マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。
2021年1月7日 更新

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。

3,787 view

Olympics - 1984 Los Angeles - Lt Heavywt Boxing - USA Evander Holyfield VS Salman imasportsphile

1984年7月29日~8月11日、ロサンゼルスオリンピックからスーパーヘビー級を加え12階級となったボクシング競技に、イベンダー・ホリフィールドライトヘビー級(-81kg)アメリカ代表として出場。
1984年といえば日本に原爆が落とされて第2次世界大戦が終結した後、新たに勃発した東西冷戦真っただ中。
1980年のモスクワオリンピックは西側諸国の多くは不参加。
日本も柔道の山下泰裕、ボクシングの赤井英和など多くの代表選手が出場できなくなり涙を飲んだ。
そしてロサンゼルスオリンピックでは東側の多くの国が不参加。
ボクシング競技でも、ソ連、東ドイツ、キューバ、ポーランド、ブルガリアといった強豪国はいなかった。
イベンダー・ホリフィールドは勝ち進み、準決勝でもケビン・バリー(カナダ)戦を圧倒していた。
10R、イベンダー・ホリフィールドの右のボディから左フックが顔面に入り、ケビン・バリーが倒れた。
レフリーがカウントを始めたが、ケビン・バリーが立ち上がった後、突然、ジャッジに合図し、イベンダー・ホリフィールドに失格を宣告した。
誰もがイベンダー・ホリフィールドの勝ちだと思っていたため、会場は騒然となった。
レフリーは、
「ブレイク後のヒッティング」
を理由としたが、いまビデオをみてもレフリーのブレイクは確認できない。
「ホリフィールドはハメられた」
「失格はおかしい」
この判定に誰も納得しなかった。
アメリカのテレビ解説は
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、イベンダー・ホリフィールドは
「何とか怒りを抑え口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
と文句もいわず判定を受け入れた。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げた。
表彰式でも金メダリストとなったアントン・ヨシポビッチ(ユーゴスラビア) は、銅メダリストのイベンダー・ホリフィールドを自分の立っている表彰台の1番高い場所に立たせた。
それまでもオリンピックボクシングでは不思議な判定が多かったが、ロサンゼルスオリンピックの次の1988年のソウルオリンピックでも、ミドル級のロイ・ジョーンズ・Jr(アメリカ)が決勝戦で朴時憲(韓国、開催国)を2度ダウンさせ、有効打も86対32と優っていたにも関わらず判定負けした。
バンタム級の辺丁一(韓国)がアレクサンダー・フリストフ(ブルガリア)に判定負けするとセコンド陣が乱闘となり、辺丁一が1時間以上リング上に座り込んだため、その日の後の試合は中止となった。
オリンピックボクシングにおける疑惑の判定の原因を詮索すると、直接、金銭が絡まないため、ある意味、プロ以上に複雑で、利権絡みや政治的思惑にまで及び、結局、真相はわからない。
1992年のバルセロナオリンピックからはコンピューターポイントシステムが導入されるようになったが、これによってますます軽いパンチを当て離れるというタッチ&ラン的なアウトボクシングが主流となり、強いパンチで倒すというボクシング本来の姿と魅力は消えてしまった。
 (2245526)

1984年11月15日、オリンピックで悲劇のヒーローとなったイベンダー・ホリフィールドがライトヘビー級(79.379kg以下)でプロデビュー。
ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたプロデビュー戦はいきなりTV中継された。
1985年3月6日、 18歳のマイク・タイソンがヘビー級(90.719kg以上)でプロデビュー。
ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ち。
デビュー戦を白星で飾ったが、イベンダー・ホリフィールドに比べると無名で地味なキャリアスタートとなった。
しかし古い時代の試合の映像をいくつもみて研究し「歩くボクシング辞書」と呼ばれるほど、その歴史を含めてボクシングを深く理解していたマイク・タイソンにとって逆境はチャンスだった。
「過去の偉大なボクサーは失敗の克服方法を研究した」
「凡人と天才の違いは、上を目指し続ける意志があるかどうか。
チャンピオンになりたいかどうかだ」
とハードなトレーニングと練習に敢行。
1985年7月20日、イベンダー・ホリフィールドがクルーザー級(90.719kg以下)へ階級を上げて試合を行い判定勝ち。
1985年10月、マイク・タイソンがデビュー後、11連勝。
早いときは9日間で2試合、8月から11月にかけては6試合戦ってすべて1RKOで勝った。
カス・ダマトには野望があった。
それはフロイド・パターソンが持つヘビー級史上最年少チャンピオン記録:21歳11ヶ月を破ることだった。
デビュー当時、マイク・タイソンは18歳9ヶ月。
約2年で世界タイトルを奪取しようというのである。
 (2245510)

1985年11月4日、マイク・タイソンが11連勝を飾った直後、カス・ダマトがマウント・サイナイ病院で肺炎のため77歳で亡くなった。
死の直前に受けたインタビューで、こう答えていた。
「彼(マイク・タイソン)のためでなかったら私は多分もう生きてはいなかっただろう。
私はこう思う。
人間は生きてゆく間に心にかける人々や喜びの数を増やしていく。
それから自然がそれを1つまた1つと奪い去ってしまう。
自然はそうやって死への準備をしてくれるのだ。
私にはもはや何の喜びも残っていなかった。
友人たちは行ってしまった。
耳も聞こえないし目もよく見えない。
見えるのは思い出の中だけだ。
だから私は死ぬ用意をしなきゃならんと思っていた。
そこへマイクがやってきたのだ。
彼がここにいて、そして今やっていることをやっているという事実が私に生き続ける動機を与えてくれる」
3日後、葬儀が行われ、多くの関係者が参列した。
マイク・タイソンはずっと棺桶に付き添い、落ち着いているようにみせていたが家に帰るとカミール・イーワルドと2人で号泣した。
「おかしくなりそうな頭の中で考えていたのは彼のために成功することだけだった。
カスの遺産の正しさを証明するためならどんなことでもしただろう。
カス・ダマトはオレにとってオヤジ以上の存在だった。
誰でもオヤジになることはできるが、しかし、それは血がつながっているというだけの話だろう。
カスはオレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」
(マイク・タイソン)
「カス・ダマトはボクシング界の無知や腐敗と真っ向から対決した。
敵には屈しなかったが、友人には理解があって情け深く信じられないくらい寛容でした」
(ジミー・ジェイコブズ)
「カスがボクシングの世界に与えた影響はヘミングウェイがアメリカの若い作家たちに与えた影響に勝るとも劣らない
(ノーマン・メイラー、作家)
「彼から多くのことを学びました。
ボクシングのことばかりでなく、生き方や人生についても」
(ピート・ハミル、ジャーナリスト)
葬儀から1週間後、エディ・リチャードソン戦のためマイク・タイソンたちは、テキサス州に飛んだ。
マイク・タイソンは、死んでから、毎晩、話しかけていたカス・ダマトの写真を持っていった。
「明日、このリチャードソンってやつと戦うんだ、カス。
どうしたらいいと思う?」
試合で体はちゃんと動いたが、気持ちは落ち、自信も失っていた。
「実をいうと今でもカスの死を乗り越えられたとは思っていない。
腹も立てていた。
もうちょっと早く医者に行っていれば死なずに俺を守れたかもしれないんだ。
なのにカスは我を通し治療を受けずに死んでボクシング界の獣たちのあいだに俺を1人で置き去りにした。
カスの死後はもう何もかもがどうでもよくなった。
戦ったのは単ににカネのためだ。
夢なんてなかった。
タイトルを獲ることよりも、ただワインを飲んで騒いで我を忘れたかった」
蒸発した父親は誰かも知らず、母親は16歳のときに失い、19歳で「オヤジ以上の存在だった」カス・ダマトを失ったマイク・タイソンは、肉体的には世界に出ていけるほどの器だったが、精神的には未熟だった。
以後、「自分を見失った子供」は、あるときは心を閉ざし、あるときは「俺は子どもじゃない、大人の男だ」と意味もなく自分を誇示するようになった。
 (2245523)

マイク・タイソンのデビュー年の戦績は、15戦15勝15KO、内11が1RKO。
そして2年目、

1986年1月11日、デーブ・ジャコ 、1RTKO
1月24日 、マイク・ジェームソン 、5RTKO
2月16日、ジェシー・ファーガソン、6RTKO
3月10日、スティーブ・ゾースキー 、3RKO
5月.3日、ジェームス・ティリス 、判定勝ち
5月20日、ミッチ・グリーン 、判定 勝ち
6月13日、レジー・グロス 、1RTKO
6月28日、ウィリアム・ホシ-、 1RKO
7月11日、ロレンゾ・ボイド、2RKO
7月26日、マービス・フレージャー 、1RKO
8月17日 、ホセ・リバルタ 、10RTKO
9月6日、アルフォランゾ・ラトリフ 、2RTKO

と世界ランカーだったスティーブ・ゾースキー、ポスト アリと呼ばれていたジェームス“クィック”ティリス、ジョー・フレージャーの息子マービス・フレージャーなどヘビー級のホープたちに勝ち続けた。
1986年11月22日、27戦27勝0敗25KOでWBC世界ヘビー級チャンピオン、トレバー・バービックに挑戦。
試合当日、マイク・タイソンは、13時にパスタ、16時にステーキ、17時に再びパスタとスニッカーズを食べ、オレンジジュースを飲んだ。
そしてケビン・ルーニーが、マイク・タイソンの拳にバンデージを巻きグローブをはめた。
挑戦者のマイク・タイソンが先に入場したが、そのときアリーナが肌寒かったのでケビン・ルーニーはタオルを切ってマイク・タイソンの首を覆った。
マイク・タイソンが、ロープをくぐってリングに上がり、ゆっくり回っていると黒いフードのつきのガウンをまとったトレバー・バービックが入場。
5年前、モハメド・アリを破って引退に追い込んだトレバー・バービックは、常に試合で黒のトランクスをはいていたマイク・タイソンへの嫌がらせで黒のトランクスを選んだ。
ルールでトランクスの同色は認められず、色が重なった場合、チャンピオン優先となるが、マイク・タイソンは無視して黒のトランクスをはいたため5000ドルの罰金処分となった。
試合前、モハメド・アリが観衆に紹介されリングに上がり、両者を激励したが、マイク・タイソンに近づいたとき
「俺の代わりにぶちのめしてくれ」
といった。
試合前の賭け率は1:5でマイク・タイソン有利。

Mike Tyson (USA ) vs Trevor Berbick (Canada) | KNOCKOUT, BOXING fight, HD

試合が始まるとマイク・タイソンは突進し強打を浴びせた。
「頭を動かせ、ジャブを忘れるな」
「頭に攻撃が集中しているぞ。
ボディから入れ」
ケビン・ルーニーの指示が飛んだ。
1R中盤、マイク・タイソンの強烈な右でトレバー・バービックはよろめき、さらに攻撃をもらい朦朧状態となった。
コーナーに戻って座ったマイク・タイソンの体は性病(淋病)に対する抗生物質を注射したせいもあり大量の汗をかいていた。
2R、開始10秒、マイク・タイソンの右でトレバー・バービックはダウン。
すぐ飛び起き飛び反撃を試みたが、もうパンチも体もパワーはなかった。
2R、残り30秒、マイク・タイソンは右ボディブローから右アッパー。
これは外れたが続く左フックがテンプルをとらえ、トレバー・バービックは倒れていった。
トレバー・バービックは立ち上がろうとしたが、後ろによろけ、足首がグニャリと曲がり、再び倒れた。
再度立ち上がろうとたが、キャンバスにのめるようにまた倒れ、なんとか立ち上がることはできたがレフリーのミルズ・レーンはトレバー・バービックバービックを抱きかかえ手を振って試合を止めた。
335秒で勝ったマイク・タイソンは、デビュー後28連勝、20歳5ヶ月という史上最年少記録でWBC世界ヘビー級チャンピオンとなり、カス・ダマトの夢を実現させた。
「試合終了です。
ボクシングに新たな時代が到来しました」
(TVアナウンサー)
「マイク・タイソンはマイク・タイソンがいつもやっていることをやった。
これぞファイトだ」
(TV解説者、シュガー・レイ・レナード)
「頭に大文字のFがつく正真正銘のFight(ファイト)だ」
(TVアナウンサー)
マイク・タイソとケビン・ルーニーは抱き合った。
「信じられない、ちきしょう。
20歳でチャンピオンになっちまった」
「嘘みたいだ。
20歳で世界チャンピオンだ。
こんなくそガキが」
ジミー・ジェイコブズもリングに入ってマイク・タイソンにキスした。
「カスもこうしてくれたかな?」
マイク・タイソンに聞かれてジミー・ジェイコブズはニッコリとした。
トレバー・バービックのマネジメントをしているドン・キングもマイク・タイソンに近づき祝福した。
 (2245528)

足をもつれさせながら必死に立ち上がろうとするトレバー・バービックの姿は、「宇宙遊泳」といわれた。
マイク・タイソンの一瞬で勝負をつける、まるでショーのような戦慄のKOシーンに人々は興奮した。
この試合でもカーク・ダグラス、エディ・マーフィ、シルヴェスター・スタローンがリングサイドにいたが、マイク・タイソンの試合には多くの著名人がかけつけた。
マイク・タイソンは特別な存在だった。
ヘビー級の中では小柄なマイク・タイソンがKOの山を築き上げていく姿はアメリカンドリームそのもので、一種の社会現象となった。
「バービックはとても強かった。
自分と同じくらい強いとは全然思っていなかったけど・・・俺の打ったすべてのパンチには相手を破壊しようとする悪意が込められていた。
永遠に王者でい続けたい。
負けるくらいなら死んだほうがマシだ。
俺は相手を破壊するために、世界ヘビー級選手権を奪い取るためにやってきて、それを成し遂げた。
この試合を偉大な守護者カス・ダマトに捧げたい。
きっと彼は天国から見ていて、過去のいろんな名ボクサーたちと話をして、自分の息子を自慢しているだろう。
変わり者だったけど間違いなく天才だった。
彼がこうなるとずっと言い続けてきたことが現実になったんだ。
次の対戦相手?
誰でもかまわない。
偉大な選手になるには誰とでも戦わなくちゃいけない。
誰とでも戦ってやる」
マイク・タイソンは、その晩はずっとベルトを外さなかった。
腰に巻いたままホテルのロビーを歩き、ラスベガスのヒルトンホテルの向かいのバーでの祝勝会でも巻いたままだった。
一同は一晩中、飲み明かしたが、ウォッカでしたたかに酔ったマイク・タイソンは、夜更けにいろんな女の子たちの家を回ってチャンピオンベルトをみせた。
「セックスはしていない。
しばらく一緒に過ごして出ていって、他の女の子に電話して、その子の家に行って一緒に過ごした」
早朝、ホテルの部屋に戻ったときもベルトを腰に巻いたままだった。
 (2245580)

マイク・タイソンがWBC世界ヘビー級チャンピオンになった同年(1986年)の7月12日、クルーザー級で11連勝した24歳のイベンダー・ホリフィールドがWBA世界クルーザー級チャンピオン、ベテランのドワイト・ムハマド・カウイに挑戦。
1Rは的確なパンチを当てて優勢だったが、その後は距離を詰められ苦戦。
10R終了時にはドワイト・ムハマド・カウイ優勢だった。
11Rは未体験だったがイベンダー・ホリフィールドの熱い闘志は尽きなかった。
「この試合で7㎏減った。
腎臓を傷めたようだが死ななきゃいいと思ってた」
両者はガッツむき出しで15Rを戦い抜き、イベンダー・ホリフィールドがドワイト・ムハマド・カウィに判定勝ちしWBA世界クルーザー級チャンピオンになった
「死なずに最後まで戦い抜き褒美にベルトをもらった」
バーナード・ホプキンスは、トレバー・バービック vs マイク・タイソン戦を刑務所の中でみた。
「俺なら倒せる」
その後、17歳で入った刑務所を23歳で仮出所したが、そのとき看守に予言された。
「半年で戻ってくる」
「いいや、2度とここには戻って来ない」
バーナード・ホプキンスは、そういって厚生施設に入った。
実際、多くの者はまた刑務所の戻った。
例えば、ニューヨーク州の刑務所には、理容師の訓練プログラムがあり、服役期中だけでなく出所後も使える技術が学べるが、犯罪歴があると理容師免許は取得できない。
10代後半を刑務所で過ごし、仕事もスキルもないまま、いきなり社会に放り出され、地元に戻り、近所の同年代や若者が新車を乗り回すのをみると自分が情けなくなる。
そして昔の仲間とつき合えば、ドラッグなどに接近し、悪い生活に戻る可能性は高い。
「結局、誰も助けてくれないし、自分で自分の環境を変える必要があった」
バーナード・ホプキンスは、ボクシングを仕事にしようと決意。
すべてを賭けられるのはボクシングしかなかった。
そして元に戻るまいと、麻薬、アルコール、ジャンクフードを断ち、地元のフィラデルフィアのホテルのキッチンで鍋やフライパンを洗ったり、屋根掃除の仕事をしながら、練習とトレーニングをを続け、仮釈放期間を無事に過ごし、その後、トレーナーのブイエ・フィッシャーが所有する自動変速機の修理店で働いた。
 (2245562)

1987年3月7日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンは2つ目のタイトルを獲りにいった。
試合開始のゴングと同時にWBA世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・スミスは足を使って、マイク・タイソンが懐に入るとクリンチでかわすという展開になった。
ファンの期待は何ラウンドでKOするかだったが、結局マイク・タイソンは倒せず判定勝ちし、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
マイク・タイソンは無類の女好きで、多いときには一晩で24人もの女性と寝たというがトレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦は淋病の治療中だった。
1987年5月15日、WBA世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがIBF世界クルーザー級チャンピオン、リッキー・バーキーを3R KO。
WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
1987年8月1日、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンがIBF世界ヘビー級チャンピオン、トニー・タッカーと対戦。
3Rまではトニー・タッカー優勢だったが、それからマイク・タイソンの猛攻が始まり大差の判定でマイク・タイソンが勝ち、WBC、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなり、世界最強の男となった。
モハメド・アリ以降、低迷していたボクシング人気はマイク・タイソンによって再び火がついた。
モハメド・アリとマイク・タイソンは、共に偉大なボクサーとして名声と富を得たが、ボクシングスタイルは典型的なアウトボクサーとインファイターで異なる。
またモハメド・アリは人格者だったが、マイク・タイソンはそうではなかった。
モハメッド・アリは、ローマオリンピックで、アメリカ代表としてライトヘビー級の金メダルを獲ったにもかかわらず、白人専用レストランで
「ニガーに出す料理はない」
と入店を拒否され、
「こんなもの何の役にも立たない」
とメダルを川に投げ捨てた。
プロになると史上初めて対戦相手を挑発するコメントやパフォーマンスを行い、技術的にもヘビー級ボクシングに改革を起こし、ベトナム戦争の徴兵を拒否し世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪されても屈っせず、アメリカの黒人差別(人種差別)とも戦い、全盛期を政府の奪われた後、世界ヘビー級チャンピオンに返り咲き、合計3度、世界ヘビー級チャンピオンになった唯一無二の存在だった。
それに対しマイク・タイソンは、セレブ的な生活をを嗜好し、これみよがしに浪費し、誇示した。
朝から夜までストイックに練習し、夜になると女と格闘。
飽きてくると別の女の家に向かい、2~3人ハシゴした挙げ句、夜更けに部屋に帰って、また別の女を電話で呼び出して、一緒に過ごした。
「もうやりたい放題やった。
ヴェガスのホテルの部屋に女を10人はべらせたこともあった。記者会見に出るときに1人だけ連れていって、残りは会見が終わったときのために部屋に置いてきた。
裸になってチャンピオンベルトを巻いてセックスしたこともあった。
その気のある相手がいるかぎりはやりたかった。
滑稽な話だが、全員を満足させようとしたんだ。
そんなことは不可能なのに。相手は頭のネジがぶっ飛んだやつらだしな。
しばらくすると、アメリカ中の女で住所録が埋まった。
ヴェガスの女、ロサンジェルスの女、フロリダの女、デトロイトの女。
まったく、何をやってたんだ
若造がカネを握ると、こんなろくでもないことしかやらないものさ」
 (2245537)


女性関係は乱れに乱れたが、中には世界的なスーパーモデルもいた。
「ジェット機で世界を飛びまわって王族との晩餐会に出るようなファッション界の重鎮たちの集まりでのことだ。
当時はあるモデルと付き合っていたんだが、ある友人はカネをめぐってその女に腹を立てていた。
『マイク、あいつのことは忘れろ。
たぶん世界でいちばんきれいな女と付き合わせてやるから。
まだ10代だが、すぐにトップモデルになる。
今のうちにツバをつけておけ
2、3年はコッソリつき合えるぞ』
そういってそのとびきりの女が出席するパーティに招待してくれた。
会場は5番街の豪奢なマンションだ。
手持ち無沙汰にしていると、その友人ががそのモデルを連れてきて、俺と引き合わせた。
友人がのいっていた通りの女で、その上、ビックリするほど綺麗なイギリス英語を話すんだ。
業界のトップに立つであろうことは、ひと目みればわかった。
話を始めると彼女は俺のことを知っていて興味があるみたいだった。
電話番号を交換し、翌日、彼女のくれたメモをみた。
電話番号と一緒に”ナオミ・キャンベル”という名前が書き添えられていた。
驚くべきことに、俺たちはつき合い始めたんだ。
彼女は情熱的で性的な好奇心も旺盛だった。
2人にはいろんな共通点があった。
彼女も片親に育てられていた。
彼女の母親は必死に働いて、娘をイギリスの私立学校に通わせられるだけカネを貯めたそうだ。
少女時代、ナオミはずっと特別扱いされていた。
ナオミとは喧嘩もよくやった。
俺はしょっちゅうほかの女たちと遊び、彼女はそれが気に入らなかったんだ。
互いに夢中ってわけじゃなかったが彼女とは一緒にいてすごく居心地がよかった。
また彼女はすごく仕事熱心で、意志の固い人間だった。
俺が喧嘩に巻き込まれたときも、彼女は俺のそばを離れず戦うことを恐れない。
俺のことで誰にもとやかくいわせなかった。
若くして自力で道を切り開こうとしていた2人だ。
あの頃の俺たちは人生について何も知らなかった。
少なくとも俺は知らなかった。
しかし彼女は数年で世界のトップに立ち誰も太刀打ちできなくなった。
地球上のどんな男でも手に入っただろう。
彼女の存在は強烈すぎた。
男は屈するしかない。
ところが、俺は1人の女に落ち着く気がなかった。
だから気軽にセックスできる女たちを抱えた上に、シュゼット・チャールズとも付き合い始めたんだ。
シュゼットは準ミス・アメリカだったが、ミスに選ばれたヴァネッサ・ウィリアムスが『ペントハウス』誌にヌード写真を掲載されてタイトルを返上し繰り上がりでミス・アメリカと認められていた。
すごくいい子だったよ。
大人だったし、俺より2~3歳年上だった。
これだけの女と付き合えたというのに、どうして俺は女をとっかえひっかえしていたんだろう?
今じゃ想像もできない」
 (2245538)

1988年1月22日、マイク・タイソンはモハメド・アリが引退後、1970年代後半から1980年代に長期政権を築いた名チャンピオン、ラリー・ホームズを4R KO。
1988年2月7日、マイク・タイソンが女優のロビン・ギブンスと結婚。
1986年3月にTVでロビン・ギブンスをみて気に入ったマイク・タイソンが強引に会ったのが始まりだった。
ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと同じニューヨーク出身のアフリカ系アメリカ人で年齢は2歳上。
10歳でアメリカンドラマティックアーツアカデミー(AADA、ハーバード大学教授のフランクリン サージェントにより創設された演劇学校)に入学し、15歳でサラ・ローレンス大学に飛び級入学した才女だった。
マイク・タイソンはロビン・ギブンスに
「妊娠した」
といわれ結婚。
「美女と野獣夫婦」といわれた。
1988年2月17日、マイク・タイソンが、バブル景気の真っ只中の日本に降り立った。
この試合、ドン・キングは、殺人の前科が問題となって試合直前になるまで入国できなかった。
まだ海外のボクシングをTVで観ることなど不可能な時代。
「世界で1番強いのはどんな男だろう?」
と想像を膨らませていたファンは熱狂した。
東京ドームのこけら落としとして開催される「WBA、WBC公認世界ヘビー級タイトルマッチ In Big Egg、マイク・タイソンvsトニー・タッブス」の10万円のリングサイドチケットは発売から3日で売り切れた。
マイク・タイソンは、ホテルニューオータニの1泊15万円するジュニアスイートルームでは全裸で過ごし、世界一物価の高い東京で1個8000円のメロンや1粒2000円のサクランボを含め食べたいものを食べたいだけ食べた。
部屋には多くの女性が出入りし、性欲も、満たしたいときに満たした。
早朝4時からのロードワークを行い、ジムワークは、スピードや技術もすごいが、220ポンド(100㎏)の筋肉の塊がムチのようにしなり襲いかかる姿は、殴りたいから殴るという感じで殺人本能を持った獣のようだった。
一方、相撲部屋に連れて行ったり、著名人に会ったり、パチンコを打ったりしてテレビのロケやマスコミの取材にも協力。
浅草寺に行ったとき、ファンをかき分けながら境内へと進むと、たくさんの鳩がいた。
マイク・タイソンは足元にいた一羽をサッと捕まえ、優しい顔でソッとそっと撫でた。
1988年3月21日、試合当日、東京ドームに集まった観衆は51000人。
マイク・タイソンは、激しく上体を振りながらジグザグな軌道でタップスの懐に飛びんでボディに右フック。
前屈みになったトニー・タップスに右アッパー。
体が反ってかわすトニー・タップスに、右ボディフック、右フック顔面、右アッパー顔面。
トニー・タップスはなにもできずに倒れ、マイク・タイソンが 2R KO勝ち。
354秒の試合にために買った高額チケットはまるで馬券のようだった。
このときアメリカでは、カス・ダマト亡き後、チーム・タイソンを牽引していたジム・ジェイコブスが白血病で亡くなっていた(58歳)
1988年4月9日、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがWBC世界クルーザー級チャンピオン、、カルロス・デ・レオンに8R TKO勝ち。
WBC、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
この後、ヘビー級への野望をあらわにしてクルーザー級のタイトルを無敗のまま返上。
スピード、パワー、スタミナ、1階級上げるために科学的なトレーニングを導入し徹底的に鍛えた。
そして
「いつかはやることになる」
とマイク・タイソンの試合を全部、注意深くみて研究し
「やれば厳しい試合になるだろう」
と思った。
1988年5月、いつまでたってもお腹が大きくならないことに変だと思っていたマイク・タイソンが聞いてみるとロビン・ギブンスは
「流産した」
といった。
以後、関係が悪化。
財産目当ての結婚だった疑いが強まった。
167 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【史上最強の男】マイク・タイソン 頂点から転落、神話崩壊、そして伝説となる

【史上最強の男】マイク・タイソン 頂点から転落、神話崩壊、そして伝説となる

師:カス・ダマトは亡くなり、唯一タイソンを叱ることのできた兄弟子でありトレーナーだったケビン・ルーニーも、タイソンの生む利益にのみ関心のある者たちによって引き離され、全盛期といわれる1988年以降、マイク・タイソンの神話は崩壊していった。
RAOH | 52,769 view
イベンダー・ホリフィールド  圧倒的!!  無敵のクルーザー級時代。

イベンダー・ホリフィールド 圧倒的!! 無敵のクルーザー級時代。

悲劇のロスアンゼルスオリンピックの後、プロに転向。超タフなドワイト・ムハマド・カウィとの死闘を制しWBA世界クルーザー級チャンピオンとなり、WBA、WBC、IBF、3団体のタイトルの統一にも成功。すぐに「最強」の称号を得るため、マイク・タイソンが君臨するヘビー級への殴りこみを宣言した。
RAOH | 275 view
イベンダー・ホリフィールド  戦慄の忍耐力 オリンピック の悲劇  そしてヒーローに

イベンダー・ホリフィールド 戦慄の忍耐力 オリンピック の悲劇 そしてヒーローに

幼き日の聖書的体験。アメリカンフットボールとボクシングに熱中した少年時代。マイク・タイソンとの出会い。そしてオリンピックでの悲劇。
RAOH | 325 view
ジョージ・フォアマン 「老いは恥ではない」45歳で2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった象をも倒すパンチを持つ男

ジョージ・フォアマン 「老いは恥ではない」45歳で2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった象をも倒すパンチを持つ男

1968年、メキシコシティオリンピックで金メダル獲得。 1973年、無敵のジョー・フレージャーを倒し世界ヘビー級チャンピオンになる。 1974年、モハメド・アリにノックアウトされ、やがてリングから消えた。 1994年、マイケル・モーラーを逆転KOで倒して再び世界チャンピオンなる。 アーチ・ムーアやロベルト・デュランなど40歳を超えても戦い続けたチャンピオンはいた。 しかしジョージ・フォアマンは10年間のブランクを経てカムバックし、しかも世界チャンピオンになった。 彼はその間、牧師をしていて、復帰の理由も慈善活動の費用を稼ぐためだった。 少年時代、小学校を留年し中学校を卒業できず犯罪にさえ手を染めた彼が・・・ 圧倒的な強さ、栄光、勝利、すべてを失うような敗北、そして奇跡のカムバック。 まさにアメリカンドリーム。
RAOH | 16,425 view
孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山!

孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山!

日本クルーザー級のパイオニアとしてその名を轟かせた西島洋介山を知らない人はいないだろう。手裏剣パンチを武器に闘った地下足袋ファイターは、そのボクサー人生の多くをアメリカで過ごした。またボクサーとして現役を退いた後には、日本国内で総合格闘技やキックボクシングにも出陣することに。様々なバックボーンを持ったファイター達とリング上で相見えてきた西島洋介山、孤高のボクサーはその拳にどんな想いを乗せて闘っていたのだろうか。

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト