漫才ブームとは
1980年にはじまった漫才を中心としたお笑いブーム。フジテレビの雨傘番組であった「THE MANZAI」がきっかけでブレイクする。1981年には「オレたちひょうきん族」がはじまりピークを迎える。
横山やすし・西川きよし、ツービート、B&B、ザ・ぼんち、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ、宮川大助・花子、ら若手芸人がブレイクした。
ツービート
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コンビ名ツービートの由来を、本人が好んだジャズからである、Beet=甜菜(サトウダイコン)=天才に掛けている等深読みする向きもあるが、本人が語る所「適当」だそうである。 たけしの著書の本に「ツービートという芸名はオレが考えた。漫才師らしくなくていいと思ってね」との書き込みがある。 主なネタは、「ブスいじめ」や「田舎者いじめ」「老人いじめ」等、いわゆるいじめネタや差別ネタが多く、ブラックユーモア漫才で人気を勝ち取る。B&Bと共演の際はいわゆる「いじめ」ネタはしていなかった。1980年に出版されたツービート名義の著書『ツービートのわっ毒ガスだ』は同年の年間6位となるベストセラーになる。流行語になった「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」など、人間の本質を抉ったブラックユーモアが漫才ブームでは受けた。一方でツービートの漫才は、その差別ネタから生放送では使えないと言われ、NHKに出演した際には大幅に喋りをカットされた。 NHK新人漫才コンクールには1976年から3回連続出場したが、優勝は逃した。
B&B
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それまでの息と間を大切にするしゃべくり漫才ではなく、コンビの2人が掛け合いをしないで、ボケが一方的にしゃべり、そのスピードとリズムで笑いを増幅させ、爆笑の渦を巻き起こすB&Bの漫才は、新しいスタイルだった。それまでの"8ビート"から"16ビート"に上げたといわれるB&Bの"マシンガン漫才"は、同時代の漫才師に大きな影響を与えた。漫才ブームの特徴であるテンポの速い漫才はB&Bが与えた影響といわれる。澤田隆治はB&Bについて「うまいも何もないですよ。とにかくギャー!と攻めて行くという、だからボクシングでいえば、カー!と打ち合ってる感じ。そういうのは無かったですよ。だから、これは漫才を変えれたなと思う」と述べている。澤田は「B&Bの人気爆発によって、自身が温めてきた若手、紳助・竜介、オール阪神・巨人、のりお・よしお、ゆーとぴあなどを登場させた」と述べている。
島田紳助・松本竜介
島田紳助・松本竜介(しまだしんすけ・まつもとりゅうすけ)は、1970年代後半から1980年代前半にかけて活動した吉本興業所属のお笑いコンビ。略称「紳助・竜介」(しんすけ・りゅうすけ)、「紳竜」(しんりゅう)。当時の漫才ではスタンダードとされた背広のスタイルを廃して、リーゼントヘアにつなぎ作業着という不良スタイルの「ツッパリ漫才」で、漫才ブームを牽引するコンビとなる。
横山やすし・西川きよし
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通称は「やすしきよし(やすし・きよし)」「やすきよ(やす・きよ)」など。また、その漫才を特に「やすきよ漫才」と呼ぶこともある。
中山礼子・八多恵太の勧めで、1966年6月1日にコンビ結成。コンビとしての初舞台は京都花月。1960年代の演芸ブームで世に出て人気者となる。その後1980年代に至るまでテレビ番組の司会などで活躍。1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点に達していた。しかし1986年、きよしが国会議員(参議院)に当選。やすしは度重なる不祥事で活動機会が激減し、吉本興業の専属契約を解除されたことでコンビは解散。1996年1月21日、やすしの死によってコンビは消滅した。
オール阪神・巨人
漫才のスタイルは正統派のしゃべくり漫才で、ボケ役とツッコミ役はネタや場面によって入れ替わる。また、テレビでは一切放映しない劇場限定のネタも有している。夢路いとし・喜味こいしの死後はバラエティー生活笑百科などで、途中で彼らの漫才の物真似(巨人=夢路いとし、阪神=喜味こいし)を行う場合もある。他にも嘗て番組の企画で砂川捨丸・中村春代の物真似を化粧やちょび髭、衣装を揃えて演じ切った。他にも平和ラッパ・日佐丸の日佐丸が「こんなん連れてやってますねん」とボヤき、これを受けてラッパが「苦労しまっせ(または「気ィ使いまっせェー」)」「ハハーッ、さいならー(しゃいならー)」も真似する。
蘇る漫才ブーム
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(左)ビートたけし
(右)ビートきよし