マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド  不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。
2021年1月7日 更新

マイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド 不遇の黒人たちがボクシングに活路を見出し、アメリカの過酷な環境が最高のボクサーを産んだ。

マイク・タイソン、イベンダー・ホリフィールド、リディック・ボウ・・・ 1980~90年代、アメリカのボクシングは最強で、無一文のボクサーが拳だけで数百億円を手に入れることができた。しかしボクサーはお金のためだけにリングに上がるのではない。彼らが欲しいのは、最強の証明。そして人間は考え方や生き方を変えて人生を変えることができるという証だった。

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2002年1月、ニューヨーク市内のホテルで、WBC、IBF世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスにマイク・タイソンが挑戦することが決まり、記者会見が行われた。
先に全身黒ずくめのマイク・タイソンが入場し、壇上に立った。
そして次にレノックス・ルイスが入場し壇上に立つと、突然、マイク・タイソンが壇上から下りてレノックス・ルイスに向かって歩き出した。
詰め寄ろうとするマイク・タイソンにレノックス・ルイスボディーガードが反応し、壁となって押し戻そうとした。
それにキレたマイク・タイソンが左フック。
よけながら倒れるボディガードの後ろからレノックス・ルイスが右ストレート。
これがかすってマイク・タイソンが額から流血。
両陣営と関係者、20人以上が入り乱れての大乱闘に発展。
マイク・タイソンはレノックス・ルイスの脚に噛みつき歯形を残し、立会人のWBC会長、スライマンは乱闘に巻き込まれて失神し病院送りになった。
乱闘が収まり、呆然と立ち尽くすマイク・タイソンにヤジが飛んだ。
「オマエは何しに来たんだ!」
「何しに来ただと?
オレはただ偉大なチャンピオンに挨拶したかっただけだ!」
そして引き上げるレノックス・ルイスを放送禁止用語をまじえて罵った。
2002年1月29日、ネバダ州アスレティックコミッションの公聴会が開かれた。
ネバダ州のコミッションは試合中にマイク・タイソンがイベンダー・ホーリフィールドの耳の一部を食いちぎった件で、実質1年間の無期限出場停止処分をタイソンに下したことがあったが、今回も5人のコミッショナーによって審議される聴聞会が開かれ、マイク・タイソンも召集された。
2002年6月5日、試合3日前、マイク・タイソンの公開練習が行われたが、内容は、ぶら下がったヘッドスリップバッグを2回、もう2回ウィービング練習だけだった。
記者会見はキャンセルされたが
「5R以内のKO」
を予告した。
レノックス・ルイスも5R以内のKOを予告し、ナックルの薄いREYESグローブを選択した。
2002年6月6日、テロに備えてなのか、1月の記者会見の乱闘事件のためなのか、計量会場がものものしい雰囲気に包まれた。
警備は過去にないほど厳重で会場には2重3重のチェックポイントが設けられ金属探知機まで出動した。
計量は両者のトラブルを避けるため、
レノックス・ルイスが12時から、マイク・タイソンは15時から行われ、

レノックス・ルイス 249 1/4(113kg)
マイク・タイソン 234 1/2(106.5kg)

マイク・タイソンのトレーナー、ロニー・シールズ・トレーナーが、
「計量前量ったとき、229ポンドだった。
おかしい」
とマイク・タイソンが去った後、秤を点検した。

Mike Tyson Vs Lennox Lewis Highlights | A devastating knockout victory!!!


2002年6月8日、ロックンロールの伝説的スーパースター、エルビス・プレスリーが誕生した聖地、テネシー州メンフィスのザ・ピラミッドで、WBC、IBF世界ヘビー級チャンピオン:レノックス・ルイス vs マイク・タイソンが行われた。
両者の報酬が最低で約22億円ずつ。
アメリカでのPPV視聴料金は約7千円で60万件予約があり、最終的には100万件を超えると予想された。
リングサイドチケットが約30万円。
天文学的な金額が並ぶが、驚くべきはチャンピオンと挑戦者のファイトマネーが同額であること。
やはりマイク・タイソンの人気はズバ抜けていた。
対するレノックス・ルイスも、1990年代最強ヘビー級ボクサーという声もあった。
身長196cm、リーチ208cm、という大きな体と長いリーチを最大限に活かし、教科書のようなオーソドックススタイルでクレバーに戦う上、パンチ、スピード、パワー、テクニックを兼ね備えていた。
36歳独身で母親の手料理を好み、趣味はチェス。
トラブルとは無縁の「理想的アスリート」
最少年ヘビー級王者になるも怠惰により陥落し、レイプ事件、耳噛み事件リングの中でも外でも野獣そのものの「惑星最悪の男」、マイク・タイソンは180cmとヘビー級では小型。
歴代ヘビー級チャンピオンで、身長6フィート(約180cm)未満は僅か6人で、1973年のジョー・フレジャー以降はマイク・タイソンだけ。
2人は好対照だった。
1R、マイク・タイソンはいきなり攻めていった。
頭を左右に振り、ダブルジャブから危険な距離に飛び込み左フック。
レノックス・ルイスは上体が立ってしまい、真っすぐに下がってしまい、たまらず抱きつき196cmの身長を使い180cmの男を上から押さえつけた。
2R、レノックス・ルイスが伝家の宝刀を抜いた。
懐に飛び込もうとするマイク・タイソンに強烈な右アッパー。
この一撃が勝負の一打となった。
アッパーを喰らったマイク・タイソンの動きはパタッと止まった。
それ以後何かを考えているように一瞬遅い、迷ったような動きを繰り返した。
レノックス・ルイスの右アッパーにより警戒心が煽られ迷いながらのボクシングをするようになったのだ。
懐に飛び込むことだけでなく、頭を振ることも忘れてしまい、それからはラウンドを追うごとにレノックス・ルイスのリズムが良くなる。
マイク・タイソンは相手の正面に立ち、戸惑っているうちに攻撃をモロに受け続けてしまう。
196cm、113kgのジャブの威力は想像以上だろうが、マイク・タイソンはなす術なくもらい続けた。
レノックス・ルイスはあくまで慎重で絶対に深追いしない。
ジャブ、右ストレート、右アッパーでいたぶり続けた。
6R、マイク・タイソンの足がフラつき、得意の踏み込みも強烈なパンチも出せない。
左右の目尻をカットし、左瞼大きく腫れ、鼻からは血が滴り落ちている。
8R、マイク・タイソンは、左右の瞼が腫れ上がり視界は奪われている
レノックス・ルイスは猛攻を仕掛け、マイク・タイソンをサンドバッグ状態にして、右アッパーで、この試合初めてのダウンを奪った。
何とか立ち上がるマイク・タイソン。
頭を左に避けるように動かした瞬間、レノックス・ルイスの右フックを顎にモロにもらって、顔を反対方向に捻じ曲げられ、静かに崩れた。
再び立ち上がろうとするマイク・タイソン。
レフリーのカウントに反応するのではなく本能のみで立ち上がろうとするが、無情にもカウントは進み、8RKOで試合は終わった。
世界中のボクシングファンが待ち望んだヘビー級最強決定戦はレノックス・ルイスの圧勝だった。
「あと2、3試合してからルイスと戦いたかった。
挑戦を受けてくれたルイスに感謝する」
試合後のインタビューも優等生発言に終始したマイク・タイソンにかつてのパワーは感じられなかった。
試合後、レノックス・ルイスは引退を示唆。
マイク・タイソンに勝ってすべてを達成したと考えているのかもしれない。
実際は、もう1戦(6R TKO勝ち)して、2004年に引退。
ヘビー級で世界チャンピオンのままでの引退は、ロッキー・マルシアーノ以来だった。
2002年12月14日、40歳のイベンダー・ホリフィールドが、オリンピック銀メダリストでサウスポーのアウトボクサー、クリス・バードと空位のIBF世界ヘビー級タイトルを争った。
クリス・バードが持ち前のスピードを生かして間合いを取りまくり、イベンダー・ホリフィールドはその動きについていけず判定負け。
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2003年6月、新しく左目周りにニュージーランドのマオリ族の刺青を入れたマイク・タイソンが暴行容疑で逮捕。
8月には、連邦裁判所に自己破産を申請。
アメリカでは、よく映画スターやアーティストの巨額浪費、そして破産が報道されるが、スポーツ界でもスター選手は引退後、70%以上の確率で破産するといわれている。
その原因は、稼ぐ以上に使ったからで、たとえ100億円あろうと年20億円を使っていたら5年で破産するしかないが、年収300万円でも、年間100万円しか使わなかったら200万円残る。
欲望をコントロールすることができるか否かなのだ。
マイケル・ジャクソンは、負債額400億円以上。
エルトン・ジョンの総資産は、200億円以上だが、2001年に破産。
ビリージョエルは、稼いでは破産、稼いでは破産という破天荒な人生を送っている。
マービン・ゲイは、現役時代から浪費や離婚で財産が吹き飛び、ドラッグに溺れて隠遁生活を余儀なくされて、最後は父親に撃ち殺された。
ニコラス・ケイジは、破産寸前。
ジョニー・デップは、生活費が月2億円を超え、破産に追い込まれる確率大。
フロイド・メイウェザー(ボクサー)のあだ名は「マネー」。
貪欲にカネを稼ぐことで有名なのだが、稼いだカネをやはり使い果たし、税金滞納や債権の未払いな金銭トラブルがついて回っている。
不動産王としてビジネス的に大成功を収めていたドナルド・トランプも、離婚訴訟や不動産不況による事業の失敗で、凄まじい額の財産を失った経験も持ち、過去に4回も破産申請した経験がある。
マイク・タイソンが現役中に稼ぎ出した金額は約4億ドル(410億円)ともいわれているが、使い果たした。
世界で73台しかない、ウールの絨毯、電話、取り外し可能なガラスルーフを装備した420馬力のベントレー コンチネンタルSCを50万ドルで買うなど車やバイクにだ450万ドルを使い、200万ドルの浴槽、14万ドルで2匹のトラ、遊園地や動物園を貸し切るなど派手に浪費し、ドラッグと娼婦にもとんでもない額をつぎこみ、訴訟、横領などもあった。
そしてロールスロイス(1600万円)、ダイヤの指輪(19億5000万円)、ジェット機(44億円)などを差し押さえられ、それでも元妻への慰謝料900万ドル、アメリカ、イギリスでの税金の滞納1340万ドルなど約2700万ドル(28億円)の支払いが残った。
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2003年10月、イベンダー・ホリフィールドが、ミドル級、スーパーミドル級、クルーザー級、3階級を制覇しヘビー級に上げたジェームス・トニーとのノンタイトルマッチで、9Rにダウンし、タオルが投入されてリディック・ボウに負けて以来のKO負け。
2004年4月15日、マイク・タイソンがK-1の試合出場契約を結んだが、薬物犯罪者は日本に入国できないため、日本での試合は不可能だった。
2004年7月30日、マイク・タイソンが1年半ぶりの復帰戦となるダニー・ウィリアムズとのノンタイトルマッチに臨んだ。
1R、マイク・タイソンは試合開始から積極的に攻め、強烈な左右のパンチを顔面、ボディーへと打ち込み、何度もダニー・ウィリアムズをフラつかせた。
しかし1R終盤、膝の靭帯を断裂。
その後は失速し次第に後退する場面が多くなった。
4R、マイク・タイソンはダニーウィリアムズの20発以上のラッシュをまともに受けグロッキーとなり、最後は右フックを浴び、腰からダウン。
ロープにもたれたままテンカウントを聞いた。
2004年9月18日、WBA、WBC、WBO、IBF統一世界ミドル級チャンピオン、バーナード・ホプキンスが、「ゴールデンボーイ」、WBO世界ミドル級世界ヘビー級チャンピオン、オスカー・デ・ラ・ホーヤと対戦。
9R1分38秒、それまでKO負けがなったオスカー・デ・ラ・ホーヤを左ボディ1発でノックアウト。
史上初、主要4団体の王座を統一し、WBA、WBC、WBO、IBF統一世界ミドル級チャンピオンとなった。
2004年11月13日、イベンダー・ホリフィールドがラリー・ドナルドと空位のNABCヘビー級王座をかけて対戦。
ラリー・ドナルドは世界タイトルマッチの経験がない、いわゆる格下の選手だったが、全盛期とは程遠い動きのイベンダー・ホリフィールドは被弾を重ね判定負け。
これで3連敗となった。
2004年12月、マイク・タイソンが器物損壊容疑で逮捕。
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2005年6月12日、約1年ぶりの再起戦となるマイク・タイソン vs 元アイルランド・ヘビー級チャンピオン、ケビン・マクブライド戦が行われた。
リングアナウンサー、ジミー・レノン・ジュニアは、マイク・タイソンを
「ロンリー・アイアン(孤独の鉄人)」
とコール。
1R、ケヴィン・マクブライドは、198cm、123kg、マイク・タイソンとのリーチ差は23cm。
その長い先制のリード2発をマイク・タイソンはダッキングでかわした。
2R、マイク・タイソンのパンチ力は健在。
左を振って飛び込んで左のアッパーから左右のフック、さらに左ボディー。
クリンチに逃げるケヴィン・マクブライドに左。
ケヴィン・マクブライドは右のアッパーで応戦。
マイク・タイソンも応戦し左が肘打ち気味に入る。
3R、マイク・タイソンは突進から左アッパー。
ケヴィン・マクブライドはクリンチで逃げたが、マイク・タイソンは、その左腕をつかんで左で顔面を叩き、さらにボディーを狙って突進。
ケヴィン・マクブライドはクリンチで逃げた。
4R、マイク・タイソンは、突進から左、右の連打で、ケヴィン・マクブライドを棒立ちにさせ、さらに左ボディー、左アッパー。
観客は総立ち。
さらに左アッパーから右のボディー。
ケヴィン・マクブライドはクリンチ。
マイク・タイソンは右ボディー、左アッパー、ボディーの連打。
ケヴィン・マクブライドはクリンチ。
マイク・タイソンは顔面をガッチリ固めた相手に右フック、左ボディー。
5R、突進するマイク・タイソンにケヴィン・マクブライドはクリンチで逃れ、右のショートをヒットさせた。
マイク・タイソンは左アッパー、左肘打ち(反則)、さらに頭突き(反則)を突き上げた。
ケヴィン・マクブライド、左ボディーから左フックを顔面に。
マイク・タイソンも左ボディー、さらに右も放ったが、ケヴィン・マクブライドにクリンチされロープに押し込まれた。
マイク・タイソン優勢だったが、動きが止まった。
足が動かなくなり、終始守勢だったケヴィン・マクブライドがマイク・タイソンをロープに詰め、巨体を上から覆い被さるように連打。
マイク・タイソンは危なかったがゴングに救われた。
6R、マイク・タイソンはラッシュしたが、脚が動いておらず、ケヴィン・マクブライドは例の如くクリンチで逃れ、さらに至近距離からパンチを打っていく。
マイク・タイソンは腕を極め関節技で反撃。
ケヴィン・マクブライドは悲鳴を上げた。
さらにクリンチにきたところをバッティング(頭突き)
これが「故意」と判定され減点2。
ケヴィン・マクブライドは流血。
マイク・タイソン、起死回生の大きな右を空振り。
ケヴィン・マクブライドは懲りずにクリンチにいき、再度、腕を極められ悲鳴。
残り30秒、マイク・タイソンは脚が動かず、棒立ちになり、左右の連打を頭部に食らい、さらに棒立ち。
マクブライドは攻勢をかけながらもクリンチ。
アッパーを突き上げ、ロープに押し込み、左右の連打。
棒立ちのマイク・タイソンはロープに詰まり、巨体に上からのしかかられ、連打を食らい、瞬間、崩れ落ちた。
レフリーはスリップと判定。
ここで6R終了のゴング。
7R、セコンドがストップを促し、マイク・タイソンもれを受け入れ、ゴングが鳴っても出ていかなかったため、レフリーは試合終了させた。
マイク・タイソンの7R TKO負けだった。
試合後の会見で引退を示唆した
「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」
予期していたこととはいえボクシングファンにとって寂しいことだった。
ボクサーは、引退後、やることがない。
職業的なスキルがないため、輝かしい戦績を誇り絶大な人気を持ったボクサーがカジノの用心棒になったり、苦労を重ねてチャンピオンになったが引退して無一文になることは珍しくなかった。
「その後(刑務所から出た後)の7、8年はメチャクチャだった。
ボクシングに希望を見出せなかった。
引退瞬間は最高だった」
そういうマイク・タイソンはそういったが、現役引退後、アルコール、麻薬、セックスと快楽に溺れ、生活はますます滅茶苦茶になっていた。
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2005年7月16日、バーナード・ホプキンスがジャーメイン・テイラーに、ロイ・ジョーンズ・ジュニア戦以来、12年ぶりの敗戦。
WBAは7度目、WBCは8度目、IBFは21度目、WBOは2度目の防衛に失敗し、王座から陥落。
2005年8月末、マイク・タイソンはラスベガスのアラジン・ホテル&カジノでボクシングの公開練習を行った。
「あれはおいしい仕事だった。
ホテルから立派なスイートをあてがわれ、ボクシング用リングを設置した部屋で練習していると、カネを払ってくれたんだ。
ホテルを通り抜けていく何千人もの人たちが、スパーリングをしたりヘビーバッグを叩いている俺をみていった。
好きな食べ物をなんでも無料でもらえたから、
『会いに来いよ。
ここに1ヵ月いるんだ。
何を注文してもビッチ(売女、この場合、ホテルのこと)持ちだぞ、ニッガ(兄弟)』
といっていろんな友達を呼んだ。
この頃からコカインの入手が難しくなってきた。
街にコカインがなかったわけじゃない。
売人たちが提供を渋るようになったんだ。
持ってくるといっても必ず遅れたし辛抱できずハンバーガー屋で手に入れることもあった。
日照り状態はスラム街で始まった。
まずウエストサイドの酒場がトイレに入れてくれなくなった。
次に売人たちが提供を断るようになった。
やむを得ず、ザ・ストリップの白人たちに声をかけた。
カジノで客を迎え入れるグリーターやクラブのドアマンたちは、みんなコネを持っていた。
懐が寂しくなってくると、まだ売ってくれていた数少ない売人に無理強いするようになった。
ある日、1人の売人が助けを求めてきた。
『なあ、マイク、助けてくれないか?
頼むから、クロコダイル(マイク・タイソンの元トレーナーで友人)にカネを払うよういってくれ。
あいつにコカイン全部渡しちまったんだ』
この話を俺にしたのが運の尽きだ。
クロコダイルが払わないなら俺だってそうしていいはずだ。
『いいとも、クロコダイルに話してやろう。
ただし、手持ちのブツを今よこせ』
そいつの手からコカインをひったくった。
『まずいよ、ボスに殺されちまう。
少しはカネを持ち帰らないと』
『お前のボスは別のやつから回収すりゃあいい』
『まずいよ、あんたからもらわないと』
『なら、俺のところへ相談に来いとボスにいえ。
おい、人を中毒にさせといて、こんどはカネを請求するのか?
俺はお前ら売人のせいでコカイン中毒になったんだぞ』
カネがなくなるとコカインを扱う大物たちが住むサマリン(ラスベガスの西)に車で向かった。
彼らの大豪邸で会い、いっしょに写真を撮ったりコカインのラインをつくって吸ったり、何時間か一緒に過ごした。
値段をいわれたときは、こう切り返す。
『おい、一体どういうことだ?
本気でこの麻薬を売りつける気か、ブラザー?
1日中、俺と遊んでおいて、その上まだカネを払わせるのか?』
『わかった、持ってけ』と最後に彼らはいった。
コカインは悪魔だ。
その点は疑いの余地がない。
俺はずっと女にはフェミニストだった。
金欠のときだって夕食代を払わせたことなんて1度もなかったんだ。
なのにコカイン代に事欠くようになると女友達の落としたカネを拾ってポケットに入れた。
あんなみじめな気分はなかったな。
これ以上、悪魔と戯れたくなかったが、向こうはまだ戯れたがっていて、これでおしまいといってくれない」
2005年12月3日、バーナード・ホプキンスがジャーメイン・テイラーとのダイレクトリマッチで0-3の判定負け。
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2006年10月20日、マイク・タイソンがコーリー・サンダースとエキシビション・マッチを行った。
コーリー・サンダースはヘッドギアを着用したが、マイク・タイソンは着用しなかった。
「極貧に耐えられず、とうとうオハイオ州のヤングスタウンまで出向いて、昔のスパーリング・パートナー、コーリー・サンダースと4Rのエキシビション・マッチをやった。
プロモートしたのはスターリング・マクファーソンという元ボクサーだ。
スターリングは6000席の会場で25ドルから200ドルのチケットを4000枚売って、ペイ・パー・ビューにも29ドル95セント課金していたのに、俺は支払いを受けた覚えがない。
だが体を動かしていれば麻薬から抜けられると思った。
世界中でこのエキシビション・ツアーをやれば、たんまり儲かるかもしれないとスターリングはいっていた。
試合は大失敗だった。
コーリーは俺より50ポンド近く重い292・5ポンドでやってきた。
ヘッドギアを着用したコーリーに観衆はブーイングを浴びせた。
試合開始。
1Rでいい1発が入ってコーリーをダウンさせた。
3Rと4Rにも相手を窮地に立たせたが、無理に追わなかった。
痛めつけたい気持ちはなかったからな」
このエキシビジョンは当初、「マイク・タイソン・ワールド・ツアー」として世界中を回る予定だったが、この1試合で終了した。
「エキシビションが終了するなりラスベガスへ戻り、それまでにも増してハイになった。
ある晩、街へ出かけたら、何年か前にニューヨークのベントレーというクラブで俺に銃を突きつけたやつにばったり出くわした。
クラブで俺をみかけたが、ひどいみてくれでかわいそうになったという。
「大丈夫か、おい?」とそいつにまで同情されちまった。
この頃にはコカインのやりすぎで鼻がボロボロになっていたから煙にして吸い始めた。
クラックじゃなく普通の粉状コカインに煙草の葉を混ぜて。
ブルックリンの子ども時代はよくそうやっていた。
コカインを鼻から吸っているやつらはみんな、コカインの喫煙をみるといやな顔をした。
コカインを燃やすとこの上なくいやな臭いがする。
プラスチックと殺鼠剤をいっしょに燃やしているみたいな臭いがするんだ。
友達の1人からいわれたことがある。
何かについて知りたいときは火であぶってみろ。
火はすべてをあぶり出すと。
どこかのロクデナシのことを知りたいときはケツを火であぶってみろってことだ。
コカインを火であぶると何でできているかよくわかる。
あれの毒素、麻薬成分が立ちのぼってひどい臭いがするんだ。
麻薬をやりまくり売春婦を連れ込みまくっていたこのとんでもない時期は、毎日頭にカスの声が聞こえていた。
しかし生身のカスがいるわけじゃない。
声には耳を貸さなかった。
当時は生きることなんて二の次だった。
今は生きていたいと真剣に願っているよ。
だがあの頃の俺にはなんの意味もないことだった。
20歳でチャンピオンになったときには友達の多くが死んだり破滅したりしていたんだからな。
この頃はコカインに陶酔感なんてなく、ただ鈍い痺れに身をまかせていた。
もはやコカインをやりながらセックスすることもなくなっていた。
ときには女を同伴することもあったが、もうセックスのためじゃなくくつろぐためだった。
とんでもない暮らしだった。
ある日、掃き溜めみたいなところで街娼を口説いて、コンドームも着けずにセックスしようとしていたかと思えば、次の晩は、顔に楽しげな表情を貼りつけてベル・エアで裕福な友人たちとユダヤ教のロシュ・ハシャーナ(新年祭)を祝っていたりする。
『死ぬまでこれをやるぜ、ベイビー。
もうこれ以上遊べないってところまで遊び倒してやる』
なんていっていた。
もちろん、ただのハッタリだ。
ジャッキー・ロウが薬物のことで説教しようとしても、こっちは『俺を愛してるなら、こいつをやらせてくれ』の一点張りだ」
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マイク・タイソンは、女医のマリリン・マレーとランチを食べていた。
マリリン・マレーは、パーティーでマイク・タイソンと知り合い、依存症の話を聞いて更生(リハビリ)施設へ入ることを勧めた。
マイク・タイソンは、別の席に好みの女性がいたため、彼女の食事代を持つとウェイターにいうと、女性は電話番号を教えて去っていった。
彼女が立ち去った後、マリリン・マレーはいった。
「賭けてもいいわ。
あなたは絶対、更生(リハビリ)施設に6週間いられない」
「バカいっちゃいけない。
6週間くらい屁でもないさ。
俺は意志が強いんだ」
ちょうど6週間、イギリスへ懇親会(ミート&グリート)ツアーが決まっていたので
「アメリカに戻るまでに準備を整えよう」
とツアー中は麻薬を断つことに決め、コカインもマリファナも酒も断った。
最初の2週間くらいは完全に正気を失った。
ホテルの部屋を壊し半狂乱になったが、それでも麻薬には手をつけず、アメリカに戻ったときは、すっかりクリーンになっていた。
そしてマリリン・マレーに連れられて、アンガー・マネージメント(怒りや苛立ちを管理すること)とセックス依存症治療の施設、「ザ・メドウズ」にいった。
「中に入った途端、更生施設じゃなくて刑務所じゃないかと思ったよ。
厚顔無恥なうさん臭いやつらから質問攻めに遭った。
『どれくらい前から麻薬をやっていますか?』
『どんな麻薬を使ってきましたか?』
『麻薬を使用するきっかけになったのは、どういう状況でした?』
『子供の頃はどんな家庭生活を送っていましたか?』
『ひょっとしてあなたは同性愛者ですか?』
チキショウ、気に障る質問をとめどなく浴びせてきやがる。
見ず知らずのやつにこんなにズケズケ質問されて答えると思っているのか。
自分の本性や悪魔たちとの関係に取り組むなんて真っ平ごめんだ。
人の頭に勝手に入り込みやがって。
どいつもこいつも、いいかげんにしろ。
偉そうな口叩くんじゃねえ。
白いゴミ野郎が。
そういって、次の日には出ていった」
2006年11月10日、44歳のイベンダー・ホリフィールドがUSBA王座決定戦でフレス・オケンドと対戦。
リーチが200㎝以上あり遠い間合いを保つフレス・オケンドリーチに対してイベンダー・ホリフィールドは接近戦で対抗。
1Rにダウンを奪うなどして判定勝ちしUSBA世界ヘビー級チャンピオンになった。
イベンダー・ホリフィールドは次戦でビニー・マダローンを3R KO。
さらにルー・サバリースにも判定勝ちし、45歳にして世界タイトルマッチを迎える。
2006年12月29日、マイク・タイソンが自動車でナイトクラブから帰宅する途中、パトカーと衝突しかけ、取り調べを受け、飲酒運転およびコカイン使用が発覚し逮捕された。
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2007年2月28日、イベンダー・ホリフィールドが偽名を使ってヒト成長ホルモン(hGH)などの違法ステロイドを扱うアラバマ州の薬局を利用していた事が発覚。
公開された文書には「エヴァン・フィールド」の偽名で記載されており、生年月日がイベンダー・ホリフィールドとまったく同じで住所もほぼ一致し、テストステロンやヒト成長ホルモン(hGH)、サイゼン、注射器など違法ステロイドの購入履歴が残っていて、記者がエヴァン・フィールドの連絡先へ電話をかけるとイベンダー・ホリフィールド本人が電話に出た。
イベンダー・ホリフィールドは父親の薬を購入していたとして、ヒト成長ホルモンなどの使用を否定した。
2007年9月、フロリダ州で違法ステロイドを販売していた薬局が摘発され、イベンダー・ホリフィールドが同薬局を利用していた事が発覚。
2007年10月13日、45歳のイベンダー・ホリフィールドがWBO世界ヘビー級チャンピオン、モスクワでスルタン・イブラギモフに挑戦。
スルタン・イブラギモフは、オリンピック銀メダリストでサウスポーのアウトボクサー。
止まることなくステップを踏むスルタン・イブラギモフの動きにイベンダー・ホリフィールドはついていけず、0-3で判定負けしたが、12ラウンド戦えることを示した。
2007年11月19日、マイク・タイソンが昨年12月にコカインを使用、所持したまま自動車を運転したとして逮捕された件で禁固1日、執行猶予3年の判決を受けた.
2008年1月30日、
マイク・タイソンは、チャリティー募金の活動で訪れた南アフリカでのインタビューで
「戦争のない場所であればどこへでも行きたい。
ケニアにも行きたいがあそこは内戦状態になっている」
と語り、もう自分自身は悪童ではなく、ボクシングへの関心もないとコメントした。
「年を取り過ぎたと感じる。
記憶してもらうだけで幸せだ」
2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー映画「Tyson」がカンヌ映画祭の「ある視点部門」で上映された。
スーツに白のポケットチーフをしのばせたマイク・タイソンが舞台あいさつに立つと観客はスタンディングオベーション。
「俺はアスリートで映画はフィールド外だが、監督を信じて、このプロジェクトに挑もうと決めたんだ。
映画の中では、かなり自分の気持ちを正直に話している。
ぜひ楽しんで欲しい」
と語り、観客に向かって一礼。
緊張で吹き出した汗をポケットチーフを取りだして拭った。
古くからマイク・タイソンと親交のあるジェームズ・トバック監督が手がけた同作では、元王者の知られざる側面が描かれた。
「絶頂に上り詰めたあと、ごう慢さと陰謀と無謀さによって自滅した男の古典的な悲劇です」
マイク・タイソンが酒とドラッグ漬けの生活を断つべくリハビリ施設に入ったとき、自身もかつて酒やドラッグで問題を抱えていたジェームズ・トバック監督がドキュメンタリー映画のオファーした。
マイク・タイソンは1週間にわたるインタビュー取材を許可し、それが今回のドキュメンタリー映画「Tyson」の始まりとなった。
2008年12月20日、46歳のイベンダー・ホリフィールドがスイスのチューリッヒでWBA世界ヘビー級チャンピオン、身長213㎝のニコライ・ワルーエフに挑戦。
46歳のイベンダー・ホリフィールドは、自分より45㎏も重いニコライ・ワルーエフのインサイドに入ってパンチをいれ、後一歩のところまで追い詰めたが0-2で判定負け。
 (2245596)

2009年5月27日、マイク・タイソンの末っ子、4歳のエクソドス・タイソンが、アリゾナ州の自宅にあるトレッドミルのコードが首を巻きつく事故で窒息死した。
家の掃除をしていた母親が、7歳になる息子に妹の様子をみにいくよう頼んだところ、トレッドミルのコードが首に巻きついたエクソドスが発見された。
母親は救急車を呼び、到着するまでの間、人工呼吸を行い、病院では生命維持装置をつけられたが死亡した。
事件当時、ラスベガスにいたマイク・タイソンは娘の事故を聞き、すぐに病院に駆けつけた。
2009年6月9日、マイク・タイソンが3度目の結婚。
最初の結婚は、ロビン・ギブンズ。
2度目は、看護師のモニカ・ターナー。
そしてラキハ・キキ・スパイサー(Lakiha Kiki Spicer)が10歳上のマイク・タイソンと知り合ったとき、彼女は19歳。
その後、5年間ほどはつき合いがなかったが2000年、24歳のときニューヨークで再会してデートを始めてからは
「ローラー・コースターみたい」
だったという。
「あれだけたくさんの女をとっかえひっかえだった男とデートするようになっちゃって。
別れようと思ったこともキレたこともあったけど、でも私たち、ずっといい関係だったの」
キキの継父、クラレンス・ファウラー、イスラム名、シャムスッド・ディン・アリは、 1970年代、殺人で有罪判決を受け、数年間刑務所で過ご、釈放後、ペンシルベニア州フィラデルフィアで影響力のあるイスラム教の聖職者となり、2004年9月、詐欺および恐喝の有罪判決を受け、9年の刑を宣告され、2013年まで刑務所に入った。
母親のリタスパイサー、イスラム名、ファリダアリも、詐欺罪で1年半の短期収監をいい渡されている。
キキも、やってもいない仕事で7万1000ドルの収入を両親の経営するムスリムの学校、シラークララムハンマドから得たとして2008年、半年間、連邦刑務所に収監されたが、そのときにはマイク・タイソンの娘がお腹にいた。
釈放後、薬物中毒と戦っていたマイク・タイソンと会い、2008年12月、ミランを出産。
結婚の日付はすでに決まっていたが、4歳の娘、エクソダスの事故で亡くなったため、多くの人が式を遅らせるべきと考えていたが、2人は予定通り、ラスベガスのヒルトンホテルにあるLa Bella Wedding Chapelで結婚し、論争を引き起こした。
リハビリからブクブクに太って薬漬けみたいになって退院してきたマイク・タイソンをキキは
「威張ったゾンビ」
と呼んでいたが
「やりたいことといったら、キャプテンクランチのシリアルを食べながらテレビで刑事ドラマ『ロー&オーダー』を観ること、それだけ。
そこにいるんだけど、心はないの」
薬をすべて取り上げてもみたが、そうするとマイク・タイソンは、毎晩ほぼ決まった時刻に起き出しては暗くなっていた。
「なにをいってるのかよくわからないんだけど、要は誰も俺のことを愛してないとか、人生終わりだとか、もうすぐ死ぬとか」
妥協点として大麻に落ち着いた。
キキ自身は、大麻はあまりやらない。
年に4回程度。
マイク・タイソンとの結婚生活で心底ツラいときがあるという。
「ときどきだけど、マイクは精神的に自己破壊モードになっちゃうの。
物事が上手くいきすぎているときにそうなるの。
恐怖からなんだと思う。
人生のずっとがカオス状態で、むしろそれに依存してきたような人だから、急にフッと穏やかになっちゃうとね」
そういうモードになったときマイク・タイソンは、クラブ通いを再開し、よからぬ人たちとつき合うようにもなり、コカインもやってしまった。
「悪いループに入って抜けたくてもダメだった。
女と会ってヤりまくり、コカインもやって、酒も飲んで、自分の人生をぶっ壊す。
罪を重ねて、自分を殺す」
(マイク・タイソン)

マイク・タイソンがホリフィールドに耳を返す。 Mike Tyson Bites Holyfields Ear Return and Apology

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