第二次UWF時代
リングデビュー
垣原 賢人(かきはら まさひと)(本名同じ)は1989年、冨宅祐輔・長井弘和らとともに、第二次UWFのオーディションに合格。翌1990年に同期の冨宅祐輔戦で格闘家デビューを果たした。
この冨宅祐輔とのデビュー戦は若い2人のUWFに賭ける熱い気持ちと気持ちがぶつかり合う激しい戦いとなり、後に名勝負としてマニアの間で語り継がれるまでになる。
この冨宅祐輔とのデビュー戦は若い2人のUWFに賭ける熱い気持ちと気持ちがぶつかり合う激しい戦いとなり、後に名勝負としてマニアの間で語り継がれるまでになる。
冨宅垣原のデビュー戦はいい試合でした。
冨宅垣原は同期入門で、厳しい練習を乗り越え、互いに切磋琢磨し
お互い遠慮無く、しのぎを削った本当に良い試合でした。
冨宅垣原は僕の一年後輩ですが
一年長期離脱をしていた僕としましては
実質的には、キャリアは、ほぼ同じ
身長180cmとレスラーとしては、けして大柄な部類ではなく、当時はまだ体の線も細かった垣原。
相手に何度打たれても、けっして怯まず前に出るその勇猛果敢なファイトスタイルは、勝っても負けても盛り上がり、垣原の試合はファンの脳裏に強烈なインパクトを残した。
特に1年先輩の田村潔司とはUWFインターナショナル時代を含め数々の熱い戦いを繰り広げた。
相手に何度打たれても、けっして怯まず前に出るその勇猛果敢なファイトスタイルは、勝っても負けても盛り上がり、垣原の試合はファンの脳裏に強烈なインパクトを残した。
特に1年先輩の田村潔司とはUWFインターナショナル時代を含め数々の熱い戦いを繰り広げた。
UWF 1990 | Masahito Kakihara vs. Kiyoshi Tamura
via www.youtube.com
第二次UWF崩壊
数々のビッグマッチを成功させ、格闘技界の中心としてその地位を確立しつつあったUWFだが、フロントと幹部選手たちとの不協和音を発端に大事件へと発展し、1991年初頭に多くのファンに惜しまれつつも団体は崩壊する。
垣原のUWFデビューから僅か1年半後の出来事であった。
垣原のUWFデビューから僅か1年半後の出来事であった。
最も大きな原因は、前田と神との確執である。新生UWFは前田が作った会社でありながら、前田は神新二を社長にし煩わしいスタッフ業務を任せ、自分はリングに集中出来る体制を作った。これがそもそもの間違えである。
1991年1月、前田宅での選手ミーティングでの前田の問いかけに一部選手が反発、事態収拾を意図した「一人でも欠けたらUWFは解散だ」という前田発言が“裏目”に出たというのがアウトラインだ
フロント陣がSWSとの提携などを画策しはじめると、前田日明はその資金の流れに不明瞭さを感じ、神社長にその明細を開示するように詰め寄ります。こうして神社長と前田の間は一触即発となり、1990年12月、松本大会を最後に、全選手が解雇されることになったのでありました。
UWFインターナショナル時代
UWF系3団体の旗揚げ
第二次UWFの崩壊後、所属選手たちは各々複雑な胸中の中、3つに分裂する。
高田延彦をエースに大半の選手たちが所属した「UWFインターナショナル」。
藤原嘉明を慕う船木誠勝、鈴木みのるらを中心とした「プロフェッショナルレスリング藤原組」。
そしてたった1人取り残された前田日明が旗揚げした「リングス」。
いずれの団体も、所属選手たちの「UWFへの愛」が籠った魅力的な団体だ。
垣原は高田延彦率いるUWFインターナショナルに所属する事を選択する。
ちなみに「プロフェッショナルレスリング藤原組」は91年の3月4日に旗揚げ戦を開催。当時勢いのあった「メガネスーパー」がメインスポンサーとなった。
前田日明の「リングス」はクリス・ドールマンの人脈による外国人選手を中心に地固めし、「WOWOW」をスポンサーにつけての船出となった。
大手スポンサーがつき順風満帆の船出となった2団体に対し、UWFインターナショナルは厳しい状況ながらも、奇抜なアイディアと攻撃的な団体のスタイルで、後に一時代を築くまでに成長する。
高田延彦をエースに大半の選手たちが所属した「UWFインターナショナル」。
藤原嘉明を慕う船木誠勝、鈴木みのるらを中心とした「プロフェッショナルレスリング藤原組」。
そしてたった1人取り残された前田日明が旗揚げした「リングス」。
いずれの団体も、所属選手たちの「UWFへの愛」が籠った魅力的な団体だ。
垣原は高田延彦率いるUWFインターナショナルに所属する事を選択する。
ちなみに「プロフェッショナルレスリング藤原組」は91年の3月4日に旗揚げ戦を開催。当時勢いのあった「メガネスーパー」がメインスポンサーとなった。
前田日明の「リングス」はクリス・ドールマンの人脈による外国人選手を中心に地固めし、「WOWOW」をスポンサーにつけての船出となった。
大手スポンサーがつき順風満帆の船出となった2団体に対し、UWFインターナショナルは厳しい状況ながらも、奇抜なアイディアと攻撃的な団体のスタイルで、後に一時代を築くまでに成長する。
スポンサーにメガネスーパーがついているため、お金の心配がいらない『プロフェッショナルレスリング藤原組』。そして、もうひとつの方は、全く何もない貧乏団体である『UWFインターナショナル』。
僕は後者を選んだのだが、その理由は今、振り返ってみても明確なものが出てこない。強いて言えば団体の理念に共鳴したのかもしれない。いや、当時18歳の自分がそこまで考えていたとは到底思えないが、後にUインターの頭脳とまで言われた宮戸優光さんと話し合った時に胸に響くものがあったことだけはハッキリと覚えている。
垣原賢人インタビュー記事より抜粋
余談だが・・・このUWFインターナショナル旗揚げの際、実はコラム著者はUWFインターの営業マン募集の面接を受けている。
小田急線の和泉多摩川駅にあった事務所に面接に行ったのだが、結果は募集1名の狭き門に屈し不合格でした。
小田急線の和泉多摩川駅にあった事務所に面接に行ったのだが、結果は募集1名の狭き門に屈し不合格でした。
新日本プロレスとの対抗戦
垣原を語るうえで忘れられないのが新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦であろう。
この対抗戦は東京ドームを6万7千人超満員札止めとするなど、両団体のファンのみならず全国の格闘技ファン・プロレスファンが熱狂した。
この興行で、垣原は当時新日本プロレスで人気絶頂だった佐々木健介から見事に勝利をおさめ、一躍全国区のトップ選手の仲間入りを果たす。
この対抗戦は東京ドームを6万7千人超満員札止めとするなど、両団体のファンのみならず全国の格闘技ファン・プロレスファンが熱狂した。
この興行で、垣原は当時新日本プロレスで人気絶頂だった佐々木健介から見事に勝利をおさめ、一躍全国区のトップ選手の仲間入りを果たす。
新日−佐々木健介vs UWFインター垣原賢人、セコンドに桜庭 和志
via www.youtube.com