2年間の炸裂と、それから
このマンガの連載はたった2年で終了します。
アシスタントもなくひとりで描き続け酷使状態だった鴨川氏と
編集部に確執が起きたという話ですね。
鴨川 あの頃ね、本当、人には見せられないですけどね、気分悪い状態でね、キンドーさんがやることっていうのは、実際自分が体動かしてやってたんですよ。
大泉 うわー!
鴨川 ゴリラダンスとか、ああいうのは全部。もう絶対人には見せられない姿ですけれども。「何やってんだお前?」って感じですよね。
@GizmoCity
— なをたつ (@Na_o_tax_CK) August 28, 2017
金藤日陽(きんどうにちよう)40歳(♂)きんどーちゃんよッ❣️
#マカロニほうれん荘 pic.twitter.com/lh4Ais55H2
本人曰く、「ギャグ漫画家の才能は、神様が一生の中で、たった1本だけくれた鰹節のようなもの」と語る。
当時いちばん忙しい時は、週刊誌が月5本に増刊が月2、3本。その他に掲載誌の表紙も描いてた。だけど自分は酒井さんの最後の弟子だと思ってたから、どんなにキッくても手が抜けないんです。編集者は「アシスタント入れろ」っていうんだけど、僕にとってそれは手抜きなんです。コマの隅々にまで作者の主張がないと読者は共感できないですよ。だからほとんど全部一人で描いてました。
3日徹夜なんてのはザラで、5日間ブツ通しで仕事したこともありましたね。市販の眠気覚ましのアンプルが手放せなかった。心腹がドーンとなる強い薬を大箱で買って、一日十本以上飲んでました。「マカロニ~」を描いてた時は、この作品と心中してもいいっていう気持ちでしたから。
そんな生活ですからアウトプットばかりでインプットするヒマがない。だから「マカロニはうれん荘」には僕が20歳になるまでの10年間に得たものすべてを注ぎ込んだんです。それを3年間で使い果たした。連載が終わった時は、もうカラッポです。
『マカロニほうれん荘』が人気を博す一方で、若手の原稿料は低く抑える、との当時の編集部の方針で経済的には困窮しており、冬は暖房もない部屋で漫画を描き続け、「手があかぎれで腫れあがり、ミッキーマウスの(手の)ようだった」と後年回想している。
こうした中、やがて人気作ゆえに続きを描き続けていく事のプレッシャーに心身とも疲れ果て、何度も連載終了を編集サイドに打診。しかし聞き入れてもらえず追い詰められた結果、わざと作品をサインペンで雑に描き入稿するなど、漫画執筆を放棄するかのような非常手段に出たため、編集部も渋々認め、1979年連載終了した。
「ほうれん荘」はまだ建っている
いつまであるかはわかりませんが・・・
井草3丁目にて。『マカロニほうれん荘』でモデルになった木造家屋。今は廃墟だが、まだ実在していたとは。鴨川つばめは二階に住んでいたらしい。#マカロニほうれん荘 #鴨川つばめ pic.twitter.com/0qhQA5AylL
— toshi (@kodachrome65623) August 7, 2017
鴨川 「ほうれん荘」のモデルになったアパートなんですけれども、人が階段昇ってくると揺れるんですよ、すごいアパートで。
大泉 築何年ぐらいですかね。その当時で。
鴨川 何年でしょうね。
大泉 戦前の物じゃないでしょうね。
鴨川 ひょっとしたら戦前の物かもしれない。窓閉めたって、外にいるのと変わらないんですよ。風邪がヒューヒューいって。
そしてまだ増刷されている「マカロニほうれん荘」
そのマンガのコミックスがいまだに絶版になっていないという、おどろき。
昭和52年11月10日初版発行
平成28年4月15日64版発行
でした。
鴨川先生に印税がつつがなく入りますように!
40歳。高校一年生。はい。