マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。
2021年1月7日 更新

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。

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力に目覚めたマイク・タイソンは、以来、これまでとは違う次元の尊敬を集めるようになり、別の収入源もできた。
街で行われていた、観衆がどっちが勝つか金を賭けるストリートファイトだった。
マイク・タイソンはかなりの勝率で、負けても相手は
「すげえな!お前本当に11歳か?」
と目を丸くした。
マイク・タイソンの名はブルックリン中に知れ渡ったが、ストリートファイトにリングのようなルールはなく、何人かに囲まれバットでめった打ちにされ復讐されることもあった。
マイク・タイソンは以前、受けた屈辱を忘れていなかった。
街を歩いていて昔、自分をイジめていたやつをみかけると
「俺に何をしたか思い出させてやらなきゃいけない」
と引きずり出して容赦なく殴った。
近眼鏡をガソリンタンクの中に投げ込んだ相手をみつけたときは、封印した怒りが蘇ってきていきなりつかみかかり、路上で狂ったように殴りつけた。
相手はひたすら怯え、許しを請うた。
「俺のことなんか忘れていたんだろうな」
18歳くらいの男を相手にサイコロ博打をやっていたとき、11歳のマイク・タイソンは絶好調で、1回100ドルで6回連続で自分の数字を出し、600ドルを取っていた。
「もう1回だ。
腕時計を賭ける」
相手はいったが、またマイク・タイソンが勝った。
「まあ、よくあることさ」
「よこせよ、腕時計」
「いいや、何もやる気はない」
相手は自分のマイク・タイソンに払った金をつかもうとした。
マイク・タイソンは殴りつけた。
騒動を見かけた母親の友達が、アパートに駆け込み
「あんたの息子が大人とケンカしているよ」
と報告。
母親は現場にかけつけるなりマイク・タイソンに飛びかかって平手打ちをして投げ飛ばし
「この人に何をしたんだ?
本当にすみません」
と謝った。
「こいつは負けたくせに金を取り返そうとしたんだ」
そういうマイク・タイソンから母親は金を取り上げて男に渡し、再び平手打ち。
「本当にすみません」
「殺してやる」
母親に引き離されながらマイク・タイソンは叫んだ。
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1979年、9歳から12歳の間に51回も逮捕されたマイク・タイソンは、13歳でニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監されたが、ここでも並外れたパワーで暴れたため、手に負えない悪ガキが集められるエルムウッドという懲罰房に収容された。
すでにアルコールもコカインも大麻もハシシもアヘンもLSDも経験済みだったマイク・タイソンだったが、ソラジン(強力な精神安定剤)を飲まされると途端におとなしくなった。
週末になるとエルムウッドから外へ出て行き、瞼を腫らし鼻血を出し、でもなぜか楽しそうに帰ってくる少年たちがいた。
「痛めつけられているのになぜだ?」
マイク・タイソンは不思議に思い聞いてみると彼らは教官にボクシングを教えてもらっていた。
それは75㎏くらいの白人教官だという。
「俺なら倒せる」
マイク・タイソンは会わせてほしいと懲罰房の職員に頼んだ。
ある晩、ドアに大きなノック音が響いた。
「おい、お前、俺と話がしたいんだって?」
「ボクサーになりたいんだ」
「みんなそういうんだよ。
だが本気でボクサーになろうなんて根性のあるやつは1人もいなかった。
でもお前が態度を改めて、マジメに勉強して周囲に敬意を払えるようになったら、相手をしてやってもいいぞ」
以後、マイク・タイソンはマジメにやった。
「はい、わかりました」
「いいえ、先生」
と言葉遣いを改め、勉強もした。
1カ月後、お声がかかった。
(やっと叩きのめせる。
その後は少年院中の連中が俺に従うはずだ)
初めて練習場にいくと、さっそく白人教官にスパーリングを申し込んだ。
他の少年たちが興味津々で集まってきた。
(これだ、この感覚だ。
みんなの前でこの男を倒して、拍手喝采を浴びてやる)
意気揚々のマイク・タイソンは、白人教官と向き合うと、すぐに腕を振り回して連打。
打って、打って、打ちまくったがパンチはかすりもしない。
(おかしいな)
そう思った瞬間、白人教官がマイク・タイソンのわきをすり抜け、ボディに鋭いパンチをめり込ませた。
「このまま息ができず、死んでしまうんじゃないかと本気で思った」
マイク・タイソンは倒れ、呼吸困難になり胃の中のものを吐いた。
「起きろ、終わりだ」
白人教官、ボビー・スチュワートは、1974年にアメリカゴールデン・グローブ大会ライトヘビー級で優勝した事のあるアマチュアの名選手だった。
みんながいなくなるとマイク・タイソンは恐る恐るボビー・スチュワートに近寄った。
「あの、すみません。
今のやりかたを教えてもらえませんか?」
こうしてボクシングの世界に足を踏み入れた。
日中は猛練習、部屋に戻ってもずっとシャドーボクシング。
めきめき上達し、スパーリング中、ジャブ1発でボビー・スチュワートの鼻を折ってしまったこともあった。
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「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる。
彼の名前はカス・ダマト。
そこで練習すれば、お前は違った世界をみられるはずだ」
「どういうこと?」
1980年3月のある週末、ボビー・スチュワートとマイク・タイソンは、トライオン少年院から南へ80km、ニューヨークのキャッツキルへ車で向かった。
カス・ダマトのジムは町の警察署の上にある集会所を改修したもので、窓がなくランプが天井から吊り下がっていて、壁にはたくさんのポスターやボクシングの記事の切り抜きが貼ってあった。
る。活躍している地元の少年を取り上げた記事の切り抜きだった。
「やあ、俺がカスだ」
71歳のカス・ダマトは背は低く、頭は禿げ、がっちりした体で、話しかたは強気で、愛想はみじんもなく、冷徹非情なボクシング・トレーナーそのものだった。
ボビー・スチュワートとマイク・タイソンはリングに上がって、スパーリングを始め、2R途中、パンチをもらったマイク・タイソンが鼻血を出したところで終わった。
リングを下りたボビー・スチュワートにカス・ダマトはいった。
「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
その後、一同はカス・ダマトの家にいき昼食を食べた。
それは14部屋もあるヴィクトリア様式の白い大邸宅で、高くそびえる木々やバラ園もある10エーカー(約12000坪、東京ドームが11.5エーカー)の敷地の上に建ち、ベランダからはハドソン川を望めた。
「何歳だ」
「13です」
カス・ダマトは信じられないというポーズをとった。
「すばらしい」
「最高だ」
「俺のいうことを素直に聞けば史上最年少の世界ヘビー級チャンピオンにしてやる」
それまでまともな大人に褒められたことが1度もないマイク・タイソンは、なんて答えたらいいかわからなかった。
(おいおい、こいつ、ヤバいやつじゃないか?
俺の育った世界じゃ変態行為をしようとするやつがこういう甘い言葉を口にするんだ)
と思う反面、やはり人に認められるのはいい気分だった。
それまでテレビでしかみたことがなかったバラがあまりにきれいだったので、マイク・タイソンはバラ園から少し分けてもらった。
少年院に戻る車中、ボビー・スチュワートはうれしそうにいった。
「気に入ってもらえたみたいだな。
バカなマネしでかしてチャンスを逃すなよ」
マイク・タイソンは部屋に戻るとバラが枯れないようすぐに水に活け、その夜はカス・ダマトがくれたボクシングの百科事典を一睡もせずに読破した。
その後、毎週、週末になるとカス・ダマトのところで練習し、家に泊まった。
家にはほかにも何人かのボクサーとトレーナー、(一生独身だった)カス・ダマトのパートナー、カミール・イーワルドがいた。
最初の頃、マイク・タイソンは、昼間、一緒に練習し指導を受けたトレーナーの財布から金を盗んだ。
トレーナーは
「マイクに違いない」
と訴えたが、カス・ダマトは
「やつじゃない」
とかばった。
マイク・タイソンは盗んだ金でマリファナを買った。
それ以外はボクシング漬けの毎日だった。
ある週末、カス・ダマトの家でシュガー・レイ・レナード対ロベルト・デュラン戦(1980年)を観て、ボクシングに命を懸けたいと思った。
「すげえ!
全然次元が違う。
心底ワクワクした。
危険な感じで、パンチがおそろしく速かった。
まるで試合に振り付け師がいて、それを2人が演じているかのようだった。
あれほどの衝撃はそれまでなかったし、これからもないだろう」
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カス・ダマト(Cus D'Amato)は、1908年にニューヨーク市ブロンクス区サウスブロンクスでイタリア系移民の子供として生まれ、幼少の頃にボクシングと出会い惚れ込み、街ではストリートファイトを繰り返した。
12歳のとき、24歳の男とケンカして、凶器で殴られ片目の視力を失い、22歳でマンハッタン14丁目のユニオン・スクウェアの近くにあったグラマシー・ジムで若いボクサーのコーチを始めたとき、すでに白髪で、残った片目も色盲だった。
グラマシー・ジムには、ロッキー・マルシアーノがいた。
身長178㎝、リーチ173㎝。体重は84㎏。
背が低く、胴が長く、脚は短くて太く、腕が短く、拳は小さく、不器用で覚えが悪く、トレーナーのゴールドマンいわく
「うまく構えられない、うまく打てない、まったくダメな新人だった」
が、努力に努力を重ね、決して退かないファイトスタイル、岩のような肩の筋肉から繰り出される強打は「ブロックトンの高性能爆弾」といわれ、49戦49勝43KO、生涯に一度も負けなかった偉大な世界ヘビー級チャンピオンだった。
そしてカス・ダマトの指導を受けたホセ・トーレス(ライトヘビー級)、フロイド・パターソン(ヘビー級)もボクシング史に残る世界チャンピオンとなった。
また自身、若気の至りとケガでボクサー人生を棒に振った経験のためか、カス・ダマトがセコンドについたボクサーは1人も試合が原因で死亡したり重度のケガや後遺症を負わなかった。
カス・ダマトの教えるファイトスタイルはオーソドックスではなかった。
通常、ボクシングでは右利きならば左の腰と肩を前に出して、相手に対して斜めに構え、前に出した肩から軽いジャブを出すが、カス・ダマトは
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。
打たれなければ試合に勝つからだ」
と両脇をしめて両腕でボディと顔面をガードして、相手とほぼ正面に向き合い、頭を振って相手のパンチをかわして、飛び込んで急所にパンチを叩き込むというピーカブー(Peekaboo、いないいないばあ)スタイルを教えた。
またフロイド・パターソンにソニー・リストンが挑戦してきたとき、ボクシングはクリーンで素晴らしいものであるべきという信念を持ち、、マフィアなどがボクシング界に進出することを嫌っていたカス・ダマトは
「暗黒街につながりのあるヤツはだめだ」
と突っぱね、プロモーターたちから疎んじられるなど、ボクシング界の異端児的な存在でもあった。
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ソニー・リストンは、2人の妻との間に25人もの子供をつくったアルコール依存症の父親に虐待を受けながら農業を手伝っていたが、やがてセントルイスに脱出。
学校に通えず読み書きができない黒人少年にまともな仕事はなく、10代前半で強盗団を組織し、地元で知らぬ者はいない存在となった。
ミズーリ州の刑務所に収監され神父に教わってボクシングを始め、仮釈放後、アマチュア選手としてスタートし、すぐにミズーリ州チャンピオンとなった。
天性の肉体とパワーでプロ転向後も14勝1敗の好成績をマーク。
しかし昔の悪い仲間と縁が切れないソニー・リストンは路上で呼び止められた警官に暴行を加えた上、拳銃を奪い逃走し9ヵ月間、拘束された。
釈放後、拠点をフィラデルフィアに移して再始動し、復帰後19連勝(17KO)
しかし悪いつき合いは続き、ニューヨークの大物マフィア、ルッケーゼ一家の一員、マーダー・インクの殺し屋、フランキー・カルボとその右腕であるブリンキー・パレルモが、ソニー・リストンを援助し、その試合と興行を仕切った。
そんな闇社会と関係し続けるソニー・リストンがフロイド・パターソンに挑戦してきたとき、カス・ダマトは反対し、NAACP(アメリカ黒人地位向上協会)にソニー・リストン戦に同意しないよう直訴。
J・F・ケネディが否定的な見解を示すなど大騒動に発展した。
フロイド・パターソンは
「逃げているといわれるのは心外だし、彼にどんな問題があろうと現在はNo.1コンテンダーであり犯罪者ではない。
王者の義務を果たす」
とカス・ダマトの反対を押し切って契約書にサインし、2分余りでKOされた。
後年(1971年1月5日)、ソニー・リストンはラスベガスの自宅ベットの下で死んでいるのを発見された。
キッチンでヘロインがみつかり腕に注射痕があったため薬物の過剰摂取が死因とされたが、あまりに不審な死に方で、マフィアに利用されるだけ利用されて殺されたと囁かれた。
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1981年、14歳のマイク・タイソンが少年院を仮退院するとカス・ダマトは
「もう家には戻るな」
と自宅に同居させた。
マイク・タイソンは
「ボロ家に戻らずにすむ」
と喜ぶ半面、それまで白人とつき合った事がなかったこともあり
「どうせ今に欺かれるに決まっている」
と警戒した。
基本的にトレーニングは週7日。

5:00
起床
ストレッチ
約5kmのジョギング
ジャンプエクササイズ×10回
ダッシュ10本
6:00
シャワーを浴びて再び寝る
10:00
食事(オートミール)
12:00
練習
スパーリング10R
14:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
15:00
練習
エアロバイク×60分
17:00
腹筋200回×10セット
ディップス25~40回 ×10セット
腕立て伏せ50回×10セット
シュラッグ30kg×50回×10セット
ブリッジ10分
19:00
食事(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
20:00
エアロバイク×30分
21:00
ビデオや TVを観て就寝
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夜、カス・ダマトとマイク・タイソンは、古今東西のボクシングの映像をみながら戦う技術や心について語り合った。
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力である」

「物を欲しがり過ぎてはいけない。
堕落はそこから始まるのだ。
車が欲しいと思う。
洒落た家にピアノも欲しいと思う。
思ったが最後、したくない事までやり始める事になる。
たかが物のためにだ」

「ボクシングでは人間性と創意が問われる。
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」

「勇者と臆病者には、大きな違いはない。
両者とも同じ様に倒されるのを恐れている。
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ。
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者、恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ。
英雄は逃げたりしない。
最後までやり遂げようとする自制心を持っている。
つまり最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」

「恐怖心はボクシングを学ぶうえで最大の障害だ。
しかし恐怖心は1番の友達でもある。
もし恐怖心をコントロールできれば用心深くなることができる。
恐怖心は火のようなものだ。
上手に扱えば身を暖めてくれるし、料理を手助けしてくれし、明かりにもなる。
でもコントロールできないと火はお前と周囲のあらゆるものを破壊する。
山上の雪玉のように、転がる前なら対処できるが、いちど転がりだしたらどんどん大きくなって押し潰される。
だから、恐怖心を肥大させてはならない」

「野原を横切っているシカを思い浮かべろ。
森に近づいたとき、突然、本能が告げる。
危険なものがいる、ピューマかもしれない。
ひとたびそうなると、おのずと生存本能が起動して、副腎髄質から血液にアドレナリンが放出され心臓の鼓動が速まって、並外れた敏捷性と力強さを発揮できるようになる。
通常そのシカが15フィート跳べるところを、アドレナリンによって最初の跳躍が40フィートにも50フィートにも延びる。
人間も同じだ。
傷つけられたり脅されたりといった状況に直面すると、アドレナリンが心臓の鼓動を速める。副腎髄質の作用で、普段は眠っている力を発揮できるんだ」

「自分の心は友達じゃないぞ、マイク。
それを知ってほしい。
自分の心と戦い、心を支配するんだ。
感情を制御しなくてはならない。
リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。
実は90%は精神的なものなんだ。
試合の前の夜は眠れなくなる。
心配するな、対戦相手も眠れてやしない。
計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。
想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。
覚えておけよ。
動けば緊張は和らぐ。
ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。
想像力が消えてなくなったからだ。
現実の戦い以外のことは問題でなくなる。
その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」

「私の仕事は、才能の火花を探してきて火をともしてやることだ。
それが小さな炎になり始めたら燃料を補給してやる。
そしてそれを小さな炎が猛り狂う大きな火になるまで続けてやり、さらに火に薪をくべれば、火は赤々と燃え上がるのだ」

マイク・タイソンは、13歳のとき、腹筋は50回もできず腕立て伏せも13回しか出来なかったが、カス・ダマトに
「Never Say Can't(できないっていうな)!!」
といわれ続け、頑張った結果、20歳になると腹筋2000回、腕立て伏せ500回を毎日こなすようになった。
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「5-3-2」
「7-4-6」
トレーナーのケビン・ルーニー(Kevin Rooney)がいうと、ピーカーブーで構えたマイク・タイソンはサンドバッグに向かって電光石火のコンビネーションを叩き込んだ。
1~7の数字は、人体の7つの急所を指していた。
ケビン・ルーニーは、ボクサーとして3階級制覇を成し遂げたニカラグアの英雄、アレクシス・アルゲリョと対戦(2RKO負け)したこともあり、指導者としてもカス・ダマトの技術や精神を受け継いでいて、マイク・タイソンに実技を交えて指導した。
「俺は彼に毎日10Rのスパーリングを週5日させた。
毎日が力尽きるまでの戦争だった。
今でいう「1日やって翌日は体を休める」なんてバカげたことしてなかった。
偉大なファイターになるにはスパーリングするしかない。
毎日毎日、来る日も来る日もスパーリングをしなくてはならない。 
マイクの場合、試合の2、3日前までそれをやった。
あるときアトランティック市でマイクがスパーリング中、鼻血を出したことがある。 
そのときジミー・ヤコブが俺にスパーリングを止めさせるよういった。 
俺は「何? じゃ試合中にマイクが鼻血を出したら試合を止めさせるのか?」といった。
そしたらジミーは納得した。
またラスベガスでスパーリングをしていたとき、試合2日前にマイクは目の上をカットしたんだが、切り口は試合中開かなかった。
なぜならマイクは頭を動かし相手の攻撃をかわしたからな」
マイク・タイソンはあまりにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労した。
マイク・タイソンは20オンスという大きなグローブ、スパーリングパートナーは14オンスを着用。
週給1000ドル(約10万円)という賃金は、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した。
ボクシング界きっての篤志家であるビル・ケイトンは、マイク・タイソンのビジネスやマネージメントを担当。
ジム・ジェイコブスは、26000本ものボクシングフィルムを所有し、古今東西のボクサーを研究するマニアで、カス・ダマトとは古くから知り合いで協力者でマイク・タイソンを様々な面でサポートした。
「自分がそのファイターをAといい、ダマトがBといえば、そのファイターはBになってしまう。
ダマトは『マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ』といった。
私はその考えに従うだけだ」
2人ともボクシング界とマイク・タイソンの未来に期待していた。
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1982年、15歳のマイク・タイソンは、アメリカジュニア・オリンピック2連覇。
1983年、マイク・タイソンが16歳のとき、母親が亡くなった。
1984年、イベンダー・ホリフィールドはライトヘビー級(-81kg)、マイク・タイソンはヘビー級(-91kg)、でロサンゼルスオリンピック出場を狙った。
アメリカ代表候補の合宿で、2人は初めて会い、21歳のイベンダー・ホリフィールドは、17歳のマイク・タイソンの練習をみて驚いた。
「俺も努力家だと自負している。
だが彼がジムで練習するのを横目でみて驚いたよ。
こいつはやられたと思った。
まだ17歳の若造なのに・・・
俺以上に練習していたのは彼だけだった。
誰もかなわないと思ったよ」
しかしマイク・タイソンは、アメリカ国内の最終選考会決勝でヘンリー・ティルマンにダウンを奪いながらも判定負け。
オリンピック参加は叶わなかった。
(ヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得)
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイント。
そのためにダメージを与えたりダウンを奪う格闘技というよりポイントを奪い合うポイントゲームになりやすい。
常にノックアウトを狙う荒々しいマイク・タイソンのファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった。
「オリンピックには出られなかったが代表選考試合はいい経験になった。
ホリフィールドの戦い方は野心的で俺のスタイルと似ていた。
相手を軽くノックアウトする素晴らしいボクサーだった」
マイク・タイソンは、この後、プロの転向した。
アマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗。
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同じ頃、17歳のバーナード・ホプキンスは、9つの重罪で懲役18年を宣告され刑務所に入った。
「刑務所の中はストリートよりも酷い。
男がレイプされ、殴られ、拷問されていた」
入所後、間もなく、ケンカに巻き込まれた弟が逃げきれず銃で撃たれ、通りの外れの草むらで遺体で発見されたため、監視つきで葬儀に参列し、また刑務所に戻された。
「すべてが嫌になり自分の無知を責めた」
厳重に防護された刑務所で受刑者を苦しめるのは有り余る時間だった。
1日中1人でいるために孤独感で精神を病む者もいたし、憂さを晴らすために暴れる者もいた。
バーナード・ホプキンスも刑務所の中で暴れた。
太刀打ちできないと悟った敵は、
「刺してしまえ」
とスキをうかがった。
「おかしなことにケンカして刺されるたびに俺に対する評判が上がった」
毎日、恐怖にさらされながらバーナード・ホプキンスは
「18歳になる前に死ぬか、一生刑務所を出られない」
と思った。
「状況を変えなければ・・・」
「無知のままではダメだ」
勉強を始め、受刑者1人当たり年間数万ドルがかかることを知ると
「服役もビジネスだ。
このビジネスの中で押しつぶされるのはゴメンだ」
と思った。
刑務所内にはボクシングのリングとジムがあり、アマの経験を知ったトレーナーに誘われ、久しぶりにグローブをはめた21歳のバーナード・ホプキンスはスパーリングで圧勝。
その後、周囲のみる目が変わり、刑務所内で一目置かれるようになった。
ボクシングは
「まともな世界に戻るチャンスだ」
と思った。
キャンプヒル、ロックビュー、ダラス、グレーターフォードなどペンシルベニア州内38の刑務所にボクシングクラブがあり、トーナメント戦が行われていた。
バーナード・ホプキンスは銃を持った護衛に付き添われながら試合ごとにバスで移動し、各刑務所の強豪と対戦。
州刑務所ボクシングのミドル級チャンピオンになった。
「情熱が蘇ったんだ」
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