【東尾修投手】黒い霧に覆われた低迷期~黄金時代の夜明けまで飛び続けた「トンビ」
2016年11月25日 更新

【東尾修投手】黒い霧に覆われた低迷期~黄金時代の夜明けまで飛び続けた「トンビ」

「黒い霧事件」により、主力投手がチームを追放。翌年から入団間もない東尾投手がローテーションを担う事になる。長い長い低迷期からその夜明けまで投げ続け、そして引退後も監督としてライオンズに貢献した東尾投手の球歴を振り返る。

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東尾投手の転機となった「黒い霧」事件

後に野球の名門として知られる様になる箕島高校が甲子園に初出場した1968年の春の選抜大会。チームをベスト4まで押し上げたのがエースの東尾投手でした。その年のオフに開かれたドラフト会議で、東尾投手は西鉄ライオンズから1位指名を受けます。
東尾投手が入団した当時の西鉄ライオンズは「野武士軍団」と呼ばれ、パリーグを席巻していたかつての栄光は失われ、毎年の様にペナントレースの順位を下げていく低迷期に入っていました。
東尾投手(西鉄時代)

東尾投手(西鉄時代)

そんな状態でも、そこはプロ。高校時代は速球投手として鳴らした東尾投手でも、周囲のレベルに全くついていけず、2軍でも打ち込まれる日々が続きます。そうしてプロの高い壁にぶつかった東尾投手に転機が訪れます。それが1969年に発生したプロ野球史最大の八百長事件「黒い霧事件」でした。
「黒い霧事件」を報じる新聞記事

「黒い霧事件」を報じる新聞記事

1969年西鉄ライオンズのフロントは、試合中KOされても悪びれなかった永易投手の態度に不信を感じ、極秘に調査を開始した所、永易投手が「八百長(敗退行為)」を告白。更に当時の外国人助っ人が「うちのチームにわざとエラーする」とライオンズ番記者に告白。それを機に新聞社が取材を重ね、1969年10月読売新聞と報知新聞が「永易投手が公式戦で八百長を演じていた」と報道されます。
以降も「八百長」に加担した選手が次々に発覚。捜査が進むうちに、フロントが永易投手に「更正資金」を支払っていた事が発覚するなど、球界全体を巻き込んだ一大スキャンダルとなっていく。これらの一連の事件は「黒い霧事件」と呼ばれ、日本プロ野球史上最大の汚点となっています。
詳細は以下の「黒い霧事件」を参照。

「ライオンズ」を飛び続けた「トンビ」

「黒い事件」を受け、当時ライオンズのエースだった池永正明投手ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、東尾投手が一軍の先発投手としてフル回転せざるを得なくなります。先発ローテを担ったものの、黒い霧事件の余波を受け、戦力やチームの士気は低下。打線との兼ね合いもあって東尾投手は大きく負け越す事が続きます(70年・11勝18敗、71年・8勝16敗、72年・18勝25敗)。
そうして観客動員数も激減していった西鉄は1972年に球団経営を放棄。「太平洋クラブライオンズ」に球団名称を変換します。

※当時から八百長を一貫して否定していた池永正明投手は、21世紀になってから「復権」し、永久追放処分はとかれています。
「太平洋クラブライオンズ」時代の東尾投手(21番)

「太平洋クラブライオンズ」時代の東尾投手(21番)

1975年に東尾投手は23勝(15敗)を挙げて初の最多勝を獲得(15敗もこの年のリーグ最多敗戦)。
東尾投手は「ケンカ投法」と呼ばれたライダーやシュートを軸にした横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気の投球スタイルで球界屈指の投手になっていきます。
東尾投手(クラウンライターライオンズ時代)

東尾投手(クラウンライターライオンズ時代)

記事中の「トンビ」は東尾の音読みに由来したあだ名
太平洋クラブライオンズは1977年のシーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ に変更。上記写真にある1978年シーズンに東尾投手は23勝(15敗)を挙げたのですが、結局クラウンライターライオンズもこの年限り。
「西武ライオンズ」誕生

「西武ライオンズ」誕生

1979年に西武グループが買収し、本拠地を所沢に持つ「西武ライオンズ」が誕生。以降、南海ホークスがダイエーホークスに名称変更し、本拠地を福岡に移転するまで九州はプロ野球球団不在の地となります。

ライオンズ黄金時代の幕明け

西武ライオンズに名称が変わってもチーム自体は長い長い低迷期が続きます。そんな中、東尾投手はローテーションの大黒柱として投げ続けました。そして1983年、西鉄ライオンズ時代から数えて19年ぶりにリーグ優勝。
 (1586072)

この1982年の日本シリーズで中日ドラゴンズを4勝2敗で倒し、24年ぶりにチームは日本一(西武ライオンズとしては初の日本一)になります。このシリーズで東尾投手は2勝1敗1セーブを挙げてMVPに選ばれます。

1982 日本シリーズ 

出典 youtu.be
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