「第13回日本サッカー殿堂」にジーコが選出!
日本サッカー協会は、第13回日本サッカー殿堂の選出された選手、チームを発表した。
個人部門ではJリーグ黎明期に鹿島アントラーズで活躍し、その後日本代表監督も務めたジーコ(63)が選出された。
さらに今回から新設したチーム部門では、1936年のベルリンオリンピックに出場した日本代表チームを選出した。
個人部門ではJリーグ黎明期に鹿島アントラーズで活躍し、その後日本代表監督も務めたジーコ(63)が選出された。
さらに今回から新設したチーム部門では、1936年のベルリンオリンピックに出場した日本代表チームを選出した。
チーム部門で選出の「第11回オリンピック競技大会日本代表チーム」は、1936年のベルリンオリンピックで初出場ながら強豪スウェーデンに勝利し「ベルリンの奇跡」と呼ばれたチームだ。
掲額式典は、9月10日にJFAハウスの日本サッカーミュージアムで行われる。
掲額式典は、9月10日にJFAハウスの日本サッカーミュージアムで行われる。
鹿島や日本代表監督、ブラジル代表で活躍したジーコ
ジーコは、日本サッカーの貢献に尽力してきた。
1991年に住友金属(現・鹿島アントラーズ)に加入し、チームの強化に貢献。
1995年には鹿島アントラーズのテクニカル・アドバイザーに就任した。
また、2002年には、日本代表監督に就任し、2004年のアジアカップで優勝に導いた。
2006年のドイツW杯では惨敗するも、日本代表監督として指揮した国際Aマッチ、71試合38勝は歴代最多記録になっている。
1991年に住友金属(現・鹿島アントラーズ)に加入し、チームの強化に貢献。
1995年には鹿島アントラーズのテクニカル・アドバイザーに就任した。
また、2002年には、日本代表監督に就任し、2004年のアジアカップで優勝に導いた。
2006年のドイツW杯では惨敗するも、日本代表監督として指揮した国際Aマッチ、71試合38勝は歴代最多記録になっている。
via www.so-net.ne.jp
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ジーコは母国ブラジル代表としても3大会連続でW杯に出場した。
1982年のスペイン大会では、同じく日本代表監督も務めることになるファルカンや鹿島アントラーズ監督として名将と呼ばれるトニーニョ・セレーゾ、ソクラテスと共に「黄金のカルテット」を形成し、優勝候補の一角に数えられた(結果は2次リーグ敗退)。
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。
1982年のスペイン大会では、同じく日本代表監督も務めることになるファルカンや鹿島アントラーズ監督として名将と呼ばれるトニーニョ・セレーゾ、ソクラテスと共に「黄金のカルテット」を形成し、優勝候補の一角に数えられた(結果は2次リーグ敗退)。
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。
【サッカー列伝】選手時代のジーコの偉大さと鹿島での功績を振り返ってみます! - Middle Edge(ミドルエッジ)
ジーコは白いペレや神様とまで呼ばれた偉大な選手でした。監督の印象も強くなりましたが、選手時代はピカイチの存在でした!鹿島アントラーズでの功績も含め、振り返ってみます。
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