「サッカーワールドカップに出場するまで43年 チームのエースナンバー「10」を背負ってきた日本の名選手たち」
2018年7月2日 更新

「サッカーワールドカップに出場するまで43年 チームのエースナンバー「10」を背負ってきた日本の名選手たち」

スポーツにおいて選手の代名詞となりうる存在の背番号。野球のエースナンバーは「18」番ですが、サッカーは「10」番がエースナンバーとされています。1954年スイス大会の予選初参加から1997年にフランス大会で初出場が決まるまで実に43年の長い年月がかかりました。今回はワールドカップに最も近づいたと言われる1980年代半ばから本大会出場が決まるまで背番号10番をつけた日本のエースの中から数人紹介したいと思います。

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名波浩

 (2027028)

加茂監督時代からトルシエ監督までの約5年間10番をつけてきた選手でフランスワールドカップ予選及び本大会でも背負っていた。国際Aマッチ67試合出場9得点。本来はトップ下(攻撃的MF)だが代表では多くの試合でボランチ(守備的MF)を務め後にリーグでもボランチを務めることが多くなり、そこから正確なパスを繰り出していた。左利きの選手だがいつ何時でもと言うほど左足1本でボールを裁いていた。1999年にはセリエAベネチアに海外移籍したり2000年にはアジアカップでMVPを獲るほどの活躍であったがその後怪我に悩まされ2002年の日韓大会はメンバーに選ばれず。その後も怪我の影響が強く2007年に引退。引退後は解説者を経て2014年から古巣ジュビロ磐田の監督に就任している。

・本人は10番が大嫌いだったようで現役時代も雑誌やテレビでの取材等で度々答えています。それだけで目立って無条件にマークされて激しくタックルされるのが辛かったようです。Jリーグでも10番を提示されたようですが7番の選択肢もあったようでその時は即答で7番を選んだようです。

高木琢也

 (2021899)

1992年オフト監督に初召集されアメリカワールドカップ予選では三浦知良選手と主に2トップを組んできたFWの選手。18番や20番、9番などいくつかの背番号を背負ってきたが加茂監督就任直後のカールスバーグカップで10番を背負っていた。公称188cmという高身長を活かし「アジアの大砲」と呼ばれるほどヘディングを武器に得点を量産し、国際Aマッチ44試合で27得点挙げている。フランスワールドカップ予選でも7得点を挙げているが本大会は選出されなかった。サンフレッチェ広島に所属しチームでも10番を背負っていたがあまり10番を好んでいないようで、背番号が固定制になってからは18番をつけていた。
現役引退後は主に指導者として活動し横浜FCやVファーレン長崎などの監督を歴任し2017年には長崎をJ1に昇格させている。

・カズ選手や中山選手の影に隠れてしまいがちですが、二人に勝るとも劣らない記録や実力を持った選手です。カズ選手への厳しいマークの隙に得点源となってチームを支えていたように思います。
横浜FC監督時代は先輩のカズ選手と立場が逆転したこともあって、「カズ」と呼んでいたのが印象的でした。

藤田俊哉

 (2021900)

ファルカン監督時代に初召集され1995年のダイナスティカップで10番をつけていた。国際Aマッチ24試合3得点。Jリーグではジュビロ磐田で10番をつけ名波選手と中盤でコンビを組みチームの黄金時代を支えた。また得点能力も高くMFで初めてJ1リーグ100得点を記録した。また2003年にはオランダのユトレヒトに海外移籍も経験している。代表では加茂監督や岡田監督の下では試合出場がないものの、トルシエ監督、ジーコ監督では選出されている。
40歳になる2011年シーズンまで現役を続け、引退後は指導者として海外にわたり本田圭佑が所属していたオランダのVVVフェンロやイングランドのリースユナイテッドにてコーチなどを歴任している。

・同僚の日本代表の10番名波選手やブラジル代表キャプテンドゥンガ選手を差し置いて10番をつけるほどJリーグでは名実ともに歴史に名を残すような名選手ですが、代表ではレギュラーに定着せず悲運の選手だったように思います。

岩本輝雄

 (2021904)

1994年のファルカン監督時代に初召集され当時22歳ながら10番を背負っていた。次代の司令塔として注目され国際Aマッチ9試合出場で2得点挙げたが怪我などもあり代表に定着しなかった。フリーキックの名手と言われ、Jリーグではベガルタ仙台時代に約35メートルの直接フリーキックを決めている。2004年にいったん引退するも、2年後の2006年にクラブワールドカップに出場するニュージーランドのオークランドシティFCに大会期間中の2ヶ月だけ現役復帰している。
現役引退後はサッカー解説、ベガルタ仙台のアンバサダーや横浜創学館高校のコーチなど務めているがワタナベエンターテインメントに所属しタレント活動も行っている。

・タレント活動も目立っていて引退直後はNHKの旅番組で約500kmある東海道を徒歩で制覇していましたが、最近ではテル岩本という芸名で熱狂的なAKB48ファンとして有吉反省会に出演していましたね。

ラモス瑠偉

 (2021905)

元々はブラジルリオデジャネイロ出身の生粋のブラジル人でニックネームもリオ生まれの人を意味する「カリオカ」と呼ばれている。1977年20歳の時に来日し、1989年の32歳の時に日本国籍を取得。翌年には日本代表に初召集。主に司令塔として活躍し国際Aマッチ32試合出場で1得点記録。36歳で出場したアメリカワールドカップ予選では現在も破られていない代表最年長ゴールを記録したが最終予選で敗退。ワールドカップ出場は叶わなかったがサッカーの伝道師と呼ばれており、もしこの方がいなかったら日本サッカーはどれだけ遅れたままだったのだろうと言われるほどである。Jリーグ開幕後もヴェルディ川崎の中心選手として活躍し41歳の1998年まで現役を貫いた。引退後は監督業などサッカー関連の仕事に加え、タレントとしてもバラエティー番組などにたびたび出演されている。

・今も昔も選手だろうがサッカー少年だろうが関係なくピッチの内外で厳しく接して世界の水準を伝えた方だと思います。もし来日してなかったら日本は今こんなに強くなってたのかなあと思うことがあります。2年ほど前に脳梗塞を患って現在は復帰されていますが、一度かかると再発しやすい傾向がある病気なので正直お身体が心配です。

佐々木正尚

イタリアワールドカップ予選で10番をつけており本来はFWだが代表や選手時代の後期は左サイドバックにコンバートしてプレー。国際Aマッチ20試合出場。元々FWでかつスピードがあったためオーバーラップやサイドチェンジを多用してサイド攻撃の軸としてチームを支えた。現役時代は本田技研(現:Honda FC)に所属。Jリーグ発足後はジェフ市原や柏レイソルに所属し1994年引退。引退後は東京新宿にある保善高校で監督を務めている。

・元々FWとはいえDFで10番は知ってる限りでは一時期のブラジル代表レオナルド選手や代表で香川選手から奪おうとした(実際はつけてない)槙野選手くらいしか思いつかない珍しい番号だと思いました。高校では監督の他保健体育の授業も教えているようで教員免許もお持ちのようですね。

奥寺康彦

 (2021943)

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