「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States  America 」ではなく「United Support  Artists 」
2024年8月25日 更新

「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States America 」ではなく「United Support Artists 」

ときは来た!今こそ世界が1つになるとき!!1枚のレコードが世界中の人々の心をつなぎ、食糧、薬品、物資となって飢えた子供たちに届けられ、1枚のレコードが人々の魂を揺り動かし、多くの命を救った。

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「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」は、骨太で荒削りでポジティブなアメリカン・ロックン・ロールバンド。
パワフルハスキーボイスのボーカリスト、35歳のヒューイ・ルイスは、ヒッピーだった両親がアイルランドからアメリカに渡り、白人ながら黒人居住区に住み、ヒューイ・ルイスはリベラル(自由主義)と黒人音楽に触れながら育った。
名門進学校、ローレンス高校を卒業後、大学には行かずにヨーロッパに放浪の旅に出て、その間にブルースハープを習得。
帰国後、コーネル大学に入学したが、すぐに退学。
サンフランシスコに引っ越し、「クローバー」というバンドに加入して活動。
しかし5年後、メンバーが「ドゥービー・ブラザーズ」に移籍したために解散。
クローバーのメンバーだったショーン・ホッパーとバンド仲間を探してサンフランシスコやロサンゼルスのバーを転々として、同じく失業中だったマリオ・シポリナ、ジョニー・コラ、クリス・ヘイズ、ビル・ギブソンと「ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース」を結成し、バーバンドとして活動。
1980年、アルバム「ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース」でメジャーデビュー。
1982年、2ndアルバム「ベイエリアの風」を発表し、シングル「ビリーヴ・イン・ラヴ」がヒット。
1983年、前年末にリリースされた「Thriller」が猛威をふるう中、3rdアルバム「Sports」をリリースし、1984年6月に全米No.1獲得。
アルバムは800万枚以上を売り上げ、「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」、「ハート・オブ・ロックンロール」、「If This Is It」などシングルも連続ヒットし、一躍スターの仲間入り。
ちなみに1984年に全米1位になったアルバムは、

マイケル・ジャクソンはの「Thriller」
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「Sports」
映画「Foot Loose」のサントラ
ブルース・スプリングスティーンの「Born In The U.S.A.」
プリンスの「Purple Rain」

の5枚だけだった。

Huey Lewis & The News - The Power Of Love


「We Are The World」の数ヵ月後には、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主題歌「The Power Of Love」が全米1位となり、世界的にもブレイクしてバンドの代表曲となった。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のプロデューサー、スティーヴン・スピルバーグとロバート・ゼメキス監督は、
「マイケル・J・フォックス演じる主人公のマーティ・マクフライがヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのファンなんだ」
といって映画のために曲を書いてほしいと依頼。
ヒューイ・ルイスは、映画のために曲を書いたことがなかったので不安だったが引き受け、
「ソニーのウォークマンをつけて、ちょっとしたジョギングをしている最中に曲を書いたんだ。
そして制作の最後にコントロールルームでボーカルを聴いてたら、キーボードのショーン・ホッパーが『俺たちが今までやってきた中で最高だな』といってくれたんだよ」
ヒューイ・ルイスは映画にも出演。
オーディションの審査員役として主人公マーティが「パワー・オブ・ラヴ」のイントロ部分の演奏中、
「わかった、もういい、止めろ。
うるさ過ぎる。
次ッ‼」

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52歳のウィリー・ネルソンは、カントリーのギターシンガーソングライター。
生後間もなく母親が家を出て、父親が再婚したため、姉妹と共に祖父母に育てられ、ベイラー大学中退後、1950年代に音楽活動を開始。
歌手としての芽は出ず、作曲家としての仕事が主で、1960年代後半にヒッピーに強い影響を受け、音楽性を吸収。
1975年、シングル「Blue Eyes Crying in the Rain(雨の別離)」が、ビルボード誌カントリー・チャート1位、グラミー賞のベスト・カントリー・ボーカル部門を受賞。
1980年「オン・ザ・ロード・アゲイン」、1982年「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」が大ヒット。
保守的なカントリー界で枯れた歌声でヒッピー的スタイルの歌を歌うウィリー・ネルソンは、「アウトロー・カントリー」」といわれ、フォークやロック、R&B、ジャズなど他のジャンルとも積極的に交流しクロスオーバーな活動をしたことにより、様々なミュージシャンからの支持を集めた。
「We Are The World」では、ディオンヌ・ワーウィックの次、アル・ジャロウの前に歌った。
大学で農業を学び、ヒッピー思想によって自然志向が強いウィリー・ネルソンは、「We Are The World」に参加した後、レーガン大統領の農業政策により困窮する農家のためのチャリティーイベント「ファーム・エイド」を開催した。

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44歳のボブ・ディランは、
「風に吹かれて」
「時代は変る」
「ミスター・タンブリン・マン」
「ライク・ア・ローリング・ストーン」
「見張塔からずっと」
「天国への扉」
などで多くの人に多大な影響を与え、ジミ・ヘンドリックスを心酔させ、サム・クックに
「黒人ではなく白人によって書かれた曲だということが信じられなかった」
そしてジョン・レノンに
「ディランは最高だった」
といわせたシンガーソングライター。
幼い頃からピアノを弾き始め、ラジオから流れる様々な音楽を自力で習得。
レコード店に入り浸り、
「自分の周りにはない別の世界からの歌を覚えた」
ハイスクール時代、エルビス・プレスリーに憧れてバンドを組んで演奏。
奨学金を得てミネソタ州のミネソタ大学に入学。
半年後には授業に出席しなくなり、持っていたエレキギターをアコースティック・ギターに交換し、フォーク・シンガーとしての活動を開始。
1961年冬、ミネソタ大学を中退してニューヨーク州、ニューヨークに移住し、コーヒーハウスやバーなどで弾き語り。
1962年3月、1stアルバム「ボブ・ディラン」でデビュー。
1963年5月、22歳のときに出した2ndアルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」で政治や社会に抗議するメッセージソングが注目を浴びた。
1964年、イギリスのビートルズやローリング・ストーンズと交流。
エレキギターを使用した作品を矢継ぎ早に発表し、「フォークに対する裏切り」といわれた。
1965年、バック・バンドと共に数曲演奏した後、弾き語りを要求するファンから強い非難を受けて舞台を降りた後、アコースティック・ギター1本で再登場し、観客に
「お前らなんて信じない(I don't believe in you, you're a liar)」
といい放った。

Amazon.co.jp: はじめてディラン:Mixing Up The Medicine (CD) (特典なし): ミュージック

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ボブ・ディランの魅力は、なんといっても文学的な歌詞と言葉。
戦争や差別といった社会問題を取り上げ、熱のある声と秀逸なフレーズで語りかけ、その一言が人々の心に強く訴えかける。
「風に吹かれて」は、激化していた公民権運動の歌で、
「♪どれだけの砲弾が飛び交えば、撃つことをやめられるのか」
「♪人々が自由になるまでに、人は何度顔を背けるのだろうか」
「♪人はどれだけ耳を持てば、人々の悲しみを聞くことができるのか」
「♪どれだけの人が命を落とせば、どれだけ多くの命が落とされたことに気づくのだろうか?」
と人間はどれほどの過ちを犯せば、その愚かさに気づくことができるのかと訴えかけた。
「ハッティ・キャロルの寂しい死」は、レストランで働く黒人女性が裕福な白人青年に殺されるという実話を実名で歌った曲。
1番では事件が起きたことと青年が起訴されたことを、2番では白人青年がどんな恵まれた環境で生きている人物ですぐに保釈されたことを、3番では黒人女性の境遇と理不尽な運命を歌い、4番で、裁判で懲役6ヶ月というあり得ない判決を出したことを歌った。
ボブ・ディランは、

グラミー賞
グラミーの殿堂(録音から25年以上経過した質的、歴史的に著しいレコーディングから選出)
ロックの殿堂
ソングライターの殿堂入り
アカデミー賞
ゴールデングローブ賞

だけでなく

フランス芸術文化勲章
ピューリッツァー賞(アメリカの新聞賞)特別賞
大統領自由勲章

さらに

ノーベル文学賞

まで受賞。
まったく異次元のアーティストとなった。

Amazon.co.jp: ビーイング・ウィズ・ユー: ミュージック

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ケン・クレイガンは、全米トップチャートをみながら、アーティストに声をかけて大半から断られたが、逆にスモーキー・ロビンソンは、呼ばれてもいないのにスタジオに現れ、クインシージョーンズは、
「なに?!スモーキーが来てくれた?
リストに入れていないよ、どうしよう」
と慌てた。
45歳のスモーキー・ロビンソンは、ミュージシャンであり、黒人アーティストの名門レーベル、モータウンの副社長となったブラックミュージック界の大御所。
ハイスクール時代に友人らと「ミラクルズ」というコーラスグループを結成。
作曲家のベリー・ゴーディーの目に留まり、1959年にゴーディーが設立したモータウンレコードの契約アーティスト第1号となり、1961年、モータウン副社長就任。
「ショップ・アラウンド」、ビートルズもカバーした「ユーヴ・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」、「ミッキーズ・モンキー」などがヒット。
ミラクルズでの歌手活動だけでなく、作曲家としてもモータウン所属の黒人アーティストに多くの楽曲を提供。
その魂(ソウル)がこもった詞曲のクオリティーの高さは、ボブ・ディランに
「現代アメリカ最高の詩人」
と評された。
Just a moment... (2584966)

「We Are The World」に参加したアーティストは、5人までゲストの同伴が許された。
アーティストと一緒にやってきたボディガードやマネージャー、恋人、家族などは、スタジオに隣接する、500人を収容できる「チャーリー・チャップリンサウンドステージ」へ。
そこには円卓と椅子、料理や飲み物が用意されていて、大型モニターにはスタジオのレコーディングの模様が映し出された。
しかしレコーディングスタジオに入れるのはアーティストのみだった。
スモーキー・ロビンソンから少し遅れて、ライオネル・リッチー、「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」、シンディー・ローパー、ティナ・ターナー、ウェイロン・ジェニングスがスタジオに到着。
ケン・クレイガンに
「ライオネル、絶妙のタイミングだよ」
といって迎えたライオネル・リッチーは、生中継で行われた「アメリカン・ミュージック・アワード」の司会を務めた上、全10部門中、最優秀ポップ/ロック男性アーティスト部門を含む5つの賞を受賞。
そしてA&Mスタジオに到着するや否やスクリプト(台本)をチェックし、すぐに「We Are the World」でも仕切り始めた。
「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」は39歳のダリル・ホールと38歳のジョン・オーツによるデュオグループで、通称「ホール・アンド・オーツ」
ダリル・ホールは、ボーカル、ギター、キーボードを担当。
音楽家の父と声楽教師の母を持ち、読書と空想が好きでスポーツは苦手だったダリル・ホールは、R&Bやソウルに傾倒。
ジョン・オーツは、ボーカル、ギター担当。
4歳のときに父親の仕事でフィラデルフィアに引っ越し。
5歳のときに遊園地の特設会場でビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(ロックンロール・ブームの先駆者、代表曲は「ロック・アラウンド・ザ・クロック」)の演奏を観て音楽に興味を抱き、9歳のときにエレキ・ギターを手に入れて友達らとバンドの真似事を始め、中学校に入ると音楽スクールに通った。
高校ではバンドに入って地元のクラブやパーティーで演奏。
1966年、ダリル・ホールとジョン・オーツは、共にテンプル大学に進学。
レスリングで奨学金を得て入学したジョン・オーツは、ジャーナリズムを専攻し、学業のかたわら、「マスターズ」というセミプロバンドのボーカル兼ギタリストとして活躍。
ダンス会場で開催されたパーティーに出演した際、楽屋に「テンプトーンズ」というバンドがいて、その中のメンバーの1人がダリル・ホールで、2人は同じ大学だと知り、親しくなった。
1968年、徴兵のために「マスターズ」も「テンプトーンズ」も解散。
その後、ダリル・ホールが「ガリバー」というロックバンドからアルバムを出したとき、ジョン・オーツはヨーロッパに放浪の旅に出ていた。
1970年、帰国したジョン・オーツと「ガリバー」が売れなかったダリル・ホールは、以前から一緒に書き溜めていた曲を2人で演奏して歌うことを決め、小さなクラブで「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」がスタート。
1972年、レコード・デビュー。
1974年、マサチューセッツ州出身の兄弟グループ「タヴァレス」が「シーズ・ゴーン」をカバーしたことで、作者した「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」も注目され、1975年、4枚目のアルバム「Daryl Hall John Oates」がヒットし、シングルカットされた「サラ・スマイル」が全米4位。
1976年「シーズ・ゴーン」、
1977年「リッチ・ガール」((初の全米1位)、1978年「イッツ・ア・ラーフ」、
1979年「ウェイト・フォー・ミー」
1980年「ふられた気持ち」、
1981年「キッス・オン・マイ・リスト」
1982年「プライベート・アイズ」「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」、
1983年「マンイーター」、
1984年「アウト・オブ・タッチ」
などのヒットを連発。

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32歳のシンディ・ローパーは、「アメリカン・ミュージック・アワード」で「最優秀ポップ/ロック女性アーティスト部門」で受賞したばかり。
ニューヨーク市ブルックリン区に生まれ、5歳のときに両親が離婚し、母、姉、弟と共に引っ越し。
12歳のときにギターの弾き方を学び、作詞を始めた。
都会育ちのシンディ・ローパーは、引っ越し先の学校で周りとなじめず、絵を描いたり、歌を歌ったりして過ごした。
いつも場違いな感覚にとらわれ、周囲からちょっと浮いた存在で、常に変わり者をみるような視線を感じていた。
17歳のとき、自分の置かれている環境に嫌気がさし、高校を退学し、歯ブラシ、替えの下着、オノ・ヨーコの著書「グレープフルーツ」を持って、愛犬スパークルと共に家出。
高校卒業認定資格に合格し、ジョンソン州立大学のアートクラスに入り、ウェイトレス、絵のモデル、競馬場で競走馬の調教後の生理運動役ホットウォーカー、空手教室の呼びこみなどをしながら、学校に通い、トロント北部にある森でテントを張ってスケッチ。
そしてバンドのバックグラウンドシンガーとして小さなクラブやディスコで歌い続けた。
19歳のとき、喉を酷使して声帯に損傷し、声が出なくなる。
2度と歌う事が出来ないとまでいわれたが、クラッシック音楽のボイス・トレーナーのトレーニングを受け、歌声を取り戻したのは1年間後。

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24歳のとき、キーボード兼サックス・プレイヤーのジョン・テュリと知り合って意気投合し、バンド「ブルーエンジェル」を結成。
バンドのコンセプトは、
「ロカビリーをニューウエーブに乗せ、バンドのサウンドで蘇らせる」
ロカビリーとは、ロックンロールとヒルビリー(山岳地帯で発達した民謡調歌曲)が融合してできた、いわゆる古い音楽。
3年後、アルバム「Blue Angel」で念願のメジャーデビュー。
このアルバムは評論家には絶賛されたが商業的には成功せず、自分の考えを主張して、あまりいうことを聞かないシンディ・ローパーを持て余したレコード会社は手を引き、バンドは解散。
シンディ・ローパーは自己破産を申請し、小売店で働きながら音楽活動を続け、やがてマネジメント業を営むデビット・ウルフと知り合い、レコード会社と契約。
1983年、ソロデビューアルバム「シーズ・ソー・アン・ユージュアル」をリリース。
ファースト・シングルの「Girl Just Want to Have Fun」は、ヒット・チャートを急上昇して全米2位。
シンディ・ローパーが古着のワンピースで踊るミュージックビデオは、「ビデオ・オブ・ザ・イヤー」を獲得。
セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は1位、サードシングルの「シー・バップ」は3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。
同じ年に「ライク・ア・バージン」でデビューしたマドンナが25歳だったのに対し、シンディ・ローパーは30歳と遅咲き。
しかしド派手な衣装、一部を刈り上げ、黄色に赤色を挿した髪、ラメラメな化粧、そしてパワフルなヴォーカル、ノリノリダンスなどエネルギッシュなパフォーマンスで観る者を圧倒。
いつも自分らしく生きることを大切にするシンディ・ローパーは、「We Are The World」に
「みんな重い腰を上げて!
飢饉を止めなくっちゃ!
音楽のジャンルなんて関係ないわ」
といって参加し、並みいるベテランの中でナチュラルに振る舞い、クインシー・ジョーンズに
「アドリブ入れてもいい?」
と聞いて、喜ばせた。
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  • 2024/9/9 05:41

    読み応えがある、よい記事でした!
    いくつかの知らなかった逸話、知らなかった人たちの背景を知れたのもよかった。
    ほとんどの大スターたちが何度も挫折を味わってきた苦労人だった事、スタッフもまた只働きで作品作りに取り組んでいたと知って曲の印象が一変しました。
    日本のチャリティー番組と同じ、上っ面なお涙頂戴企画と若かりし当時は見下していました。
    改めて聴いてみます、ありがとう!

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