続編のための歴史修正 〜「2」
まずデスラーと古代の一騎打ちでは、古代が負傷。古代をかばう雪の姿に、デスラーはさらばと同様の台詞と白色彗星帝国の弱点を語り立ち去ります。ついでにいうと、さらばではデスラー同様戦死した腹心のタランも一緒に命拾い。
真田もさらば同様決死隊として突入するも、銃撃を受け動けなくなり、爆破は指示を出すのみで生還します。
雪も爆破に巻き込まれることもなく、佐渡先生もミーくんもアナライザーも無事。
一方で「改変」でも生き残れなかった人たちも、、
土方はヤマトには乗艦していないのですが、新造戦艦アンドロメダもろとも都市帝国に激突していき艦と運命をともにします。
徳川機関長も山本もほとんどさらばと同様、死んでしまいます。
斉藤も単独敵地に残り、真田と明暗を分けます。
最大の改変の「為」の設定変更はテレサに関してです。
さらばにおけるテレサは、反物質世界の人間という設定で、人間というより精神体やある種の神のような存在ですが、2では反物質を操る能力を持つものの、人類と同じような存在となっています。
それは、島と恋に落ち彼の命を救い、またラストにおいても特攻に赴く古代と付き添う雪を説き伏せ、島たちを生かすために単独で超巨大戦艦に向かわせるためでした。
、、なんか釈然としませんねえf^^;
「歴史修正」の動機
『さらば』と本作の結末が大きく異なることについては、以下の2つの見解がある。
監督の松本零士は戦争の記憶の残る時期に発表された前作において「目的を果たし、生還する」というメッセージ性を強く意識しており、『さらば』の結末については特攻を美化するとして良しとせず、「生き残って再建の苦しみを描くべき」と主張した。そのため、後に本作が製作されることになる[1]。
仰ってることの主旨には筆者は賛同しますけど、どうなんでしょうねえ、、
代わりにテレサ一人に死んでもらう訳ですし、
自己犠牲で死ぬとか非業で死んでいくとかはこのテのおハナシの常道。斉藤はじめ(洒落てんじゃないんですよっf^^;)さらば同様に死んでいくままの登場人物もいる訳だし、、
そもそも、ヤマト単独での意味があるのかないのか分からないような特攻のカタルシスに、テレサが共鳴して一緒に特攻っていうラストや、ほとんどの登場人物が死んでいく悲壮感の美学とか、いかがなもんか、ということはある訳ですが、
ふだんの考えが右にしろ左にしろ日本人に刷り込まれちゃってる、ヤマトのオープニング曲のイントロが流れてくる時の、筆者でも「ああ俺にもこんな右翼な感性がやっぱりあるんだなあ」といった高揚感、悲壮感、そういったものを刺激しちゃって「さらば」をつくっといて、“やりなおし”って、ねえ、、
もう一つの「見解」の方、
安彦良和によると、『さらば』がヒットした結果、製作側は「もっと続編が作りたくなっちゃって、また生き返らせろというんですよ(笑)」ということになり、安彦は反対したものの、結局は主要キャラクターを生存させてその後の続編にもつなげることができる本作が制作された[2][3]。
(でも上記引用に「ちなみに「死んだはずのキャラクターをどうやって生き返らせるか」の案は安彦と脚本陣の話し合いで考え出された。また本作のストーリー構成も安彦が手掛けている(ノンクレジット)」ともありました。表立たないだけであんたも戦犯やんw)
こんな記述もあります。
テレビアニメ化は『さらば』の劇場公開以前の1978年6月25日に発行された「ヤマトファンクラブ本部」会報第4号で報じられており、『さらば』の劇場公開に間に合わない関係の商品展開をバックアップする目的であったと云われている。また、『アニメジェネレーション ヤマトからガンダムへのアニメ文化論』(井上静、社会批評社、ISBN 4-916117-59-X)では、続編制作のためとの記述もある。
当時、松本氏の意図は筆者には聞こえてきませんでしたし、いま知っても、やはり続編つくりたさ、もっとはっきりいうと今後も金を生むための歴史修正に、筆者には思えてなりませんねえ。
あんな啖呵きっちゃったのに、、
これは1979年夏のヤマトフェスティバルでの公開版以降では「あなたが生きる限りヤマトも生き続けるでしょう」という意味のテロップに差し替えられている[9]。ビデオソフトやテレビ放送時は地上波、BS、CSを問わず差し替え版で、DVDでも初発売のLDサイズケースのものでは差し替え版だったが後に発売されたものでは初公開時のテロップが再現されている。Blu-rayには両方収録されており、どちらかを選択して再生できる。なお、このテロップは西崎プロデューサーの発案である。
当時子どもの筆者は、松本漫画版も読む前から、ヤマトは漫画家の松本氏原作の作品だと思っていましたが、
その後裁判で裁判所もゆうてる通り、西崎氏のもんやったんですねえ、、^^;
「2」がもたらしたもの
こんな辺境宇宙の片田舎が毎年のように異星人に襲われ危機に陥り、その度ごとにヤマトは発進していきますf^^;
2の歴史修正などまだまだ序の口にすぎなかったことを、西崎氏のおそろしさを、我々はその5年後思い知ることになるのですが(((( ;゚Д゚)))、この時まだそれを知る由もありませんでした。
で。
我々当時子どもの視聴者が、この「2」の豪腕歴史修正を目の当たりにして、唖然として怒りに震え悄然としてあるいは決然としてヤマトと袂を分かち、以後観ることがなかったか白けてしか観れなくなったかというと、
そうではなかったのです、、
当時、物語の佳境を待たずして既に「2」制作の意図も聞いていたし、その帰着も予想がついていたように思います。続々と続いた続編にも、またまたーなどとは思いながら、それなりにどれも愉しんだものです。
、、そうです、「2」が当時の我々子どもの視聴者を、少し“大人”にしてくれたのかも知れませんね^^;
筆者の少し上の方々、1作目ヤマトの視聴者の中高生SFファンは、(いまではよく分からない感覚かも知れませんが)そのSFとしての「ハード」さに歓喜したといいます。SF設定にSF作家豊田有恒氏を据えていることから、その反響が筆者にも少しは想像できます。
本編中は語られなかった裏の設定も含めて、ヤマトをSF的に検証する、、なんてことも当時の先達は試みたようですが、結果は、、「ダメだ、きっとテキトーだ!」というものでした^^;
後年、ヤマト続編の頃、いわゆるアニメファンとして専門誌などを読んでいた筆者は、度々、満載の突っ込みどころを愛ゆえ弄ぶ格好の題としてのヤマトシリーズを目にしております。曰く、ヤマトにおいては宇宙空間でも煙は上に昇り破片は下に落ちる—ヤマトはそんな細部にも根性入っているのだ、とか。未知の敵兵器に対して予知していたかのように対抗兵器をすぐさま用意する真田の科学力をもってして何故地球は三流文明にとどまっているのか。等々。(先の「辺境宇宙の片田舎が」云々というのも、当時の愛ある突っ込みの一つですf^^;)
ヤマト、とりわけ堂々たる歴史改変を見せた「2」は、我々に大らかにメタな視点で作品を見る目を養ったといえるかもしれません、、f^^;