伝説の相撲解説者のもう一人、玉ノ海梅吉
ありし日の玉ノ海梅吉
廃業後は戦争によって部屋を再建するまでの間に、兵庫県武庫川で妻が経営する洋裁学校の校長を務めていたが、日本放送協会の大相撲解説者に転身することが決定、解説者としての名は「玉の海梅吉」とした。現役時代に四股名が掲載された番付では、梅の字は木と毎を横ではなく縦に並べて書かれていたが、解説者としての名では通常の「梅」を用いた。独特の塩辛い声で各力士へ批評を繰り広げるが、その一方でユーモアあふれるコメントはお茶の間の相撲ファンに親しまれた。
玉の海梅吉 | NHK人物録 | NHKアーカイブス
辛口という点では、解説で今をときめく北の富士の現役時の相撲を評し、「薄っぺらい現代相撲の典型」と一刀両断。もちろん、横綱として物足りないという意味だったのだろう。
私も年を取って見ると、玉ノ海梅吉の言いたいことが理解できるような気がする。要するに、彼のの好きな相撲は個々人の能力や体格を鑑み、自分の一番取り易い定番の取り口を磨くために一心不乱に稽古を積み重ねている相撲であったと。
筋肉質の体格で足腰が強く右腕の怪力も有名で、腕を伸ばしたまま大人を提げたり、宴席では右の拳に小柄な芸者を載せて持ち上げたほどだったという。右で前褌を取ってから左で相手の右手首を掴んだ上で立ち腰で出ようと試み、土俵際で残されたなら右から捻る力任せかつ強引な取り口で、1935年1月場所で新入幕を果たした。以降、順調に力を養うが、親方である玉錦三右エ門が急性盲腸炎で現役死亡したため、急遽、年寄・二所ノ関を二枚鑑札で継承した。玉ノ海は現役力士と親方業の兼務に多忙を極めることとなる。
1942年1月場所では関脇に返り咲いて10勝5敗の好成績を収めたことで大関への昇進が目前だったが、親方業との兼務による疲労から感冒に感染してしまい、昇進は果たせなかった。以前から「玉錦が生きていれば(玉錦の稽古によって)間違いなく(大関に)なっていた」と言われた。