃のジョーン・バエズ

1960年代中盤にもなると、ベトナム戦争の悲惨さ・深刻さが徐々に米国中に知れ渡って行こうという中、ジョーンの正義感は段々大きくなり、また徴兵拒否で投獄中だった社会活動家のデヴィッド・ハリスと結婚したことにより、ますますその傾向を強くするのだった。彼女は「勝利を我らに(We shall overcome)」などの反戦歌を高らかに歌うようになった。

Joan Baez - We Shall Overcome (BBC Television Theatre, London - June 5, 1965)

当時の日本でも”安保闘争”や”ベトナム戦争反対”などのデモでこの曲が流れていた。

JOAN BAEZ ~ What Have They Done To The Rain?(雨を汚したのは誰?) ~

この曲も聴いていると胸に迫ってくるものがある!!
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