名古屋に来る外国人は特にイメージが無いがリネカーとストイコビッチの2人が大物。途中から欧州からブラジルへとシフトしたため、助っ人の印象は全体的に弱い。
ゲーリー・リネカー
グランパスの外国人を語る上で絶対に忘れてはいけない人がゲーリー・リネカーです。イングランド代表のレジェンド。ワールドカップ得点王の生ける伝説でした。
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ゲーリー・ウィンストン・リネカー OBE(Gary Winston Lineker OBE, 1960年11月30日 - )は、イングランド・レスター出身の元イングランド代表サッカー選手。ポジションはフォワード。ガリー・リネカー、ギャリー・リネカーと表記されることも多い。
1993年のJリーグ開幕時に名古屋グランパスエイトに移籍。当時のJリーグ最高年俸(3億円)だった。しかし、Jリーグでは周囲が期待するほどの活躍ができないまま2年目の1994年シーズン終了後をもって現役を引退した(リーグ戦通算18試合出場4得点)
リネカー 4ゴール (名古屋グランパス) - YouTube
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ドラガン・ストイコビッチ
名古屋の象徴、ストイコビッチ。後に監督として、Jリーグ制覇を成し遂げている偉大なスター。日本代表監督などに取り立たされるが、本人のやる気と協会のニーズが折り合っていない模様。
ドラガン・ストイコビッチ(セルビア語: Драган Стојковић - Dragan Stojković、1965年3月3日 - )は、セルビア(旧ユーゴスラビア)・ニシュ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
1994年から2001年まで日本の名古屋グランパスエイトに移籍し、2度の天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に貢献した。
PIXY スーパープレイ集 1995.09 - YouTube
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ディド・ハーフナー
外国人GKの先駆者。今では外国人枠をGKに使うチームはあまり見られなくなったが、Jリーグ創成期に一番レベルが低いポジションはGKだったと言われている。そのため、コーチとして来日したディドが長く現役を続けることになってしまう。
ハーフナー・ディド(帰化前:ディド・ハーフナー、オランダ語: Dido Havenaar, 1957年9月26日 - )は、オランダ出身で現・日本国籍の元サッカー選手 (GK) ・指導者(JFA 公認S級コーチ)。
1991年、トヨタ自動車(現名古屋グランパス)GKコーチに就任するも、現役に復帰しJリーグ開幕とともに名古屋とプロ契約。1993年、アメリカワールドカップ出場を目指したオフトジャパン(日本代表)のGKコーチも担当、次男ニッキ出生。カタールで行なわれたアジア最終予選ではカズ、ラモスら日本代表選手と共にいわゆるドーハの悲劇を経験している。
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ジョルジーニョ(名古屋)
トヨタサッカー部時代からの中心選手。地味だったが、チームへの貢献度は非常に高くJリーグ開幕後の大物外国人ラッシュにも耐えた。
ジョルジーニョこと、ジョルジ・アントニオ・プチナッチ(Jorge Antônio Putinatti "Jorginho", 1959年8月23日 - )は、ブラジルサンパウロ州出身の元サッカー選手。ポジションはMF(攻撃的MF)。
その後1990-91シーズンから日本サッカーリーグ1部のトヨタ自動車サッカー部に移籍し、翌1991年のコニカカップ制覇に貢献。プロ化に伴い1992年にクラブが名古屋グランパスエイトへと変わった後も中心選手として在籍した。