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平成維震軍(へいせいいしんぐん)は、かつて存在したプロレスのユニット。新日本プロレスを主戦場として活動したユニットである。「平成維新軍」と書くのは誤り。
1992年、小林邦昭、越中詩郎が当時の抗争相手であった青柳政司率いる誠心会館の自主興業に、新日本プロレス選手会の許可を得ずに参戦した事が原因で選手会と対立。越中は選手会を脱退しこれに同調した木村健悟さらに誠心会館の青柳、齋藤彰俊と共に反選手会同盟を結成、本隊と抗争を開始する。なお、この時の選手会長は蝶野正洋であり、越中と蝶野が犬猿の仲にあるのはこの事件が引きがねである。1993年には後藤達俊、小原道由が加入し、平成維震軍と改名する。名付け親になったのは、当時、雑誌『週刊ゴング』にて越中の取材を担当していた記者の金澤克彦である。
未だかつてこんなに報われない軍団がいただろうか。
結成当初は全員が袴をはき、髪を丸坊主またはスキンヘッドにして、結束の証としていたり、また、トレードマークとして「覇」と書かれた旗を誇示し、平成維震軍が勝利を収めた際には、リング上でその旗を振ったりするなど、幕末を思い起こさせるギミックを多用したがグッズも流行らず、そのため団体としてもプッシュできずに10年近く続いてしまった不遇な軍団である。
個人的には越中や後藤などの職人が多く、男性受けするユニットだったのでひそかに応援していたが、nWoジャパンの誕生により平成維震軍は忘れ去られていくのであった。
結成当初は全員が袴をはき、髪を丸坊主またはスキンヘッドにして、結束の証としていたり、また、トレードマークとして「覇」と書かれた旗を誇示し、平成維震軍が勝利を収めた際には、リング上でその旗を振ったりするなど、幕末を思い起こさせるギミックを多用したがグッズも流行らず、そのため団体としてもプッシュできずに10年近く続いてしまった不遇な軍団である。
個人的には越中や後藤などの職人が多く、男性受けするユニットだったのでひそかに応援していたが、nWoジャパンの誕生により平成維震軍は忘れ去られていくのであった。
越中詩郎
越中 詩郎(こしなか しろう、1958年9月4日 - )は、東京都江東区出身の男性プロレスラー。血液型はB型。フリーランス(個人事務所:Office K2)。
実は全日本プロレス出身。若い頃から新日本プロレスへの参戦が多い為、間違われやすいが三沢光晴と同期である。
新日本移籍の経緯については、かつて様々な説が流れたが、現在は越中自身が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシと共著・扶桑社)や『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著・宝島社)で自ら真相を明かしている。それによれば、全日離脱・新日移籍の経緯は、三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛鉄之助経由で接触してきたというものである。帰国した足で巡業中で三沢市に滞在していたジャイアント馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている[1]。別れ際、天龍は餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという。
また越中は、前記書籍発刊より後に行われたインタビューで、自らに対する馬場の扱いに、かねてから不満を持っていたことを明かしている
新日本移籍の経緯
越中詩郎特集 - YouTube
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ザ・グレート・カブキ(1996年、東京プロレス参戦により脱退)
ザ・グレート・カブキ(The Great Kabuki、本名:米良 明久(めら あきひさ)、1948年9月8日 - )は、日本のプロレスラー、レフェリー。宮崎県延岡市出身。
東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持ち、アメリカでも大きな成功を収めた代表的なペイントレスラーの一人。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。
ザ・グレート・カブキ vs タイガー・ジェット・シン - YouTube
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木村健悟(1997年脱退、のち復帰)
via kuro.pinoko.jp
木村 健悟(きむら けんご、1953年9月4日 - )は、日本の男性元プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士、元歌手。現品川区議会議員。本名は、木村 聖裔(きむら せいえい、きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。愛媛県新居浜市出身。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス。ニックネームは「稲妻戦士」、若い頃は「貴公子」。
木村健悟といえば、「稲妻レッグラリアート」である。
脚の攻撃は腕の3倍の威力が出せるという理由で、脚のラリアットである稲妻レッグ・ラリアットを開発して得意技としており、スタン・ハンセンがラリアットを放つ腕にサポーターを付けていたのと同様に、レッグラリアートを放つスネにサポーターを着用していた。また、人差し指を掲げ「イナヅマ!」と叫んでから技を放つことが多かった。
"Inazuma & Concorde Fly !" The Strong Machines vs K.Kimura and K.Hoshino at Osaka, Japan on 12/7/84 - YouTube
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