頬骨を骨折し、フェイスガード付きの特製ヘルメットで出場。
西武との優勝争いの最中であった1999年9月8日の対西武戦で松坂大輔から顔面に死球を受け頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、9月25日の優勝決定試合で先制点となる先頭打者本塁打を放つなど、ダイエー初の優勝に大きく貢献する。
ダイエー 秋山幸二のスーパープレー 1999年日本シリーズ第3戦 - YouTube
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小久保は、秋山に対する印象を質問されて「常にプロ意識を持っていた。『できないのは選手が悪い、プロならできて当たり前』という考え方。決して『人間ならそのくらいにミスはあるさ』といった姿勢がみられない。言い訳をしない。その姿勢と意識の高さを学んできた。」と答えている。
松中も「秋山さんはプレーで示してくださる方でした。秋山さんのプレーからは、チームを引っ張るには、ああいうプレーが必要なんだと、感じるものがありました」と語っている。
川崎は「何も語らない人だった。その代わりに、いつも球場にいた。何歳になっても誰よりも長くグラウンドにいるのが秋山先輩だった。一番最初に打って、若い選手と一緒に最後までいる、その姿に教えられることは多かった」と著書に記している。
2000年には2000試合目で、通算2000本安打を達成。
2000年、北九州市民球場で迎えた2000試合目で2000本安打という大記録を同じ日に達成した。
01年からは持病の腰痛がプレーに影響し始め、02年で区切りをつける決意をした。
引退セレモニーは福岡ダイエーホークスだけでなく、13年間在籍した西武でも行われた。異例の2球団「引退」となったが、これも人柄のなせる業かもしれない。
そして福岡ドームでの引退セレモニーで「これで野球を卒業します」とメッセージを残し、22年にわたるプロ野球生活にピリオドを打った。
秋山幸二選手引退試合&引退セレモニー - YouTube
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秋山の代名詞となったバック宙ホームイン
いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)。
過去にパ・リーグ公式戦で2度(1987年6月28日・日ハム戦、1991年5月2日・ロッテ戦いずれもサヨナラ本塁打の時)、日本シリーズで3度披露した。初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を得てから行ったが、この時は当時の広島方面から相当の顰蹙を買った。
またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまったため、後ずさりするような形でホームを踏んだ。
その他、1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通り越していたため、前かがみで右手でホームにタッチした。
1990年の対巨人戦、1991年の対広島戦でも披露。
最後となった対広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。
西武秋山 日本シリーズでバック宙ホームイン - YouTube
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1991年日本シリーズ広島戦第7戦で披露したツーランホームラン後のバック宙ホームインが米テレビ局「CBSスポーツ」電子版で特集され、「今まで目撃した中で、本塁打を喜ぶ際の最も洗練された例かもしれない」と報じられている。
着地で尻餅だろーが、ホームベース踏んでなかろーが、あの時の秋山は痺れるくらいにかっこよかった。
— ノアズミル (@noahsmill) October 13, 2014
西武時代のバッティングフォーム
癖の無い流れるようなバッティングフォームで野球少年たちのお手本とされていた。
秋山は「手首が返る瞬間がもっともボールにパワーが伝わるので、そのポイントで打つことを心がけていた」と語っている。
秋山は「手首が返る瞬間がもっともボールにパワーが伝わるので、そのポイントで打つことを心がけていた」と語っている。
ダイエーホークスへの移籍に伴い、フェンスの低い西武ドームからフェンスの高い福岡ドームに対応するために、秋山はバッティングフォームを変えている。
その狙いは、打球の弾道を高くするためのものだが、結果的に、腰を痛め選手寿命を縮めてしまった。
「あそこで腰を痛めなければ50歳まで現役を続けることができた」と秋山は後に語っている。
その狙いは、打球の弾道を高くするためのものだが、結果的に、腰を痛め選手寿命を縮めてしまった。
「あそこで腰を痛めなければ50歳まで現役を続けることができた」と秋山は後に語っている。