行きましたよ。
新日本プロレスに在籍していた頃、アントニオ猪木さんがアマゾンのジャングルの森林保護のためのイベントをやると言い出して。確か2003年のことで、中邑真輔も出場した「ジャングルファイト」というイベントなんですけど、選手がみんな行きたがらないんですよ。30時間以上も飛行機を乗り継いで行くわけですから。
そこを僕はものすごい勢いで立候補しました。猪木さんに「行きまーす!!」って。何が目的かというと、ヘラクレスオオカブト=世界最大のカブトムシがいるわけですよ。それを見たくて。
ただ実際に行ってみたら、取材やら森林保護なんで植樹祭やら、インタビューやらでスケジュールがギッシリなんですよ。ジャングルなんか行ってる時間なんて無いんですよ。そらそうですよ、仕事で行ってるんですから。そんな予定外の時間なんて組んでくれないですよね(笑)
でも僕の目的はヘラクレスじゃないですか!?
クッソー・・・どうにかできないかなあと考えていたら、ありましたよ。試合の当日。
試合は夜なんで、それまでは空いていて。夜にはバーリトゥードの試合があるのでコンディションを整えておかないとダメなんですけど、朝から行っちゃいましたよ。
マナウスという一番近い都市からアマゾン川を船に乗って下ってジャングルの中へ。もちろん現地の方を雇って、「こういう虫が欲しいんだ!」って図鑑を見せながら。ただ、マラリアとかが危ないので上着を着込んで行ったんですけど、湿度も高くていわゆる熱中症になってしまいました。
ヘラクレスには出会えないわ、フラフラの状態になるわで、会場に戻って試合ですよ。バーリトゥードで。ヤバくないですか!? どこまでイカれてるんだって話ですよね。
結局、試合にはなんとか勝てたんで、猪木さんに「バカヤロー!!」って言われなくて済みましたけど。もしも負けていたら、「負けた理由はヘラクレスです。」なんて言えないですよね(笑)
そんな感じで、昆虫少年の夢だったアマゾンまで行きましたけど、未だに虫に夢中ですよ。
目を輝かせて語ってくださる垣原選手。
その直情と情熱。例えるならばそう、それは「さかなクン」のようです。
そんな垣原選手はプロレスラーとしての現役引退後、まさに天職とも呼べる「ミヤマ仮面」に扮して活動を始めます。
が、ここではひとまず垣原少年がプロレスを志した時代に戻りたいと思います。
ミド編)そんなクワガタと同じくらいプロレスも好きだったということですよね、 プロレスラーになろうと思ったきっかけは?
その直情と情熱。例えるならばそう、それは「さかなクン」のようです。
そんな垣原選手はプロレスラーとしての現役引退後、まさに天職とも呼べる「ミヤマ仮面」に扮して活動を始めます。
が、ここではひとまず垣原少年がプロレスを志した時代に戻りたいと思います。
ミド編)そんなクワガタと同じくらいプロレスも好きだったということですよね、 プロレスラーになろうと思ったきっかけは?
チャンネル争いに負けて見始めたプロレス
元々僕がプロレス見るきっかけは、うちの2つ上の兄貴がプロレスが好きだったからなんです。兄貴は全日本プロレス好きで、スタン・ハンセンのファン。ハンセン・ブロディ組のことを応援してましたね。
僕はそこまでプロレス好きじゃなかったんですけど、チャンネル争いに負けていやいやながら見ていて、それからプロレスを見るようになり、新日本プロレスに興味を持つようになったんです。ジュニアの早い動きが面白くて。
でも全日本もザ・グレート・カブキさんとかミル・マスカラスさんとか子供心に面白い選手もいて。あと“秒殺”のザ・ロードウォリアーズさんとかね。ああいうのを見てどんどんプロレスにハマって。
やがて、クワガタと同じくらいプロレスが好きになっていった垣原少年。
ただ、好きではあったものの自分がプロレスラーになれるとは思ってなかったそうで、小学生の時は少年野球に所属したものの6年間ずっと補欠だったそうです。
ただ、好きではあったものの自分がプロレスラーになれるとは思ってなかったそうで、小学生の時は少年野球に所属したものの6年間ずっと補欠だったそうです。
居ても立っても居られなくなった「UWF愛」
中2の終わりから中3くらいですかね。UWFが新日本プロレスに参戦して。高田(延彦)さんと越中(詩郎)さんの「名勝負数え歌」とか、5対5の「イリミネーションマッチ」とかを見てたら、UWFカッコイイじゃないですか。キックとかサブミッションとか格闘技に特化した戦い方に「これなら身体の小さい自分でもイケるんじゃないか」って思い始めたりして。
「UWF愛」は、垣原少年を一気に突き動かします。
中学校の3年間、一生懸命努力して入学した四国有数の進学校。
それなのに…
中学校の3年間、一生懸命努力して入学した四国有数の進学校。
それなのに…
四国有数の進学校を「先に辞める」
新生UWFが旗揚げして、居ても立っても居られなくなったわけですよ。高校一年生だったんですけど、まず学校を辞めて。親は泣いてました。僕はそんなに頭が良い方じゃなかったんで、勉強量でカバーしようと中学1年生の時から塾に行き、夜中の2時3時まで3年間勉強して進学校に入ってましたから。
進学校なんで“辞める”というのは大変な出来事で、学校側も辞めさせたくないんですよ。東大行くために高校一年生からしっかり勉強するぞ、というような学校でしたから。でも僕は新生UWFの話を聞いたもんですから、「一日でも早く辞めないとプロレスラーになれない」と思って。
高校を卒業して、あるいは大学卒業してからなんかじゃ絶対になれないから、今すぐ辞めたいと焦ってましたね。で、辞めてUWFに履歴書を送ったんですけど、全然返事が来ませんでした。学校辞めちゃってるのに(笑)
ミド編)えっ、先に学校を辞めちゃったんですか?垣原選手はその時はもう身体を鍛えていらっしゃったんですか?
身体は全然細かったですよ。70kg無いぐらいの体で。柔道をちょっとかじった程度で全然か弱い体でした。
余談ですけど・・・進学校の柔道部に一応入ったんですよ。入学したら何か部活に入れってことで。プロレスラーになりたいって言うなら柔道をやればいいじゃんって言われて。
進学校の柔道部なんて、とナメていたら、ブン投げられて、僕は背骨を折ってしまったんですよ。横突起2箇所。それで1ヶ月間寝たきりになっちゃったんです。
入学してすぐですよ。1ヶ月寝たきりで、体は細くガリガリになるし。リハビリからスタートですけど、その足で学校辞めちゃったんですよ。だから普通に戻すところからでしたね。
だから、おばあちゃんはビックリしてました。「そんな女の子みたいなウエストして何言いよん」みたいな感じで。柔道部で簡単に投げとばされるほど弱かったのに、腕っぷしが強い弱いじゃなくて、体も弱ってるじゃないですか。それがプロレスラーになるって・・・おばあちゃんも反対ですよ。
でも、僕の中ではウジウジモヤモヤしてたから怪我に繋がったんだ、みたいな感じでプラスに考えたんですよね。夢を持っている16歳の僕は気持ちが強かったんでしょう。気持ちが強いっていうか馬鹿なんでしょうけど、イッちゃってるわけですよ。ブッ飛んでるわけですよ。
履歴書で相手にされず、今度は直談判しに東京に出かけた16歳の垣原少年。
1回目は高田延彦選手、2回目は中野龍雄選手に掛け合ったものの相手にされず…
1回目は高田延彦選手、2回目は中野龍雄選手に掛け合ったものの相手にされず…
「先に上京してしまう」
履歴書を送って直談判に行っても門前払いされて、愛媛にいても同級生達に白い目で見られるわけですよ。「プロレスラーになるって言ってたのに、まだいるじゃん!」って。河川敷とかで走っててもむなしくなってしまって、それでもう愛媛にも居づらいし東京へ出て行こうってことで。
おばあちゃんの知り合いの知り合いみたいな、細~いツテをたどって、足立区に新聞配達店の社長をしている人がいたので、そこに住み込みで働かせてもらうことになりました。給料無しだけど、ご飯くらいは食べさせてやる、あとは一部屋あてがってやるぞ、ってな感じで。
「行動力」と一口に言うのは簡単なものの、何の安全策も講じることなく真っ直ぐに突き進む垣原少年。
進学校を辞め、2度の門前払いを食らった後に、わずかな縁を辿って上京した彼を待っていた「大きな縁」。
進学校を辞め、2度の門前払いを食らった後に、わずかな縁を辿って上京した彼を待っていた「大きな縁」。
3度目の正直で待っていたのは「藤原組長」と「熱い大根」
そこのボロボロの寮みたいな所の他の部屋のおっちゃんに「お前は若いのにさあ、こんな所に来て、人生終わりだよ。馬鹿じゃねえのか。何なんだよ、こんなところに来て」と言われたので、「UWFという所のプロレスラーなるために」と僕が答えたら、「え!?プロレス??お前が今住んでいる部屋にお前と同じようにプロレスラーになりたいっていうやつがいたんだよ。そいつと一緒に道場に行ったこともあるんだよ。車屋さんの倉庫みたいなところだったよ。」「え!?それUWFの道場ですよ」みたいな話になって。
「じゃあ、そいつ荒木って言うんだけど、会わせてやるよ」みたいな感じで、会ったんですよ。喫茶店で3人で会って、「僕、UWFに入りたいんですけど」って荒木さんに言ったんです。
まるでドラマのような展開。
単身上京した垣原少年は、思いもよらない縁でUWF入門への3度目の挑戦を実行に移すこととなります。
単身上京した垣原少年は、思いもよらない縁でUWF入門への3度目の挑戦を実行に移すこととなります。
荒木さんは第2回のテストを受けて、補欠合格で入門はしていなくて。「僕は補欠合格までだった人間なんで、UWFのことは語れない。ただ、一緒にプロテストを受けて合格した海老名保っていう男がいるから、そいつを紹介するよ」って言ってくれて。
海老名さんは練習中の事故で頭を打って運動のできない身体になってしまい、UWFを辞めて秋田の実家に帰ってしまってたんですけど。荒木さんに秋田の海老名さんの電話番号を教えてもらって、僕は公衆電話から電話をかけました。
そして、海老名さんにかくかくしかじかでって説明をしたら「今すぐ道場に行け!新聞配達してる場合じゃないぞ!」て言われて。「いえ、でも僕2回行ったけど門前払いされて断られてて・・・」って言ったんですけど、「いやいやいやいや、あきらめちゃダメだから。今すぐ行け!電話切ったら行くんだよ」みたいなことを言われて、背中を押されて行ったところに藤原組長がいたんです。組長なんて滅多に来てないわけですよ。しかも練習後にお酒を飲んで、陽気な状態のところに僕が行ったわけで。海老名さんに背中をバーンと押されて行ったからこそでしたね。