ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン
2017年9月12日 更新

ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン

1976年のモントリオールオリンピックの女子体操で、14歳の少女が世界をアッといわせた。 団体戦規定の段違い平行棒でオリンピック史上初の10点満点。 さらに団体戦自由、個人総合、種目別でも完璧な演技をみせ、計7回の10点満点記録。 奪ったメダルは金3個、銀1個、銅1個。 153㎝、39㎏、白い肌、白いレオタード。 「白い妖精」といわれた。 1984年、22歳で現役引退。 1989年、チャウシェスク独裁政権が崩壊する直前、自由を求めてアメリカに亡命。 オクラホマ州で体操教室を開いた。 モントリオールオリンピックで初めて10点満点を出したとき、演技終了後、審判団は10点という点数を想定していなかったため「1.00」というスコアボードを掲げた。 現在はルールが変更されたので、10点満点は存在しない。

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ビートたけしのコマネチ(V)!

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ビートたけしは、自身のギャグ、「コマネチ(V)!」について、
「あれはコマネチっていう選手の名前を思い出せなくて、レオタードのジェスチャーをしたら、それがコマネチになっちゃった」
という。

話題のCM コマネチがアートになった! ビートたけし ZENT

体操競技

「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返...

「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむスーパーE難度技

体操競技は、徒手または器械を用いた体操の演技について、技の難易度・美しさ・安定性などを基準に採点を行い、その得点を競う。
男子は、床運動、鞍馬、吊り輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目。
女子は、跳馬、段違い平行棒、平均台、床運動の4種目。
小柄な方が有利で、男子は160cm台、女子は140cm台の選手が多い。
技は難度が決められ、難度が高い技ほど得点が高い。
だから選手は高難度の技を狙う。
当初、難度はA~Cの3段階だった。
1985年にD難度、1993年にE難度、1998年に一時的にスーパーEが導入され、2006年にF難度、G難度、2013年から女子にI難度が創設された。
ナディア・コマネチの時代は、1番かんたんなA難度から、B、C、D、E、スーパーE難度までだった。
スーパーE難度は、世界でもごくわずかの人間しかできなかった。
段違い平行棒で、コマネチの名前がついたスーパーE難度技が2つあった。
「コマネチ・サルト」は、高棒から飛び出して前方開脚宙返り、そして再び高棒をつかむ。
「コマネチ下り」は、高棒での倒立から足裏支持で1回転し、足、手の順で高棒から離し、1/2捻り後方宙返りで下りる。

ルーマニアという国

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ナディア・コマネチが生まれたルーマニアは、東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している東ヨーロッパの大国。
面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。
古代にはローマの属州となり、13世紀にはモンゴルに支配され、14世紀にはモルダヴィア公国・ワラキア公国という2つの公国を創った。
Vlad III

Vlad III

ワラキア公国のヴラド・ツェペシュ公は、オスマン軍の侵入と戦った英雄だったが、捕虜や裏切り者を串刺しの刑にしたため、後に「吸血鬼ドラキュラ」の元ネタとなった
モルダヴィア公国、ワラキア公国は、いずれもオスマン帝国のバルカン進出を受け、その支配を受けるようになる
チャウシェスク大統領

チャウシェスク大統領

19世紀にはロシアの支配を受けた。
しかしやがて民族独立の気運が高まり、1856年、パリ条約でモルダヴィアとワラキアの自治が認められ、両国は1859年に統一され、1866年には統一国家名としてルーマニア公国を掲げた。
第1次世界大戦のルーマニアは戦勝国となり、領土と人口が一挙に倍増し、東欧の大国となった。
しかし1941年、第2次世界大戦下、王政が安定せず政変が起こり軍部独裁政権が成立。
軍部独裁政権は、ドイツのヒトラーと結んで参戦。
ドイツの対ソ戦に協力させられ、ルーマニア軍は最前線に立たされ大きな損害を被った。
1944年、ソ連軍がドイツ軍を破ってルーマニアに入り。
国王は軍事政権のトップ:アントネスク将軍を逮捕しソ連と休戦協定を結び、対独宣戦を布告。
1947年、第2次世界大戦後、ソ連に対して賠償金を支払い、ソ連の強い指導に服して社会主義化を進められた。
1947年、王政は廃止され、ルーマニア人民共和国となり、ソ連の衛星国として東欧の社会主義圏を形成。
しかし1956年にスターリンを批判し独自路線に転換。
石油資源を積極的に生かした独自の工業化政策を打ち出し、西側とも接近した。
1965年、チャウシェスク政権が誕生。
チャウシェスクは民族主義を掲げる一方、独自外交をさらに拡大しながら独裁権力を握った。
1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、1968年のチェコ事件でソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。
1974年、チャウシェスク独裁体制が強化され、個人崇拝の強要、同族支配、国民の自由が抑圧されるようになった。
経済は停滞した。

国家プロジェクト

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チャウシェスクはスポーツで国力をアピールしようと考え英才教育政策を行った。
夫:ベラ・カロリーと妻:マルタは、ナディア・コマネチの故郷:オネスティに体操スクールをつくる準備をしていた。
その学校もルーマニア政府の教育省が出資している学校だった。
テストした子供は4000人以上。
小学校をまわり、子供たちにマット運動を教えて、そのスピード、柔軟性、筋力、バランスなどをみた。
どの子が柔軟で筋肉の協調性がいいかはすぐにわかった。
テストを始めて4週間、スカウトした子供の数はスクールを立ち上げにはまだ十分ではなかったので、再度選び出すことにした。
ある日、校庭の隅で小さな女の子が2人、側転をしていた。
「この子たちは素質がある!」
そう直感した。
そのときチャイムが鳴って2人は校舎内へ走っていってしまった。
ベラ・カロリーは教室をまわって聞いた。
「体操の好きな子は?」
「側転のできる子は?」
しかし2人は見つからなかった。
最後の教室となり、疲れた声で聞いた。
「側転のできる子は?」
誰も答えなかったので、あきらめて出ていきかけたとき、教室の後ろにブロンドの少女が2人目に入った。
「側転はできる?」
少女はヒソヒソ話をしていたがこっくりとうなずいた。
「やってみせて」
2人は完璧な側転をした。
「校庭の隅で側転をしていたのは君たちだね」
2人はまたうなずいた。
「名前は?」
「ビオリカ・ドミトル」
「ナディア・コナネチ」
ベラ・カロリーは2人にいった。
「お母さんにこう伝えなさい。
もし希望すればオネスティの体操スクールに入学できるとベラ・カロリーがいっていました、と」
体操スクールは寮と体育館がひとつにつながった総合的な施設だった。
自宅から800mくらいだったのでナディア・コマネチは数年間は歩いて通学した。
授業料は無料。
レオタードやリストガードやシューズ、医療費もタダだった。
遠征で旅行はできた。
エリート選手には月々、給付金も出た。
初めてレオタードをもらったときナディア・コマネチは枕に乗せて一緒に寝た。
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体操スクールは週6日制で、毎日授業が4時間、体育館で練習が4時間。
授業が終わって体育館に駆け込むと、ウエイトやロープでトレーニングし、ジャンプ、ランニングなどたくさんのメニューをこなしていった。
かんたんな技でも覚えるのに数か月かかった。
平均台の上での側転は、まずマットの上で練習し、次に床の上に引いたライン上で、さらにクッションで囲まれた低い平均台を使い、最後に平均台の上で仕上げた。
各技をマスターするまで全部最初から繰り返された。
1つ1つ段階を踏んで、反復し、失敗したり成功したりすることで力をつけていった。
ナディア・コマネチが出た初めての大きな競技会は1970年の全国体操選手権だった。
9歳のときだった。
平均台で最初の高い跳躍でいきなり左側に落下。
カッとなって平均台によじ登ると今度は右側に落下。
2度と落ちるものかと再び平均台の上に立った。
みんなが笑っているような気がして両耳まで真っ赤になった。
もう絶対に落ちるものかと誓ったが、また落下した。
平均台が終わって帰るとマルタはカンカンに怒っていた。
ベラ・カロリーとマルタは、基本こそ体操のキャリアを築くうえで最も重要であり、またそのためには体の強さとコンディショニング、そしてかんたんな技を完璧に行うことが必要と考えていた。
平均台の上で宙返りをするには、その前に跳躍とステップがスムーズにできて、完璧な位置でバランスをとり、次の難しい技に備えることが必要である。
体操では基本ができていないと、筋断裂、骨折、脊椎障害など危険な事故が起こってしまう。
だから細部まで大切にしなければいけなかった。
マルタは、子供には自分を律することができないからコーチが厳しく管理すべきと、練習時間も勉強時間も2人が指示した。
7時、朝食。
8~12時までトレーニング。
11~14時まで授業。
2、3時間休憩してから体育館に戻り19時半まで練習。
その後、夕食と宿題をして22時消灯し心身の疲れがとれるように睡眠は毎晩8~10時間。
食事も体を強くするためにグリルした肉や魚、サラダ、フルーツが中心で、パスタやパン、ライスはなし。
ベラは体格がよく最高のスポッター(体操選手がケガをしないようにサポートする人)だった。
スポッターがよいと選手は難しい技も怖がらずに挑戦できた。
またベラは指導法について以下のような考えを持っていた。
他のトップ選手のスタイルとトレーニングを真似したところで、その選手はお手本ほどうまくならない。
近いところまで行ってもそのレベルには届かない。
後から追いかけるだけでは決して追いつけない。
しかし独自のスタイルで育成すれば他の誰をもしのぐ選手になる可能性がある。
この選手権でナディア・コマネチは13位。
チームは優勝した。
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