「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States  America 」ではなく「United Support  Artists 」
2024年8月25日 更新

「We Are the World 」の志士たち。「USA for AFRICA」のUSAは「United States America 」ではなく「United Support Artists 」

ときは来た!今こそ世界が1つになるとき!!1枚のレコードが世界中の人々の心をつなぎ、食糧、薬品、物資となって飢えた子供たちに届けられ、1枚のレコードが人々の魂を揺り動かし、多くの命を救った。

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7歳のとき、緑内障が原因で盲目となって盲学校に入学。
点字楽譜を右手で読んで左手で弾き、左手で読んで右手で弾くという作業を繰り返し、クラシック、ジャズ、スウィング、ゴスペル、ブルース、カントリー、あらゆる音楽を吸収。
12歳のとき、20歳くらいの女性と初体験。
それ以来、
「昔も今も女性なしではいられない」
14歳のとき、母アレサが亡くなると学校に戻らないことを決意。
母親の友人と同居するためにフロリダ州ジャクソンビルに転居し、家にピアノがないのでアメリカ音楽家連盟632区に加盟し、他の奏者の一緒に連盟施設のピアノで練習。
一晩4ドルでバンドのピアノを弾く生活を1年以上続けたが、定職に就けず16歳のときにフロリダ州オーランドに転居。
貧しくて数日食にありつけないこともある中、あるバンドのピアノオーディションに落選し、フロリダ州タンパに転居。
18歳となり、2つの仕事を掛け持ちしていたレイ・チャールズは、さらに大都市に転居することをと決め、
「シカゴやニューヨークは大きすぎる」
とワシントン州シアトルに移り、そこで15歳のクインシー・ジョーンズと出会い、友人に。
そして酒場で午前1~5時に演奏。
このとき創造性を引き出して作曲しやすくすると聞いて試してみたいと熱望していたマリファナを初使用。
(薬物中毒となり、1955年、1958年、1961年、1964年と4度逮捕)

Amazon.co.jp: ヴェリー・ベスト・オブ・レイ・チャールズ: ミュージック

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19歳のとき、初めてレコーディングを行い「Confession Blues」でデビューすると、いきなりビルボード誌のR&Bチャート2位。
その頃のレイ・チャールズの神は、ジャズピアニストのアート・テイタムだったが、直接的な手本は、ジャズピアニストのナット・キング・コールとブルースピアニストのチャールズ・ブラウン。
彼らのピアノを弾きながら歌う弾き語りスタイルを
「完全にモノマネ」
そのために、
「オリジナリティがない」
といわれたが、やがて幼少期から親しんできたブルースとゴスペルを融合させた、後に「ソウル・ミュージック」と呼ばれるスタイルを確立。
1954年、24歳のときに「I've Got A Woman」で世界的地位を獲得。
1959年発表の「What'd I Say」は、エルビス・プレスリー、 ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、ボビー・ダーリンなど数多くのアーティストがカバーするスタンダード・ナンバーに。
1960年、「Georgia On My Mind」はミリオンセラー。
1961年、予定された公演で人種差別的な座席配置がされていたことに抗議し、出演をキャンセル。
1962年、「I Can't Stop Loving You」がR&Bチャートに10週連続第1位、「Busted」「Take These Chains from My Heart」「You Are My Sunshine」もヒット。
1964年、「太陽は燃えている」
1963年、薬物治療のために休業
1966年、「I Don't Need No Doctor」「Let's Go Get Stone」
1967年、「Here We Go Again」

とヒットを出し続け、国民的歌手に。
素晴らしいしゃがれ声、体をひねりながら弾くピアノプレー、そして満面の笑顔で多くのファンの心をわしづかみ。
結果、自分の子供の数が正確にわからないほど女性にモテた。
(2度結婚し、10人の女性との間に12人の子ができた)

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38歳のリンジー・バッキンガムは、ロックバンド「フリートウッド・マック」のギタリストでソロとしても活動。
7歳からギターを始め、サイケデリック・バンド「フリッツ」に参加。
「フリッツ」解散後、同じ高校出身で「フリッツ」のメンバーだったスティービー・ニックスとデュオ「バッキンガム・ニックス」を結成。
2枚目のアルバムを録音中、人気ロックバンド「フリートウッド・マック」のリーダー、ミック・フリートウッドと出会い、スティービー・ニックスと共に「フリートウッド・マック」に加入し、バンドの黄金期を支えた。
「We Are The World」ではトイレでマイケル・ジャクソンと鉢合わせし、
「彼を怖がらせたらしい!
彼はナーバスだった。
誰が入って来ても驚く感じだったね。
だから僕はただ、会釈をしただけだったよ」

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40歳のキム・カーンズは、独特のハスキーボイスを持つ女性シンガー。
弁護士の父親、病院理事の母親を持ち、ロサンゼルスで育ち、高校を卒業後、曲を書いたり歌ったりデモテープを作成したりと活動。
21歳のとき、フォークグループ「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」のメンバーとしてデビュー。
24歳になるとソングライターとして本格的にソロ活動を開始。
26歳のとき、「Nobody Knows」が映画「バニシング・ポイント」でエンディングの曲になり、独特のハスキーボイスで人気を獲得したが、セールス的にはさほど恵まれず、その後も地道な活動が続いた。
1981年、36歳のとき、ロックンロール時代の最初の女性シンガーソングライターといわれるジャッキー・デシャノンの「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」をカバー。
すると全米チャート9週間連続1位の大ヒットを記録し、グラミー賞で最優秀楽曲賞、最優秀レコード賞を受賞。
1983年、青春ダンス映画「フラッシュダンス」に「I'll Be There Where The Heart Is 」を提供。
そして1984年、「We Are The World」で、ヒューイ・ルイス-シンディ・ローパー-キム・カーンズというコーラスリレーで力強いボーカルを響かせた。
シーラ・Eは、28歳のドラムボーカリスト。
シーラ・Eの「E」は、「エスコヴィド」の略で、父親は有名なジャズパーカッショニスト、ピート・エスコヴェド。
親戚もほとんどがミュージシャンだったシーラ・Eは、太鼓の達人になり、10代の頃から何人ものスターたちのバックで演奏。
23歳のとき、初めてプリンスと出会い、その後、数年間、口説かれ続けたが、プリンスには常に他の女性の影もあった。
「プリンスってスキャンダラスでエロチックな曲を書くじゃない?
表現が極端だから変人扱いされるけど何度も聴くとクセになる。
だからあんなにヒットしたの。
彼ほど音楽的に才能のある人を知らないわ」
1984年、27歳のときにプリンスのバンドに加入し、レコーディングやライブツアーに参加し、強力なドラムで圧倒。
その間にプリンスと恋人関係となり、「Erotic City」でプリンスとデュエットし、プリンスの全面バックアップでデビューアルバム「The Glamorous Life(ザ・グラマラス・ライフ)」をリリースすると、ワイルドなドラムとセクシーな歌声で全米チャートで7位を獲得し、グラミー賞にノミネートされた。
そのままプリンスの全米ツアーに帯同していたとき、「We Are The World」から参加のお声がかかった。
「「We Are The World」の収録日はプリンスのツアーの真っ最中で、もし参加すると3日間寝られないことになる。
身体的にはキツいけど歌手としてソロデビューしたばかりだったから、いい機会だと思ってOKしたの。
先輩の歌手の皆さんにちゃんと挨拶したかったから」
と快諾。
プリンスも同じく「We Are The World」への参加を求められていたが、
「彼は『ボクはいけないかもって伝えてある』っていっていたわ。
だって次の日にすぐツアーのステージがあったから主役の自分が徹夜して倒れてステージに支障をきたすわけにはいかない。
だから行けないかもって」
こうして歌手としてデビュー2年目のシーラ・Eは、1人でスタジオに行き、度肝を抜かれた.
「マイケル・ジャクソンは実は大丈夫。
前に会ったことあったし.スティービーも会ったことある。
でもね、レイ・チャールズは初めてで『うわっ、本物だ!』って。
洗面所で隣がダイアナ・ロスだったりするし、それになんといったってブルース・スプリングスティーンよ。
思わずハグしちゃった。
『ボス、大ファンです』っていったら『君の曲,大好きだ。マジでいい』っていってくれて。
『え~っ!ボスが私のこと知ってるなんて』ってなって、もう大興奮よ」

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マイケル・ジャクソンとプリンス(そしてマドンナ)は、同い年。
しかしマイケル・ジャクソンが11歳でデビューしたのに比べ、19歳でデビューしたプリンスは、芸の道ではかなり後輩。
父親と母親は働きながらジャズバンド「プリンス・ロジャー・バンド」でピアニストとボーカリストとして活動。
このバンド名が息子の名前の由来となった。
母親は、父親より17歳年下。
プリンスを生んだとき、父親と前妻との間にできた4人の子がいた。
プリンスが誕生した同時期、前妻が男の子を生み、さらにその後、プリンスの母親が女の子を生んだ。
こうして異母兄弟と共に育ったが、7歳のときに両親は離婚し、父親が家を出た。
やがて母親は再婚し、プリンスは継父にジェームズ・ブラウンのライブに連れていってもらい、バックバンドまで完璧にコントロールされたステージを観て
「自分も同じようにやりたい」
と思った。
しかし継父とはなじめず、家出をするようになり、親友のアンドレ・アンダーソンの家に転がり込むと、散らかった部屋をテープで仕切り、自分のエリアだけ整理整頓。
中学校では学業優秀な上、157cmという低身長にもかかわらずミネソタ州で1番強いバスケットボールチームのレギュラーに。
文武両道の優等生の上、アンドレ・アンダーソと一緒にバンドを組み、アンドレ・アンダーソンの家の地下室で練習を重ね、様々な楽器を習得。
音楽理論も熱心に学び、さらに著作権や契約に関しても本格的に勉強。

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駆け出しのミュージシャンだった頃は金欠でマクドナルドの周辺をうろついて匂いを嗅いでいたが、シンセサイザーを主体としたファンクミュージックで注目されるようになり、19歳のとき、ワーナー・ブラザーズと100万ドル+最低3枚のアルバムリリースという破格の条件で契約。
翌1978年、作詞、作曲、プロデュース、すべての楽器の演奏を1人で行ったデビューアルバム 「for You」 をリリースして衝撃を与えた。
そして1979年、マイケル・ジャクソンとの対決が始まる。
まず8月10日、マイケル・ジャクソンが「Off The Wall」をリリース。
シングル「Don't Stop 'Til You Get Enough」は、マイケルにとって7年ぶりの全米No.1となり、それを5週間連続維持。
10月19日、プリンスがほぼ1人でつくり上げたセカンドアルバ「Prince」を発表し、「I Wanna Be Your Lover」が初めて全米No.1獲得。
しかし翌週からはクインシー・ジョーンズが手掛けるルーファス&チャカの「Do You Love What You Feel」が3週連続で全米No.1。
さらにその翌週から「Off The Wall」からのセカンド・シングル「Rock With You」が6週連続で全米No.1を記録。
1981年、知名度を上げたプリンスは、ローリング・ストーンズのツアーに前座として帯同したが、ストーンズ目当ての客からブーイングを浴び、ビール瓶を投げつけられ、楽屋を訪れたデヴィッド・ボウイは、トイレで泣くプリンスを目撃。
1982年10月、プリンスは、2枚組アルバム「1999」をリリース。
全米で400万枚を売り上げ、シングルカットされた「Little Red Corvette」(6位)、「1999」(12位)、「Delirious」(8位)がトップ10入りするなど、ついに大ブレイク。
12月、マイケル・ジャクソンが史上最も売れたアルバムとしてギネスブックに載ったモンスターアルバム「スリラー」をリリース。

Michael Jackson,James Brown,and Prince on stage (1983 )

翌1983年、マイケル・ジャクソンとプリンスが生涯唯一の共演を果たす。
「ファンクの帝王」ジェームス・ブラウンが、自分のライブを観に来ていた2人を呼び、ステージに上げたのである。
最初に呼ばれたマイケル・ジャクソンは、ステージに上がるとジェームス・ブラウンと抱き合い、マイクを持って歌い、ダンスも踊り、すべてを完璧にビシッと決めた。
次に呼ばれたプリンスは、なぜか白人の大男に背負われて登場。
ステージに上がるとジェームス・ブラウンと抱き合ってから、ギターを受け取り、演奏を開始。
ギターが終わると服を脱いで上半身裸になり、まずスタンドマイクを使ったアクションを披露。
そして改めてマイクを握り、セクシーな雄たけびを上げながら、セクシーなダンス。
一連のパフォーマンスを終えると礼儀正しく、客席に一礼。
そしてステージを降りようとして舞台上の街灯のセットをつかんだ。
それが思いのほか軽く、プリンスは街灯と共に転げ落ち、非常にカッコの悪い終わり方となった。

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その後、マイケル・ジャクソンは、自身最大のヒットシングル「Billie Jean」を発表。
プリンスは自伝的映画「プリンス/パープル・レイン」で映画初主演。
映画「プリンス/パープル・レイン」は、制作費、約7億円)で約75億円という興行収入を得て、週間全米映画ランキングトップ1位、年間11位という成績を収め、アカデミー賞で歌曲・編曲賞を受賞。
サウンドトラックアルバム「Purple Rain」は、発表初週に100万枚を売り上げ、24週間連続ビルボードチャートのトップとなり、全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた。
シングルは「When Doves Cry」と「Let's Go Crazy」が1位、「Purple Rain」が2位、「I Would Die 4 U」が8位、「Take Me With U」が25位。
プリンスは、自身のレコードレーベル「ペイズリー・パーク」を設立。
この夜、「アメリカン・ミュージック・アワード」で、前年、マイケル・ジャクソンの「Thriller」が獲った最優秀ポップ/ロック・アルバム賞をプリンスの「Purple Rain」が受賞した。
ケン・クレイガンに「We Are The World」への参加を打診されたプリンスは、
「行けたら行く」
と返事していた。

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37歳のケニー・ロギンスは、ワシントン州生まれのカリフォルニア州育ち。
音楽出版社に勤める傍ら、レコード会社所属の作曲家としても活動。
1972年、旧友ジム・メッシーナと「「ロギンス&メッシーナ」を結成し、アルバム「 Sittin' In」でデビュー。
「プー横町の家」「ダニーの歌」「ママはダンスを踊らない」「愛する人」「放課後のロックンロール・パーティー」などのシングルがヒットし、2000万枚以上のアルバムを売ったが、1976年に解散。
1977年からはソロとして活動を開始し、1978年、スティービー・ニックスと共演した「二人の誓い」がヒット。
作曲家としてもドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」をマイケル・マクドナルドと共作し、グラミー賞を受賞。
1984年、映画「フットルース」の同名主題歌が全米1位。
「We Are The World」の翌年にも映画トップガン」の「Danger Zone」がヒット。
またWe Are The Worldのファンが勝手に行った「アゴひげ選手権」では、準決勝でビリー・ジョエルを破ったが、決勝では銀髪のケニー・ロジャースに敗北。
ちなみに口ひげ選手権では、ジョン・オーツがライオネル・リッチーに勝利した。
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  • 2024/9/9 05:41

    読み応えがある、よい記事でした!
    いくつかの知らなかった逸話、知らなかった人たちの背景を知れたのもよかった。
    ほとんどの大スターたちが何度も挫折を味わってきた苦労人だった事、スタッフもまた只働きで作品作りに取り組んでいたと知って曲の印象が一変しました。
    日本のチャリティー番組と同じ、上っ面なお涙頂戴企画と若かりし当時は見下していました。
    改めて聴いてみます、ありがとう!

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