田村亮子 柔道48kg級 銀メダル
人気アニメにちなんでYAWARAちゃんと言われ、国民的人気を誇っていた田村亮子。前大会バルセロナオリンピックでは銀メダルに終わり、アトランタでは絶対的優勝候補として臨んだ。しかし、北朝鮮の伏兵、ケー・スンヒに敗れ、またも銀メダルに終わった。
のちに、田村は「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」と語っている。
のちに、田村は「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」と語っている。
谷 亮子(たに りょうこ、1975年(昭和50年)9月6日 - )は日本の政治家、元柔道競技者(四段)。生活の党と山本太郎となかまたち所属の参議院議員(1期)、生活の党と山本太郎となかまたち副代表兼参議院幹事長。旧姓は田村(たむら)。オリンピックで2度、世界選手権で7度金メダルを獲得した。柔道競技の引退後、2010年の第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例候補として当選し、のちに小沢一郎らとともに離党。
帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院修了。夫はプロ野球選手の谷佳知である。
1996年3月の体重別では、決勝で長井から効果を取って優勝してオリンピック代表に選ばれた。
7月のアトランタオリンピックでは、サボンが強敵になってくるものの田村のナンバー1の座は揺るがず、今度こそ金メダルと期待された。
準決勝でサボンを背負投で破るも、決勝戦ではワイルドカードで出場。暗黙のルールを破って出場した北朝鮮のケー・スンヒに苦戦。ケー・スンヒは柔道着を左前に着ているので組み手が取れず、終盤払腰を小外刈で切り返されて効果を取られ、さらに指導を与えられて敗れ、前回大会に続いて2位になった。 この敗戦によって、前回オリンピックで敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップした。 後のインタビューにおいて、「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」と語った。
アトランタオリンピック_女子柔道48kg決勝 - YouTube
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有森裕子 女子マラソン 銅メダル
1992バルセロナオリンピック選考の際、最後の最後まで松野明美と争いを続け、選べれた有森は見事銀メダルを獲得した日本陸上史に残る出来事から4年、年齢的にもアトランタでは期待度が高くなかった有森だが、驚異的な粘りの走行をして、見事銅メダルを獲得、日本が感動に包まれた。
有森 裕子(ありもり ゆうこ、1966年12月17日 - )は、元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分けでもある。日本体育大学体育学部体育学科卒業、日本陸上競技連盟の理事、スペシャルオリンピックス日本の理事長、日体大客員教授、国際陸上競技連盟女性委員会委員、国連人口基金親善大使。株式会社RIGHTS.取締役。
1995年、五輪選考レースだった北海道マラソンへバルセロナ五輪以来、約3年ぶりのフルマラソンに出走する。そのレース前日の記者会見で有森は、今までの苦悩を思い巡らせながら「もう一度スタートラインに立てて嬉しい」と涙を見せた。北海道マラソン当日は、気温25度前後と小雨の涼しい好条件の中をスタート。有森はレース前半から独走となり、粘り強い走りが復活。大会初のサブ30となる2時間29分17秒の当時の大会新記録を樹立し、マラソン初優勝を達成。この成績が高く評価されて、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出。二大会連続の五輪出場となった。
1996年アトランタ五輪女子マラソン本番での有森は、30Km地点で2位集団を抜け出してスパート、トップを走っていたファツマ・ロバ(エチオピアの旗 エチオピア)を追いかけ始める。その後33Km過ぎでは、前回のバルセロナ五輪に続いて、ワレンティナ・エゴロワとの激闘を繰り広げた。しかし35Km手前でエゴロワとは徐々に引き離され、苦しい表情を浮かべながらも3番手の位置を死守していた。
そして有森は優勝したファツマ・ロバ、2位のエゴロワに続いて陸上競技場へ入る。4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得した。二大会連続の五輪メダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初である。
ゴール後のインタビューで「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った姿は感動を呼んだ。「自分で自分をほめたい」という言葉はフォーク歌手高石ともやが書いた詩の一節を引用したもので、この詩を初めて聞いたとき涙を流して感動し、いつかこの言葉を言いたいと暖めていたもので、その年の流行語大賞に選ばれた。なお、「自分で自分をほめてあげたい」は誤記である。
この年、肖像権の自主管理(それまで日本の陸上選手は、日本陸連が選手から肖像権の預託を受け、陸連が日本オリンピック委員会に一括して委託していた)を主張し、自らプロ宣言を行いCMに出演。事実上日本の「プロランナー」第1号となった。有森のプロ宣言や上述のライツの影響もあり、日本オリンピック委員会は選手の肖像権の一括管理を断念した。
十文字貴信 自転車競技男子1000mタイムトライアル 銅メダル
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筋力に勝る外国勢にまだまだ勝てないと思われていた日本自転車陣だったが、競輪選手の十文字貴信が見事銅メダルに輝いた。
当時、今の五郎丸のように十文字という珍しい苗字も手伝って、中野浩一以来のスター選手となり、競輪発祥の地、日本のプライドは保たれた。
当時、今の五郎丸のように十文字という珍しい苗字も手伝って、中野浩一以来のスター選手となり、競輪発祥の地、日本のプライドは保たれた。
十文字 貴信(じゅうもんじ たかのぶ 1975年11月10日 - )は、日本競輪学校第75期卒業の日本の競輪選手・自転車競技選手。現在の千葉県野田市出身。日本競輪選手会茨城県支部所属。師匠は川村恵三。初出走は1995年4月8日の宇都宮競輪場。初勝利は同年4月24日の小倉競輪場。
1996年に行なわれた全日本プロ選手権自転車競技大会(1000mのタイムトライアル)であった。自転車競技にプロ選手の参加が認められることになったアトランタオリンピックに向け、夏季オリンピックの代表選考会を兼ねたこの大会において、「自転車のセッティングがピッタリ合った」という十文字は、当時の大会記録を1秒以上更新するタイムで走破し、有力視されていた神山雄一郎や吉岡稔真を抑えてオリンピック出場権を獲得した。十文字自身は当時、自転車競技で世界に通用する力を得られるのは数年先と認識しており、「行くしかないのか」「タイム的には5位か6位にはなれるだろう」、「とりあえず自己ベストを出して帰ってきたいな」という程度の気持ちでオリンピックに臨んだが、結果はプロの競輪選手として初の銅メダル獲得というものであった。
【自転車競技】1996 アトランタ五輪 1kmTT 十文字貴信銅メダル - YouTube
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いかがでしたでしょうか?仮に忘れていた人も、動画をちょっと見るだけで一気に感動が蘇ってきた人が多いかと思います。やはりスポーツは最高です!!