ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン
2017年9月12日 更新

ナディア・コマネチ Nadia Comaneci ルーマニアの白い妖精 完璧な演技で史上初の10点満点を連発 体操に革命を起こしたヒロイン

1976年のモントリオールオリンピックの女子体操で、14歳の少女が世界をアッといわせた。 団体戦規定の段違い平行棒でオリンピック史上初の10点満点。 さらに団体戦自由、個人総合、種目別でも完璧な演技をみせ、計7回の10点満点記録。 奪ったメダルは金3個、銀1個、銅1個。 153㎝、39㎏、白い肌、白いレオタード。 「白い妖精」といわれた。 1984年、22歳で現役引退。 1989年、チャウシェスク独裁政権が崩壊する直前、自由を求めてアメリカに亡命。 オクラホマ州で体操教室を開いた。 モントリオールオリンピックで初めて10点満点を出したとき、演技終了後、審判団は10点という点数を想定していなかったため「1.00」というスコアボードを掲げた。 現在はルールが変更されたので、10点満点は存在しない。

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1975 Europeans - All Around summary

ナディア・コマネチは1972年のフレンドシップ杯に出場した。
チェコやドイツやソ連の選手は10代後半から20代だったが、ナディア・コマネチを含むオネスティの体操スクールのチームは、みんな10歳。
みんな自分より脚が長く優雅だった。
しかし小さい女の子は大きな女の子を破った。
ナディア・コマネチは全種目で金メダル。
団体でも銀メダルを獲得した。
以後、ナディア・コマネチは日を追うごとに強さを増し集中力を高め、パワーをつけた。
コマネチサルトはベラ・カロリーが考え出した。
いったん手を放して高棒から飛び出して、前方開脚宙返りし、そして再び高棒をつかむ技である。
ナディア・コマネチは何時間も何日も何週間も何か月も練習し
誰も試みたことのない技を完成させた。
ナディア・コマネチは1975年にノルウェーで開催されたヨーロッパ選手権で、世界チャンピオン、またオリンピックチャンピオンのリュドミラ・トゥリスチュワを破り、全種目優勝を含め4個の金メダルを獲った。
リュドミラはコマネチに歩み寄り頬にキスをした。
もしリュドミラが優勝していれば2年に1度しか開催されないヨーロッパ選手権で前人未到の3連覇を成し遂げていた。
しかしこの栄誉は、1975、77、79年と優勝したナディア・コマネチが得た。

She's Perfect! 10点連発

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Nadia Comaneci 1976 Montreal Olympics Perfect 10 Performances

1976年のモントリオールオリンピックでは、ギラギラしたスポットライトとカメラのフラッシュが一斉に注がれ、14歳のナディア・コマネチは茫然としてしまった。
まだアメリカやカナダなどでは無名だったナディア・コマネチは主役に祭り上げられた。
当時のナディア・コマネチはオリンピックなど知らなかった。
テレビの放送内容は政府が厳しく管理していた。
コーチと政府から教えられることしか知らなかった。
世界中で行われていた体操競技会をみたこともなかった。
モントリオールに着いたとき度肝を抜かれた。
オリンピック選手村は規模や選手やスタッフ、何より聞いたこともない競技の選手の数の多さに驚いた。
バッジをもらい、それをつけていれば、選手村の映画もソフトドリンクも、服やバッグ、帽子などすべて無料だった。
宿舎は男女別だったのでマルタが仕切った。
単独ではどこへも行かせてもらえず、7時に朝食、トレーニング、休憩、昼食とスケジュールはキッチリ決められていた。
同行していたドクターが余計なものを食べないか監視していたが、ピザやカッテージチーズやシリアルなどを初めてみて、カフェの匂いには抵抗できそうになかった。
翌日の試合に備えてルーマニア体操代表は開会式をキャンセルした。
そして規定演技の日、ルーマニアチームは髪をポニーテールにまとめ、ストライプの縁取りのついた真っ白なレオタード姿でアリーナに入場した。
審判の多くはソ連出身でソ連チームに肩入れしていたが、規定ではルーマニアが上位を占めた。
ナディア・コマネチが平行棒を始める時点でルーマニアは2位。
ソ連とは1/100ポイントの差だった。
ナディア・コマネチが段違い平行棒の演技を終え、すぐに次の種目の平均台に備えウォーミングアップを始めた。
そのとき段違い平行棒の得点がスコアボードに表示された。
観客は静まり返っていた。
「1.00?」
誰もがその意味がわからなかった。
ベラが審判にジェスチャーで尋ねるとスウェーデンの審判は10本指を示した。
1.00と表示されたのはスコアボードに10.00を表示するプログラムがなかったからだった。
10点の表示は不必要だと考えられていたのである。
ナディア・コマネチは観客の声援に応えると、すぐに10点満点のことは忘れ平均台の演技に移った。
この後もさらに6つの10点満点をとった。
「コマネチサルト」や「コマネチおり」を披露し、オールオリンピック全体では7回満点を出した。
そして段違い平行棒と平均台で金メダル。
床で銅メダル。
個人総合で金メダルをとった。
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ナディア・コマネチ以前にルーマニアでスポーツ選手の凱旋帰国など前例がなかった。
空港には何千人もの人々が出迎えにきていてなんとかナディア・コマネチをみよう、触ろうと押したり引いたりしていた。
ナディア・コマネチはビックリして泣いてしまった。
抱えていた人形の足も引っ張られてなくなってしまった。
チャウシェスクは祝賀会の開催を命じ、自らカロリー夫妻と選手たちに金一封を授与した。
しかしルーマニアに帰国後、彼女がトークショーに出たり、写真が雑誌の表紙を飾ったり、自宅にスポーツエージェントが押しかけるようなことはなかった。
オネスティの体操スクールで授業に出て練習も再開した。
経済的に裕福になることはなかった。
あいかわらず自宅に近い粗末な寮で20人の女の子と暮らし、週末は家に勝ってお皿洗いをさせられた。

国家と自分の考えの違い

 (1915701)

Nadia Comaneci 1977 Europeans EF Vault

1977年、体操ヨーロッパ選手権プラハ大会は、初めてルーマニアでテレビ放映された。
オリンピック以降、ルーマニアでは体操ブームだった。
初日、ナディア・コマネチは個人総合で優勝した。
しかし種目別決勝では一変した。
跳馬でナディア・コマネチとソ連のネリー・キムは完璧な演技をし高得点をあげた。
この点に予選での得点を加算し、その結果が電光掲示板に表示される。
2人は同点優勝のはずだった。
しかし表彰台に向かうときはコマネチは銀メダル、ネリーが金メダルと発表された。
なぜかナディア・コマネチの得点が下げられた。
ナディア・コマネチは段違い平行棒に集中しようとした。
さっき跳馬であんなことがあったのに10点満点を出した。
次の平均台も完璧にこなし着地した。
するとベラがチームに指示した。
「荷物をまとめろ!
引き上げる」
ルーマニア大使館が即時帰国せよという政府命令を伝えてきたためだった。
ナディア・コマネチはアリーナを出ていきながらスコアボードを振り返ると平均台の得点は10点満点だった。
ルーマニアチームは途中退場した原因は、ルーマニアで初めてテレビ中継された大会をみていた人々が不公平なジャッジに激高し「不正から救え」と要求したことだった。
しかしナディア・コマネチは帰りたくなかった。
不公平の中でも最後までメダルを競いたかった。
飛行機でルーマニアに戻ったとき多くの人が迎えに来てくれた。
チームを守ろうと集団ヒステリー状態になっていた
ナディア・コマネチは自分の考えと国の考えの違いに自分が2つに引き裂かれる思いがした。

他人と同じであることに幸せを感じない

ルーマニア街歩き

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ナディア・コマネチは自分の体操選手としてのキャリアはそろそろ終わりだと考えていた。
ブカレストに行き大学に入ろうかなどと思っていた。
競技会やマスコミの注目に疲れ、ベラ・カロリーの要求に応えられず、演技も必要なことができなくなっていた。
ルーマニア体操連盟は、試験的にナディア・コマネチをベラ・カロリーコーチから離すのがよいと判断した。
ベラ・カロリーとマルタ夫妻はデバに新しいトレーニングセンターを設立するからという名目で、ナディア・コマネチをブカレストの「8月23日スポーツコンプレックス」に移した。
そこでは2、3年選手として競技に参加しながら学校へも通えるという話だった。
ベラは実際にデパで新しいトレーニングセンターを立ち上げたが、ナディア・コマネチがブカレストに移されるということは聞いておらず、ある日、ナディア・コマネチがいないのを知って茫然とした。
ブカレストの新しいコーチは甘く、スケジュールもタイトではなかった。
ナディア・コマネチは遊び回った。
映画やディスコなど行ったことのなかったところに行き、アイスクリームなどこれまで禁じられていた食べ物を片っ端から食べ、グウグウ寝てテレビをみて、また寝た。
6ヵ月間、そんな生活を続けた。
最初は楽しかったが、だんだん不安になってきた。
体重が増え体型が変わるのをみるのが嫌だったし、何の技術もない自分が将来、なんの仕事に就けるのか将来に不安を感じた。
また両親が結婚生活がうまくいかず離婚してしまい、母は弟と住んでいたが、アパートで1人暮らしをする父が心配だった。
やがてナディア・コマネチはまったく落ち着かなくなってきた。
そんなある日、部屋を出たところを女性役員に呼び止められた。
「どちらに?」
ナディア・コマネチの頭に血が上った。
「ここで何をしているの?
拷問を受けないと洗濯もできないわけ?
ちょっとしたことでいちいち尋問されるというのにリラックスなんてできないじゃない!
いいわ、漂白剤を飲んで死んでやる。
放っておいてよ!」
部屋に戻りバタンとドアを閉めた。
当時のルーマニアでは人々は何を話すべきかは決められていて、話してはいけないことを話していないか、秘密警察や諜報員に監視された。
社会主義国であるルーマニアは、海外に扉を閉ざしあらかじめ政府が選んだ情報だけを伝えた。
ナディア・コマネチはルーマニアがどれだけよい国であるかを世界にアピールするのに格好の道具だった。
しかし監視され詮索され24時間見張られるのはたまらなかった。
こうした出来事でナディア・コマネチは別人のようになり、心身ともとても試合に出られる状態ではなくなり、シニアナショナル選手権の出場をキャンセルし観客席からみていた。
するとベラ・カロリーとマルタがデパの選手を連れてきていた。
彼女たちは規定演技で上位6位まで独占し、自由演技では全種目で優勝した。
翌日、ベラ・カロリーはナディア・コマネチを訪ねた。
体重が増えたナディア・コマネチをみて驚いた。
昨日も観客席にいるのがナディア・コマネチだとは信じられなかった。
2人は話し合い、ナディア・コマネチは、目標を達成し競技会で優勝したいという欲求が薄れたことを自分らしくなかったと反省した。
またブカレストで普通の人生を目指したが、自分は他人と同じであることに幸せを感じないことを自覚したと語った。
話し合いの結果、ナディア・コマネチはベラ・カロリーのもとに戻ることにした。
国はその案を受け容れ、デパのトレーニング場の近くにナディア・コマネチと母と弟が住む家を用意した。
それは2部屋しかない家で弟とナディア・コマネチは相部屋だった。

Only1 and No1

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しかしナディア・コマネチがその家に入れたのはデパについて数週間後のことだった。
それまではベラとマルタの家に泊まり、激しいトレーニングと食事制限を行った。
ベラは元の体、パワー、技術を取り戻すのはものすごく難しいと考え、過酷なトレーニングを課した。
毎日、夜明け前に2人でランニング。
ナディア・コマネチは何枚も重ね着をし、エクササイズをしながら走った。
その後、3時間、ジムでトレーニング。
そして2本目のランニング。
マッサージを受け、ウエイトトレーニング、サウナと続き、さらにダッシュ。
食事はサラダと果物だけ。
アイスクリームを知ってしまったナディア・コマネチに対する厳しい愛のムチだった。
そして厳しいトレーニングや食事制限が軌道に乗ると自宅に戻り、オネスティに体操スクールのような元のバランスのよい食事を再開した。
デパでトレーニングを再開し、ナディア・コマネチは自分がトップクラスの選手でなくなったことを悟った。
しかし数週間後にはもう1度ナンバーワンに戻りたいと思うようになった。
目標は、ヨーロッパ選手権でも世界選手権でもオリンピックでもなかった。
マスコミや世間が不可能だということを、ナディア・コマネチならできるといことを証明することだった。
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