マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。
2021年1月7日 更新

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。

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1988年6月27日、マイク・タイソンがマイケル・スピンクスと対戦。
マイケル・スピンクスは、モンタナ州セントルイスの悪名高いゲットー、プルーイット・アイゴー出身。
モントリオールオリンピックで兄弟揃って金メダルを獲得したレオンとマイケルはプロでも兄弟チャンピオンとなったが、ヘビー級での兄弟チャンピオンは史上初にして唯一である。
77年プロ入りしたマイケル・スピンクスは順調に勝ち進むが、翌年、兄レオンが世紀の番狂わせでモハメド・アリを破り、その世話をするのに忙しかったため、10ヶ月のブランクをつくった。
レオンが王座転落後、復帰し、自分ボクシング生活に専念し、WBAライトヘビー級チャンオンになった。
WBCライトヘビー級チャンピオン、ドワイト・カウイを判定で下して王座を統一し、タイトルを10度防衛するなど、ライトヘビー級ではスピンクス・ジンクスといわれた右ストレートで無敵を誇り、ヘビー級転向後も48連勝中のラリー・ホームズに挑戦し判定勝ちし、IBFヘビー級世界チャンピオンとなった。
マイク・タイソン、34戦全勝30KO。
スピンクス、31戦全勝21KO。
無敗同士の最強決定戦ということもあり
「OneceAndForAll」
というコピーがつけられ、当時のイベント記録をことごとく塗り替えたビッグマッチとなった。
開始からエンジン全開で飛び出たマイク・タイソンに対して、スピンクスは足を使ってロープづたいに動く格好となった。
1R1分経過、マイク・タイソンの右がスピンクスのボディにめり込むとマイケル・スピンクスはあっけなくダウン。
再開直後、無謀にも前に出ていくマイケル・スピンクスの顎をマイク・タイソンのアッパーが直撃。
リングに沈みロープを頼って立ち上がろうとするが身動きできず、マイケル・スピンクスは、そのまま10カウン トを聞いた。
試合開始からたったの91秒。
1RKO負けを喫したマイケル・スピンクスは引退した。
22歳のマイク・タイソンの報酬は2200万ドル(約30億円)だったが、試合前、マイク・タイソンとビル・ケイトンは報酬の配分で揉めた。
ビル・ケイトンは1/3(約10億円)を要求。
「私はデビューから君の面倒をみてきた。
マネージャー料として1/3を受け取るのは当然の権利だ!!」
「リングで戦うのは俺だ。
それは取り過ぎだ!!」
結局、マイク・タイソンの言い分が通ったが、試合後、ビル・ケイトンは解雇された。
さらに我がままで怠惰になりがちなマイク・タイソンを叱り励まし続けたトレーナーのケビン・ルーニーも方針面の相違から解雇された。
こうしてカス・ダマトが遺したチーム・タイソンは崩壊。
マイク・タイソンは、新トレーナーとして当時、まだ経験が浅かったアーロン・スノーウェル、新マネージャーとして、なんとドン・キングと契約した。
ジム・ジェイコブス、ビル・ケイトン、ケビン・ルーニー、マイク・タイソンは、カス・ダマトを父とする家族だった。
カス・ダマトの死後も一緒だった3人から離れたマイク・タイソンは急激に乱れ始めた。
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ドン・キングは、カス・ダマトが生前、
「絶対に組んではいけないプロモーター」
と嫌っていた男だった。
ドン・キングはロビン・ギブンスを通じてマイク・タイソンに接近したといわれているが、同じゲットー出身という共感性、ヘビー級のトップボクサーの多くがドン・キングの契約下にあり試合が組みやすいという点、また金脈を大事に扱うドン・キングの待遇は破格だった。
儲けられなくなるなればゴミのように捨てるのは目にみえていたが、そんなプロフェッショナル同士のドライな関係は、アスリートにとってはある意味好ましいものかもしれない。
ドン・キングは、多くのトップボクサーと契約を結び、ビックマッチ、統一トーナメント、8大タイトルマッチなどを手がけるやり手と評価される一方、マフィアと繋がり、不正行為、ファイトマネーの搾取、契約違反、金銭トラブルなど悪評も併せ持つプロモーターだった。
ゲットーで育ち、地元の中学と高校を経てケース・ウェスタン・リザーブ大学に進学。
大学中退後、合法、非合法を問わず様々な職を経験し、違法賭博場を開き胴元となり、違法賭博や交通違反などで35回もの逮捕歴を重ね、賭博場に盗みに入ったとされる男を背後から射殺。
この1人目は正当殺人と見なされたが、その後、600ドルを貸していた賭博場の元従業員を踏み殺した。
脅迫や賄賂のせいか目撃者の多くが証言を変えたが、現場を目撃していた巡査が
「キングの横で拳銃を持った男が見守っていた」
「元従業員の男の頭が地面にゴムマリのようにはねるほど頭を強く踏みつけていた」
と証言。
ドン・キングは、、第2級殺人罪で懲役20年の有罪判決を受け、仮釈放されるまで3年11ヶ月を刑務所で過ごした。
出所後、地元に戻り、自宅ベッドへ横たわっていると突如髪の毛が1本ずつ逆立ち始め
「神の啓示を受けた」
「神の啓示以来、髪の毛を切ったりセットしたりしたことはなく、触れることもない」
というドン・キングは、経営危機に陥っていた病院のためにボクシングのチャリティー大会を企画。
モハメド・アリに交渉し、エキシビジョンマッチに出場させ、8万ドルを黒字を出した。
ラリー・ホームズのマネージャー、ドン・バトラーを口説いて共同マネージャーになったり
(2年後には仲たがいしたバトラーから告訴された)
アフリカのザイール(現:コンゴ)の・キンシャサで、モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン戦をプロモート。
圧倒的不利とみられていたモハメド・アリの劇的なノックアウト勝利は「キンシャサの奇跡」と呼ばれた。
フィリピンのマニラでのモハメド・アリ vs ジョー・フレージャー戦、「スリラ・イン・マニラ」もプロモート。
シュガー・レイ・レナード vs ロベルト・デュラン戦で、シュガー・レイ・レナードに1000万ドルを支払った。
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輝きが強い分、その闇は深かった。
モハメド・アリは、ラリー・ホームズ戦のファイトマネーのうち110万ドルが未払いだとしてドン・キングを告訴しようとした。
ドン・キングは、モハメド・アリの旧友、エレミヤ・シャバスに5万ドルが入ったスーツケースと書類を渡し、入院中のモハメド・アリにサインをもらって来るよう頼んだ。
病気を患い金が必要だったモハメド・アリは5万ドルを受け取り、告訴を取り下げるだけでなくモハメド・アリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまった。
モハメド・アリの弁護士は、なんの相談もなくたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。
ラリー・ホームズは、
・ドン・キングが陰のマネージャーとしてファイトマネーの25%を搾取していた上に
・ケン・ノートン戦では契約は50万ドルだったが受け取ったのは15万ドル、アーニー・シェイバース戦の契約は20万ドルだったが受け取ったのは5万ドル、その他、モハメド・アリ戦では200万ドル、テクス・カッブ戦では70万ドル、レオン・スピンクス戦では25万ドル低く支払われ、
・ゲーリー・クーニー戦は200万〜300万ドルが未払い
と合計1000万ドルを騙し取られたとドン・キングを告訴。
ドン・キングは、示談金15万ドルを払い、今後、自身についてネガティブな情報を公表しない事に合意させた。
「俺がボクシングで犯した唯一のミスはキングと契約したことだ。
俺はあいつの中に悪魔をみた。
あいつがあんな変な髪型をしてるのは角を隠すためだ。
あいつから離れようとすると足をヘシ折ってやるとかいって脅されたよ」
(ラリー・ホームズ)
ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングから独占契約を結ばなければボクシング界から追放すると脅され、弁護士の同席を許されないまま4枚の"奴隷契約書"に署名をした。
1枚目は、ドン・キングを独占プロモーターとする契約書。
2枚目は、“表向きの偽物の”契約書で、キングの継息子カール・キングをマネージャーに迎え33%の報酬を支払うとした契約書。
3枚目は、”本当の”契約書でカール・キングをマネージャーに迎え、ほとんどのボクシング・コミッションが定めた上限を超える50%の報酬を支払うとした契約書。
4枚目は、完全に白紙の契約書だった。
ラリー・ホームズ戦の契約は15万ドルだったが、カール・キングが報酬50%とWBCの認可手数料を天引きし、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは5万2750ドル。
グレグ・ペイジ戦は25万ドルだったが、トレーニング経費、スパーリングパートナー代、キングの家族と友人達の飛行機チケット代と試合観戦チケット代を天引きされ、受け取ったのは4万4460ドル。
明記されていたトレーニング費10万ドルは支払われなかったばかりか、モハメド・アリが無料で使ってよいといってくれたジーアレイクのキャンプ地の代わりに、オハイオ州のドン・キング所有のキャンプ地を使うことを強制され、利用料として1日150ドルを徴収された。
この試合でもカール・キングは50%の報酬を受け取ったが、ドン・キング・プロモーションズは33%しか受け取っていないと虚偽の報告をした。
フランク・ブルーノ戦では50万ドルを受け取ることになっていたが、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは9万ドルだった。
(ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングに対し2500万ドルの損害賠償訴訟を起こし最終的に示談金100万ドルを手にした)
ドン・キングは、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされ、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたといわれる。
その他にも、選手の戦績改ざん、八百長試合、ランキングの売買、不正操作でFBIから捜査を受けたり、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されたが、すべて無罪となった。
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1988年7月16日、イベンダー・ホリフィールドがヘビー級で初試合を行い、ジェームス・ティルスを的確なコンビネーションとフックで6R TKO。
10ポンド(4.54 kg)ほどの増量だったため、まだヘビー級としては小柄だったが、クルーザー級時代の硬質でキレのあるパンチとコンビネーション、スピード、回転力は落ちていなかった。
1988年8月、マイク・タイソンは、以前に対戦した(プロ21戦目、判定勝ち)ミッチ・グリーンと路上でストリートファイトし右手を骨折。
1988年9月、マイク・タイソンは、運転していた車を自宅の木に激突させ病院へ担ぎ込まれた。
1988年10月11日、23歳のバーナード・ホプキンスがライトヘビー級でデビューしたが、いきなり負けた。
落胆した彼は1年以上リングへは上がらず、16ヵ月後の2戦目以降は、ミドル級で試合経験を重ねた。
同時期、ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと一緒に出演したインタビュー番組で
「マイクは感情をコントロールできないの。
躁鬱病だから本当に怖い。
怒鳴られ、体を激しく揺さぶられ、押し倒されそうになったり」
と激白し世間に大きな衝撃を与えたが、怒ったマイク・タイソンは自宅で大暴れ。
その後、ロビン・ギブンスがDVを理由に離婚を申請し2人は別居。
離婚協議してる間もマイク・タイソンは
「毎日彼女の家にセックスをしに行ってた」
が、ある日、ロビン・ギブンスがブラッド・ピットがいるところに遭遇した。
「ヤッてる現場を押さえたわけじゃないんだよ。
最中じゃないんだ。
ヤる直前だったんだよ。
離婚弁護士のところに行く前に妻と一発ヤろうと思って家に戻ったんだよ。
オレたちが住んでいた家だしさ。
みんな、離婚前にヤるだろ?
だってまだ正式には離婚してないんだしほかに付き合ってる人がいないんだから溜まった時には家に戻ってセックスするだろ?
まぁ、そういうわけで家に着いたんだけど、誰もいなくて静かなんだ。
そしたらBMWが滑り込んできたんだよ。
すぐに彼女の車だとわかった。
オレが買ってあげたBMWだからね。
助手席に誰かが乗っていて彼女が女友達を連れて来たんだなって思った。
でも違った。
男だったんだ。
激怒したよ。
嫉妬したしね。
今でも少し嫉妬してるくらいだ。
オレをみた彼女はビックリして、『マイク!』って叫んだ。
ヤツはさ、オレをみずに『チィ~ッス』って。
神に助けを求める気分だったね。
これがオレとブラッドとの最初の出会い。
ヤツは真っ青な顔で『お願いだから殴らないでくれ、台本の読み合わせをしていただけなんだよ』って必死に弁解した。
ロビンは、ブラッドが半殺しの目に遭うとおびえていたがオレは殴ろうなんて思っていなかった」
TVシリーズ「Head of the Class」でロビン・ギブンスと共演し、当時、まだほとんど無名のブラッド・ピッドは、彼女と離婚前から90年代前半まで交際した。
マイク・タイソンは、トレーニングでも集中力を欠き、フランク・ブルーノ(イギリス)戦は延期を繰り返し、あれだけ頻繁にリングに上がり続けていたマイク・タイソンが初めてブランクをつくった。
「マイクは至上最高のヘビー級ボクサーとして勝ち続ける事が出来ただろう。 
100戦100勝だって可能だった。
だがマイクは自分自身を最低な連中で取り囲み、連中がマイクの金を使って毎日パーティしてたんだ。
マイクは巨額の金を手に入れていたが、それはジミーとビルのお陰だ。 
彼等がマイケル・スピンクス戦で2千万ドル(22億円以上)という当時至上最高のファイトマネーをマイクに提供するよう話を決めたんだ。
日本でトニー・タブ戦のときは10億円をマイクに提供している。
またマイクは日本でTVコマーシャル出演で、何億円も稼いだ。 
その後マイクはロビン・ギブンズと結婚するがドン・キングがやってきてマイクをかっさらって行ったんだ。
でもマイクには「カスはこんな事教えてくれなかった!」なんてことはいわせないぞ。 
甘ったれちゃイカン!
マイクには最高のチームがついてたんだ! 
自分が最高から最低に転落したからってナイーブに犠牲者ぶっちゃイカン!
それはマイク自身が悪いんであって、すべてマイク自身の責任だ!
マイクは自分自身も傷付けたし、俺やビルを裏切ってドン・キングのところへいってしまった。 
でもマイクはキングにひどい目にあった。 
マイクは自分をトップに連れて行ってくれた人達と一緒に居るべきだったんだよ。 
でもキングを選び、しくじった。
散々キングに絞り取られたがマイクはもう少し相手を選ぶべきだったな」
(ケビン・ルーニ)
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1989年2月14日、マイク・タイソンとロビン・ギブンスの離婚が確定。
結局、1年持たずのスピード離婚でマイク・タイソンは、500万ド(約5億7,000万円)の家と1000万ドル(約11億円)を渡すハメになった。
ロビン・ギブンスは
「金目当てに結婚した悪女」
「白人のイケメンの方がいいわけ!」
「史上最高のビッチ!」
「アメリカで最も嫌われた女性」
と大バッシングを受けて仕事が激減した。
1989年2月25日、8ヵ月ぶりにリングに上がったマイク・タイソンは、開始早々、フランク・ブルーノからダウンを奪ったが、1R終盤、不用意に右フックを大振りしたところに右をもらって一瞬腰が落ちた。
5R、左ボディーから右アッパー連打でフランク・ブルーノを棒立ちにさせ、レフリーに試合をストップさせた。
しかし全体的にフランク・ブルーノを攻めあぐねる展開が続き、スピードや爆発力に欠け、ボクシングが緩慢で雑だった。
「カスが教えたものは何もかも失われていた。
左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・
そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」
(ホセ・トーレス、元ライトヘビー級世界チャンピオン、カス・ダマト門下としてマイク・タイソンの兄弟子に当たる)
「マイクは俺から離れてから頭を動かさなくなった。
マイクについたトレーナーは、俺がやった「マイクの心の中からものをみる」ということをやっていない。
俺は伝説のトレーナーであるカスにコーチを受けたトレーナーだ。
だからマイクは俺のいうことを信じて疑わなかった。
一般の人は何も知らないが偉大なるファイターになるには継続なる自己戒律(忍耐)と反復が必要だ。
ボクシングとは80%が精神的なもので残りの20%程度が肉体の要因となる。 
だから誰でもエクササイズで引き締まった体を得られてもチャンプにはなれないんだ。
マイクが雇ったトレーナー達は何もわかっちゃいない。
マイクは俺に対しては絶対バカなマネはできなかった。 
特にボクシングのスタイルとテクニックにかけてはマイクは一切口答えしなかった。 
マイクに雇われたトレーナー連中はマイクに何をいうべきかわからなかったんだよ。  
俺はマイクをコーチするようになって「頭を動かせ!」というのが口癖になったよ。
でもそれをマイクにいうのは誰にでもできるわけじゃないんだ」
(ケビン・ルーニー)
1989年7月21日、マイク・タイソンは長身でジャブの巧いカール・ウィリアムズを左フック一撃で沈め、1R33秒TKO勝ち。
6度目の防衛に成功。
37戦37勝KO。
試合は短時間で終わったが、マイク・タイソンの動きにかつてのキレがなく、解説の浜田剛史も首を傾げた。
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1990年1月8日、マイク・タイソンは試合のため、東京行きの飛行機に乗ったが、この時点で体重は、いつもの試合時より30ポンド(13.61 kg)重かった。

ドン・キングは、2月11日の試合までいつもの体重に戻っていたらボーナスを出すといった。
相手は、WBA 4位、WBC3位、29歳のジェームス・ダグラス。
3年前、(マイク・タイソンが勝った)トニー・タッカーに10R TKO負けしていた。
1200万円の白のミンクコートを羽織り、取り巻きを大勢引き連れ成田空港に登場したマイク・タイソンは、無数のフラッシュを浴びると笑みをみせ、黒のリムジン6台に乗り込んで消えていった。
その後も、一昨年のトニー・タッブス戦とは違いマイク・タイソンはまともに練習せず遊びまくった。
一方、捨て身のジェームス・バスター・ダグラスは懸命に練習した。
「バスター・ダグラスは大した相手じゃないと侮っていた。
ビデオで試合を観ることさえしなかった。
あいつをKOしてきたボクサー全員に楽勝していたからだ。
アンソニー・ピッツは早起きして俺のスパーリング・パートナーのグレッグ・ペイジと走っていたが、俺はやる気になれなかった。
アーミーブーツに防寒マスクで走り込んでいるバスターをよくみかけるとアンソニーがいっていた」
常に3人のボディーガードを付き添わせたマイク・タイソンはアメリカン・エキスプレスのプラチナカードをみせて
「飛行機だって買えるんだぜ」
といいながらホテルの高級ブティックで買い物にふけった。
練習は、脂肪を燃焼するスープを飲み、ときどきトレーニング場で運動したりスパーリングしたりする程度で、メインのトレーニングは女だった。
たくさんの女性とデートして楽しみ、チップをはずんだ。
前回のトニー・タッブス戦で来たとき知り合い、ロビン・ギブンスが買い物に出かけたすきにデートした日本人女性の部屋にも行った。
「初めて会ってからの2年間で、すごく大人になっていた。」
1990年1月23日、ドン・キングが1人60ドルの有料公開スパーを開いた。
マイク・タイソンはスパーリングでグレッグ・ペイジのパンチをもらいダウン。
周囲は静まり返った。
スパーは2Rの予定だったがトレーナーが1Rで打ち切った。
「俺はあのときは有料だってことさえ知らなかった。
ドンはカンカンだった。
一儲けしたかったんだ。
俺の状態があんなに悪いなんて知らなくて。
ボクシングはズブの素人だったからな。
調子の良し悪しの区別もつかなかった」
そういうマイク・タイソンもスパーリング後、グレッグ・ペイジに
「何やってるんだ?」
といわれた。
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1990年2月10日、試合前日、計量が行われ、ジェームス・ダグラスは105㎏。
マイク・タイソンは100kgで、デビュー以来1番重かったが、それでもボーナスをせしめ、試合前夜だというのに何人もの女と楽しんだ。
「俺は知らなかったが、ダグラスにはこの試合に懸ける理由があった。
1989年の7月、あいつは信仰を新たにし、その後、妻に捨てられ、産みの母親は病気の末期状態に陥り、キャンプ中の1月上旬に亡くなった。
その話は全然知らなかったし、関心もなかった。
HBO(アメリカのケーブルTV)は母親のために戦うダグラスを大きく取り上げていたが、当時の俺の傲慢さを考えると、その話を聞いていたら、母親のところに送り込んでやるとかいっていただろう」
1990年2月11日、試合当日、東京ドームには51600人が入った。
ピッチャーマウンドがリングだとして外野手が守っている位置ぐらいの席が3万円。
20万円のリングサイド席には、次期挑戦者、イベンダー・ホリフィールドもいた。
実業家のドナルド・トランプが、6月にマイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド戦を自らのホテルで開催する予定をしていた。
イベンダー・ホリフィールドは、クルーザー級から転級後、ヘビー級の上位ランカーを次から次へとKO。
「ファイナルチャレンジャー」
と呼ばれていたが、それは
「タイソンを倒すとしたら、この男」
という意味ではなく、
「ホリフィールドをかたづけたら、タイソンにはもう敵はいない」
という意味だった。
試合は生中継アメリカのゴールデン・タイムに合わせるため、前座試合は午前9時に開始され、時間調整のためのアンダーカードも用意されていた。
その前座試合でプロ2戦目の辰吉丈一郎がリングに上がり、バンタム級ノンタイトル10回戦で元タイ王者、チュチャード・エアウサンパンと対戦。
「なんでプロ2戦目で10回戦なんだ」
とヤジも飛ぶ中、辰吉丈一郎はダウンを奪われながら、2R2分18秒、左ボディでKO勝ち。
「何て凄いボクサーなんだ・・・」
観客は大器を感じた。

Mike Tyson vs James Douglas

12時27分、メインイベントのマイク・タイソン vs ジェームス・ダグラス戦のゴングが鳴った。
ジェームス・ダグラスは、筋肉が太い体型ではないが、フットワークは軽く、リーチが長く、ジャブはスピードがあり、ロングレンジからジャブジャブ右ストレートというボクシングスタイル。
ニックネームは「Buster"(バスター、破壊者)」
しかし37戦33勝33KOの「Iron」が早い回でKOしてしまうと誰もが思っていた。
マイク・タイソンは両拳を顎に当てピーカブースタイルで構えたが、小刻みな頭の動きはなく、踏み込みが甘く、逆に身長で13㎝、体重で5kg、リーチで31cmセンチ上回るジェームス・ダグラスの左ジャブ、右ストレートをがヒット。
ジェームス・ダグラスは、左ジャブを間断なく突いて右ストレートを当てていき、マイク・タイソンが接近するとクリンチでしのいで、左右のフック、右アッパーを命中させていく。
5R、マイク・タイソンの左目が腫れ上がった。
しかし誰もがマイク・タイソンの逆転を信じて疑わなかった。
そしてそれは突然やってきた。
8R、残り5秒、勝利を意識したのか、この試合で始めて強引に攻めに出たジェームス・ダグラスの顎を、ロープへ詰められたマイク・タイソンがもの凄い右アッパーでとらえた。
ジェームス・ダグラスの顎が跳ね上がり背中からダウン。
それまで沈黙していた東京ドームは鬱憤を晴らすかのような大歓声に包まれた。
ダウンと同時にリング下のタイムキーパーがカウントを開始。
レフリーはこれに合わせなければならないが、キーパーがカウント「4」に差し掛かろうというとき、メキシコ人レフリーのオクタビオ・メイランは、なぜか「1」から数え始め、「5」といったとき、ジェームス・ダグラスは8秒間倒れていた。
ロングカウントだった。
ジェームス・ダグラスは片膝をついたまま少し息を整え、カウント「9」で立ち上がった。
倒れてから13秒が経過していたが、そのままラウンド終了のゴングに救われた。
ドン・キングは
「今のはノックアウトだ!!」
とWBAやWBCの会長が陣取る席にいき大声で訴えた。
9R、マイク・タイソンはゴングと同時につめ寄ったが、パンチが続かず仕留められなかった。
逆にジェームス・ダグラスが猛然と打ち返し、マイク・タイソンがロープに釘付けにするとドームに悲鳴に起きた。
これまでダウンを知らないマイク・タイソンは、足元をグラグラと揺らせながら何とかゴングに救われた。
10R、、1分過ぎ、ジェームス・ダグラスがアッパーでマイク・タイソンは顎を跳ね上げられ、続いて顔面に無情の拳が突き刺さると背中からゆっくりと倒れていった。
「ドーンッ」
口からマウスピースがこぼれ落ちた。
5万人は声を失い、誰もがもう立ち上がれないと思った。
マイク・タイソンは混濁する意識の中で左手でキャンバスを掴むと膝をつき、這ったままマウスピースを探すと、それを右のグローブで掴み、咥え、立ち上がろうとした。
なぜ、立てるのか。
なぜ、立とうとするのか。
KOだけではない、もう1つのマイク・タイソンの戦慄シーンだった。
ようやく立ち上がったとき、すでにカウント10を数え終えたレフリーはマイク・タイソンを抱きかかえ、手を大きく振った。
隣でジェームス・ダグラスが拳を突き上げた。
10R 1分23秒、TKO負け。
マイク・タイソンは、無敗記録を止められた上、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルも失った。
ボクシングの神様は敗者を容赦しなかった。
大番狂わせに、リングサイドにいたイベンダー・ホリフィールドも驚きを隠せなかった。
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13時に試合が終わった後も、ドン・キングは
「レフリーのミスは明らかだ!
マイクの8R KO勝ちだ!」
と白髪を天に向かって逆立てまくし立てていた。
IBFはジェームス・ダグラスを新チャンピオンを認めたが、WBAとWBCは
「タイソン側から8ラウンドのレフリーのカウントに疑義があったという提訴を受けた。
その結論が出るまで、誰が新チャンピオンなのかはいえない」
と勝敗を保留した。
(3日後に認定)
オクタビオ・メイランは、WBCの母国、メキシコを代表するレフリーだった。
シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、アレクシス・アルゲリョ、マービン・ハグラー、ウィルフレド・ゴメス、アズマー・ネルソン、マッチョ・カマチョ、数々の有名選手の世界戦を担当し、WBCの終身会長であるホセ・スライマンからの信頼も厚かったが、リングを下りた後、東京ドームの控え室で
「お前のせいで2億ドルのファイトがパーになってしまったぞ」
と怒鳴られた。
「2度とあのレフリーを世界タイトルマッチで使うな!」
ドン・キングもすごい剣幕だった。
ドナルド・トランプには何もいわれなかったが、
「きっと彼は私が英語がよくわからないと思ったんじゃないかな」
そういうオクタビオ・メイランは宿泊先のホテル・ニューオータニでもホセ・スライマン会長に罵られたが
「自分のレフリングは間違っていない」
と謝罪はしなかった。
もしマイク・タイソンが勝っていれば2億ドル(220億円)のビジネスといわれたイベンダー・ホリフィールド戦が実現し、ドン・キングやドナルド・トランプは潤い、WBCも承認料もらえるはずだった。
オクタビオ・メイランは、この後に世界タイトルマッチに登場することはなかった。
1度だけライセンスを発行してもらいWBOのフライ級の世界戦を裁いたが、1993年までメキシコシティで定期ファイトを受け持ち、ボクシングとの関係を断った。
「もしあの試合で私に過失があったとすれば、起き上がったダグラスのグローブをシャツで拭かなかったことだ」
そういうオクタビオ・メイランの誤審も大変なことだったが、ファンにとって最大の問題はマイク・タイソンが弱くなっていたということだった。
プロ5年目、38戦目で初めて負けたマイクタイソンのを味わったタイソンの左目は完全に塞がっていた。
ヘビー級では小柄なマイク・タイソンが、トレーニング不足(アンダーワーク)やオーバーワークでコンディションが崩せばかんたんに負けてしまう危険があったが、実際、フィジカルもボクシングも衰え、無敵のピーカーブースタイルは相手に突進するだけブルファイトスタイルになっていた。
試合後、ホテルニューオータニのロビーは前日までの騒ぎがウソのように静かだった。
「See you・・」
左目にガーゼが当てたマイク・タイソンは、少なくなった報道陣にマスコミに対してポツリといって去っていった。
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1990年6月16日、東京ドームでの衝撃の敗戦から4ヵ月後、マイク・タイソンがタイトル奪回を目指して再起。
アマチュア時代、ロサンゼルスオリンピックの国内予選決勝戦で敗れたヘンリー・ティルマン を1RKO。
1990年10月25日、WBA・WBC・IBF世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・ダグラスにイベンダー・ホリフィールドが挑戦。
イベンダー・ホリフィールドは、、ヘビー級転向後、5戦5KO。
WBA、WBC、IBFのいずれも世界1位にランクされていた。
ピンクロン・トーマス、マイケル・ドークスと、2人の元世界チャンピオンも破り、クルーザー級時代から通算すると23戦23勝19KO。
試合前、マイク・タイソンはインタビューで勝者を予想した。
「あいつ(ジェームス・ダグラス)は実力もないくせにチャンピオンぶっている。
間抜けな犬のような奴だ。
ホリフィールドが勝つだろう」
8ヵ月前、マイク・タイソンに勝ったときとは別人のような肥満体でリングに上がったジェームス・ダグラスは、ギリシャ彫刻のような体をしたイベンダー・ホリフィールドに押された。
イベンダーホリフィールドにはスキがなく、パンチは重く硬く強く速かった。
3R、ジェームス・ダグラスが上体をグッと沈めて右アッパート。
イベンダー・ホリフィールドは、それを最小限のバックステップでかわし、後ろ足を着地と同時に踏ん張って右ストレート。
大きなアッパーの空振りで無防備になったところに右ストレートをもらったジェームス・ダグラスはダウン。
東京ドームでマイク・タイソンを番狂わせで破って4ヵ月、1度も防衛はできなかった。
イベンダーホリフィールドは、ヘビー級転向後、6連続KO勝利でWBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
しかし
「タイソンを倒してないから本物のチャンピオンじゃない」
と世間の評価は低かった。
「みんな彼こそ真のチャンピオンと思っていた。
実際は俺もベルトを獲得したのに」
イベンダー・ホリフィールドは怒りをこらえ、マイク・タイソン戦に向けて準備を続けた。
一方、ジェームス・ダグラスとの雪辱戦を望んでいたマイク・タイソンのターゲットは、イベンダー・ホリフィールドに変わった。
1990年12月25日、マイク・タイソンがアレックス・ステュワートを一方的に攻めまくって1RTKO。
1991年、3月18日、マイク・タイソンがドノバン・ラドックを7RKO。
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