日本マラソン界の伝説、瀬古利彦の爆発的なラストスパートを動画で振り返る
2015年9月18日 更新

日本マラソン界の伝説、瀬古利彦の爆発的なラストスパートを動画で振り返る

圧倒的なラストスパートで世界の強豪ランナーを抜き去り、日本マラソンを牽引した瀬古利彦の現役時代の映像を動画で確認。

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瀬古利彦(せこ としひこ)

瀬古利彦(せこ としひこ)

1956年7月15日生まれ
三重県桑名市出身
身長170cm
現役時代は国内外のマラソンで戦績15戦10勝。
トラック競技においても5000mからマラソンに至るまでの日本記録を総ナメにし、25,000mと30,000mでは
世界記録を樹立(当時)した。2013年4月より、DeNA Running Club の総監督を務める。
マラソン 成績15戦10勝

78-80、83年 福岡国際マラソン 4勝
81、87年 ボストンマラソン 優勝
83年 東京国際マラソン 優勝
84年 ロサンゼルスオリンピック14位
86年 ロンドンマラソン 優勝
86年 シカゴマラソン 優勝
88年 びわ湖毎日マラソン 優勝
88年 ソウルオリンピック9位

瀬古のレース運びは、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。

これは、コーチ中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身で「ラスト400mでは世界に敵なし」とまで言われた終盤のスパート力、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。

宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。

また、この2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考レースであったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、オリンピックでの金メダルの期待を高めていた。

【動画】瀬古利彦のラストスパート集

瀬古利彦、宗兄弟振り切り福岡国際マラソン3連覇1978~1980▼師・中村清との絆 - YouTube

1979年12月の福岡国際で宗兄弟との接戦を制して連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出された。

83年東京マラソン 瀬古利彦選手のラストスパート - YouTube

脚の故障後、1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場。ロドルフォ・ゴメス(メキシコ)や宗猛を相手に40km手前の鮮やかなスパートで競り勝ち、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒の日本最高記録で世界歴代3位(当時)の好記録で優勝した。

83年福岡国際マラソン 瀬古VSイカンガー - YouTube

最後の100mを12秒という驚異的なペースで走った瀬古がジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックで抜き去った有名なレース。

瀬古利彦の歴史① 中学まで球児だったが請われて陸上へ

中学時代は野球部で投手をしていた。チームは県大会に出場するも早々に敗退するようなレベルだったが、瀬古個人には東海地区の野球の強豪校からの誘いもあったことなどもあり、当時の瀬古は高校球児として甲子園を目指すつもりでいた。

ところが、1年生時に校内の5キロ走大会で優勝したことから、陸上部より懇願されて大会に出るようになる。

市の陸上大会の2000メートル競走で優勝、続く県大会でも当時の三重県記録で優勝したことがきっかけで陸上競技に魅力を感じるようになり、陸上競技の強豪校・四日市工業高校への入学を決意する。

入学直後から中距離走で頭角を現し、高校1年で山形インターハイ800mに出場し、3位に入賞。
高校2年次には地元・三重インターハイの800m、1500mで優勝。千葉国体1500m、5000mで優勝。
3年次には福岡インターハイにて800m・1500m・5000mの中長距離三冠に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年次同様に2冠に終わる。
しかし、800mで予選・準決勝・決勝の3レース、1500m、5000mは予選・決勝の2レースと4日間で合計15400mを走破しての2種目の優勝と1種目の準優勝の成績に対し、日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手と評価されていた。
茨城国体では、前年度に続き2年連続で1500m、5000mの二冠を達成。

全国高等学校駅伝競走大会では3年連続で「花の1区」(10km)に出場し、2年生時には区間賞を獲得した(ただし、この年の第1区では誘導員のミスでスタート後のトラック周回が1周少ない9.6kmとなり、記録は「参考記録」扱いとなった)。
正式な区間記録をねらった3年生時は、途中で腹痛に見舞われて後退し、2年連続の区間賞獲得もならなかった。

大学進学に当たり関東の学校の誘いも多かった。箱根駅伝最多優勝・最多出場を誇る中央大学への入学が決まりかけたが、早稲田大学OBからの勧誘で、(瀬古の父は中央大学へ頭を下げ)早稲田大学の一般入試(運動部員に対する特別優遇の推薦入試等は当時無かった)を受験した。しかし合格に至らなかったため、高校を卒業後、南カリフォルニア大学へ在籍しながらの「浪人生活」を送り、翌年早稲田大学教育学部に合格した。

瀬古利彦の歴史② 名コーチ中村清との出会い

1976年、早稲田大学入学と共に運命の出会いを果たす。
その相手こそが、早稲田大学競走部で監督をしていた中村清。
瀬古は中村の期待通りの走りを見せた。
箱根駅伝では、3年・4年と<地獄の二区>を走り、区間新記録を打ち出した。

そして、中村は瀬古にこう言った。
「お前はマラソンをやれば世界一になれる」

実は、中村は、ベルリンオリンピック1500mの代表選手。
戦争によって競技生活を奪われた中村は、自分の果たせなかった夢を、瀬古に託したのである。
瀬古利彦と中村清

瀬古利彦と中村清

1980年、瀬古の就職に合わせ早稲田大学と兼務する形でヱスビー食品陸上部の監督に就任。
瀬古の成功に刺激されたランナーが中村の門を叩くこととなり、「中村学校」の異名を取った。

瀬古利彦の歴史③ オリンピックとの縁。

【モスクワオリンピック】
モスクワオリンピック出場をかけた1979年福岡国際マラソン。
宗兄弟を抜き去り、2連覇となる優勝を果たす。
だが、日本はモスクワオリンピック不参加を決定。
瀬古のオリンピックデビューは、4年後まで先延ばしとなった。

この時期が瀬古の全盛期と見る人も多く、このモスクワオリンピック不参加は今も惜しまれ続けている。

【ロサンゼルスオリンピック】
1984年8月のオリンピック本番では、調整の失敗により14位と惨敗。
これは中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられている。

本人の著書ではロス五輪年の1984年は年始めから常に体の倦怠感に悩まされ、ぐったりした体に鞭を打ちながらハードな練習を継続していた。疲労が抜けないのなら休めばよかったと語ってもいる。
12月の福岡国際で優勝してから抜く時期を作らないで、本練習に入っており、その調子を8月まで続けようとしたこと自体に無理があったようだ。

【ソウルオリンピック】
ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場し、翌年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となる。
この代表選出については、瀬古に対する救済策ではないかという意見が当時多く出された。この代表選考の不透明さは瀬古の責任ではないが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになった。
本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わる。
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1980年代の男子マラソンといえばこの人「瀬古利彦」の名前がもっとも知名度が高かったのではないでしょうか。惜しくも14位に終わったロサンゼルスオリンピックが印象に残りますが、終盤の圧倒的なスパート力が魅力の、男子マラソンで一時代を築いた名選手でした。
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