1968年(昭和43年) 集英社『SEVENTEEN (セブンティーン)』 創刊
1970年3月 マガジンハウス『an・an (アンアン)』 創刊
1970年3月 マガジンハウス『an・an (アンアン)』 創刊
2011年10月から2012年9月までの印刷証明付き平均発行部数は21万部弱。誌名は創刊当時モスクワ動物園で飼育されていたパンダの名で、一般公募によって東北の男子高校生の案が選ばれた。実際に、創刊当初の表紙にはパンダのマークが描かれていた。
若年層をメインに中年層にも購読されるいわゆるファッション雑誌。話題提供の発信源として認知され、「デザイナーズブランド」「カラス族」「刈り上げヘア」「ハウスマヌカン」などというファッション系の流行語を数多く生んだ。
1980年代には「スタイリスト」という職業に初めてスポットを当て、また、1990年代には男性や女性のヘアヌード写真を掲載して話題を呼んだ。
女性がファッション・メイク、恋愛・セックス、ダイエット、映画、占い、マナーなど、20代の女性に関連する多くのテーマを扱い、また、グラビア誌として、旬の俳優・アイドル・タレント・スポーツ選手などを男女問わずに特集している。
商業誌の性格上、さまざまなジャンルにおいて購買意欲を向上させる記事が多いため、ファッションを評釈するための、いわゆる被服系モード誌とは異なる。女性が興味を持つことならばなんでも取り上げる「雑食系」の総合週刊誌に成長している。
(出典:Wikipedia「an・an」)
1969年、平凡出版社(現マガジンハウス)の当時岩堀喜之助社長は清水達雄専務をともない、パリへ赴きフランスの女性週刊誌『ELLE』と提携契約を結んだ。日本にモードを定着させることに一役買った、ライセンスマガジンのスタートだった。
ただ、『アンアン/エル・ジャポン』は、日本オリジナル編集と提携した『ELLE』のページをミックスした、変則なモード誌で、1982年『アンアン』から独立して『エル・ジャポン』として同社から創刊されるまでこのスタイルは続いた。
1971年5月 集英社『non-no(ノンノ)』 創刊
1971年5月 集英社『non-no(ノンノ)』 創刊
誌名はアイヌ語の「花」から。平凡パンチ(平凡出版、現・マガジンハウス)の対抗馬として集英社より週刊プレイボーイが創刊された経緯と同じく、1971年、平凡パンチ女性版(後のan・an)に対抗する形で創刊された。発売日は、長らく毎月5日・20日の月2回であったが、2010年9月18日発売の11月号より毎月20日のみとなった。
女性ファッション誌の老舗として、1970年代には「an・an」とともに旅行特集を掲載し、アンノン族と呼ばれる、ファッション雑誌やガイドブックを片手に一人旅や少人数で旅行する若い女性を生み出した。
人気ファッションモデルを数多く輩出し、女優、タレントに転身し成功した例も数多い。
創刊初期はモード系のコーディネートがメインであったが、1989年に「SPUR」が創刊されると同時にカジュアル系に方針転換した。また、「PINKY」の発売終了後は、その役割を引き継ぎ、コーディネートの傾向が多少変化した。
直接のつながりはないが、「Seventeen」より多少ターゲットの年齢が高いという点は創刊以来一貫している。
2014年現在の編集長は小林亘。
(出典:Wikipedia「non-no」)
平凡出版社(現在のマガジンハウス)のアンアンの創刊から1年3ヶ月後、集英社からノンノが創刊された。
表紙モデルは、パリコレのマヌカン、アンシュカ・エクマン。衣裳デザインは、エマニュエル・ウンガロ。non・no(ノンノ)は、アイヌ語で、「花」という意味。創刊号では、コート・ダジュールロケを行っている。
1971年 『non-no』創刊。旅行特集で前年創刊の『anan(アンアン)』とともにアンノン族現象を引き起こす。
1975年6月 光文社『JJ (ジェイジェイ)』 創刊
1975年6月 光文社『JJ (ジェイジェイ)』 創刊
1975年(昭和50年)、『女性自身』別冊として隔月刊で創刊された。
誌名は、「Josei-Jishin」の頭文字を取って「JJ」と決定された。
創刊号は6月号。創刊編集長は並河良(のち光文社社長、現会長)。表紙モデルはケレン吉川、撮影は篠山紀信であった。
1978年から『JJ』として月刊化される。 誌面でおもに紹介されるファッションは、いわゆるコンサバ系(コンサバファッション)である。同誌の成功により、他社も『CanCam』『ViVi』『Ray』などの、ロゴデザインから誌内レイアウトまでコンセプトをそっくり真似た女子大生向けファッション誌を続々と創刊させた。
のちにこれら4誌は誌面構成の類似性、発売日がすべて同じ23日であることから「赤文字雑誌」と呼ばれるようになる。
創刊以降、バブル景気時期を経て長年の間「赤文字雑誌」の売り上げ部数トップを誇っていたが、2000年代に入ってから『CanCam』が行ったモデルのタレント化戦略の成功により急激に部数を落とし、現在では実売部数にして『ViVi』『CanCam』の半分以下と低迷している。
2010年(平成22年)以降は、一般の読者モデルのほか、自ら会社を経営しファッションブランドを展開する「おしゃP」(おしゃれプロデューサー)と呼ばれる人物や、ブログでファッションやライフスタイルなどを公開してモデルとして活動する「ブロモ」を前面に押し出した誌面づくりを行っている。
2013年現在の編集長は原さやか氏。男性が登場する誌面では、兄弟/姉妹誌にあたる男性ファッション誌『Gainer』のモデルが主に起用されているが、2012年以降は大幅に減少している。
(出典:Wikipedia「JJ (雑誌)」)
JJは、女性自身の別冊として、光文社より、1975(昭和50)年6月に創刊された。表紙モデルは、ケレン・吉川。
1975年 『JJ』創刊。ニュートラが全国的に流行。
1976年6月 アシェット婦人画報社『mc Sister (エムシーシスター)』 創刊
1976年6月 アシェット婦人画報社『mc Sister (エムシーシスター)』 創刊
1966年に隔月で創刊され、1973年月刊化。2002年2月号にて休刊。「mc」とは兄妹誌「MEN'S CLUB」の略。
自誌に登場するモデルを人格化し個性を尊重していることにより他雑誌との差別化する手法を取り入れ、後に他の女性情報誌も追随する事になる。
専属モデルはシスターモデルとよばれ、年に一度の一般公募オーディションにより選考されていた。地方在住者の原石を見つけることを考慮したオーディションにより、倍率は、約一万倍であった。他の雑誌とは比べ物にならないくらい、オーディション人気が高かった。
同誌のモデルからは小川ローザを始めとして1970年代には中村れい子、1980年代以降は村上里佳子など数多くのタレントや女優が生み出され、スターへの登竜門と言われていた時期もあった。
毎年夏に東京を中心に数都市にてシスターフェスティバル(Sister Festival)というイベントを主催していた。専属モデルによるファッションショーの他、企業ブースなども出店しており、ファッション雑誌主催のイベントとしては大規模なものとしては初めての試みであり、他誌も追随するようになった。
(出典:Wikipedia「エムシーシスター」)
1977年7月 集英社『MORE (モア)』 創刊
1977年7月 集英社『MORE (モア)』 創刊
1977年創刊。20代から30代のOLを主要ターゲットとし、実質的な『non-no』の上位版にあたる。
同日発売の『with』(講談社)とは誌面の構成・掲載商品などが似通っており、何かと対比されることが多い。
なお、毎年12月号(10月28日発売)は嵐が表紙を飾る。
(出典:Wikipedia「MORE (雑誌)」)
1978年1月 小学館『プチセブン(Petit Seven)』 創刊
1978年1月 小学館『プチセブン(Petit Seven)』 創刊
1990年代前期から中期にかけて、10代少女向けファッション誌の中では圧倒的な発行部数を誇った。誌面に登場するモデルは「プチモ」と呼ばれ、彼女たちの中にはプチセブン卒業後も、モデル、タレント、女優として活躍する者が少なくない。
プチセブン休刊後、その継続誌として『Pretty Style』が創刊されたが、その誌面にプチセブンの面影は無い。
(出典:Wikipedia「プチセブン」)
毎月1日発売(日祝日、年末年始などの場合は1 - 3日前倒しされる)。
1968年に、総合少女週刊誌『マーガレット』のお姉さん雑誌『週刊セブンティーン』として創刊、アメリカで1944年に創刊された『Seventeen』の日本版として出発した。掲載内容はファッション・少女漫画・芸能等。
1987年に、誌名の表記をアルファベットの『SEVENTEEN』とし、判型も変更、リニューアルされた。通巻1000号となる1988年1号より、ファッション雑誌に方向転換し、月2回の刊行(毎月1日・15日)となる。
漫画雑誌としての部分は『月刊ティアラ』として新創刊され、引き継がれた。その後、ライバル誌だった小学館の『プチセブン』の廃刊後、急速に売り上げを伸ばし(公称35万部)、「ティーンのNo.1雑誌」と銘打っている。2008年、創刊40周年を機に月刊化、表記を『Seventeen』に変更した。
上位誌は1971年創刊の『non-no』であるが、2004~09年にかけては系統の異なるものとして『PINKY』も発売された。
(出典:Wikipedia「Seventeen (日本の雑誌)」)