獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで
2024年9月30日 更新

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。

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【 新日本プロレス今日は何の日 】 1981年4月23日 タイガーマスク VS ダイナマイト・キッド

イギリスに来て1年後、プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていると
「帰国して虎のマスクをかぶってくれ」
といわれた。
「タイガーマスク」は、1968年から少年マンガ雑誌で連載開始し、翌年にはテレビアニメ化された「巨人の星」「あしたのジョー」に並ぶ、梶原一騎の代表作。
1981年4月20日に「タイガーマスク2世」の放映が始まるのに合わせ、実物のタイガーマスクを新日本プロレスのリングに立たせるという構想は梶原一騎によるものだった。
マンガのヒーローをリアルストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからない佐山聡は、
「僕は帰れません」
と断ったが、
「君がマスクをかぶってくれないと社長の顔を潰すことになる」
と尊敬するアントニオ猪木の名前を出されると弱く、
「わかりました」
とアッサリ了承。
「1試合だけですよ」
と念を押して一時帰国することを受け入れ、タイガーマスクとしてダイナマイト・キッドと対戦。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した4次元殺法」に観客は驚愕。
この10分間でスーパースターが誕生し、空前のタイガーマスクブームが到来することになり、
「1試合だけですよ」
という約束はすぐに反故にされてしまった。
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タイガーマスクの指示で寮に向かった山田恵一は、入り口で、
「すみません」
と大声でいうと2階から小杉俊二が降りてきた。
1980年入門、3歳上の小林俊二は、同期の高田延彦に全勝している技巧派レスラー。
「ああ、新弟子だろ?」
といわれたが「新弟子」という言葉を知らない山田恵一は、
「いえ、山田という者なんですが・・・」
「だから新弟子だろ?」
「いえ、山田です。
山田恵一です」
小杉俊二は、少しキレ気味に
「今日から寮に入るんだろ?
上がれ!」
山田恵一は、
なんで怒ってんだろう?)
と思いながら
「はい」
と答えた。
「お前ェの部屋はここだから」
と2階の部屋に案内されると、18歳上の栗栖正伸と同部屋だった。
普段、大阪で暮らしている栗栖正伸は、試合があるときだけ合宿所で生活していた。
部屋に荷物を置くと小杉俊二に
「腹減ってるか?」
と聞かれ、
「はい」
と答え、初めてソップ炊き(鶏がらスープのちゃんこ鍋)を食べ、あまりのうまさに
(ナニコレ!)
と感動し、何杯もおかわりした。
小林俊二の他に合宿所で暮らしていたのは、

7歳上、寮長の新倉史祐
5歳上、ヨーロッパから帰ってきたばかりの前田日明
2歳上、高田伸彦
同年齢、大阪出身の畑浩和
同年齢、北海道出身の佐野巧真

だった。
このうち前田日明と高田伸彦は、新日本プロレスの本隊と一緒に地方に巡業中。
しかし少し経つと体調を崩した高田延彦が東京へ戻ってきた。
山田恵一が道場にいると、高田延彦が入ってきて
「おい、レスリングやろう」
といわれた。
レスリングには自信がある山田恵一は、スパーリングを行い、高田延彦からタックルでダウンもとったが、下から関節技を極めまくられ、
「高田さん!
レスリングで首を攻めるのは反則ですよ」
というと
「バカ!
プロがやるレスリングっていうのは関節を取り合うもんだ」
まったく関節技を知らない山田恵一は、何度も悲鳴を上げた。
30分後、立ち上がることができなくなった山田恵一に、高田延彦は
「お前、小さいんだからもっと強くならないとダメだぞ。
俺なんかよりはるかに強い藤原(喜明)さんっていう人がいるから、今度、教えてもらいな」
といった。
山田恵一は
「俺、続けていけるかな」
と不安を感じた。
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やがて本隊も東京に戻ってきて、初めての合同練習を翌日に控え、山田恵一は、風呂場で新倉史祐に
「このくらいのスピードで大丈夫ですか?」
と素っ裸でスクワットをしながら質問。
「おう、十分だ」
といわれて安心した。
そして初めての合同練習で、坂口征二や藤浪辰巳など憧れの存在と一緒にトレーニングをして興奮。
このときアントニオ猪木はいなかったが、少し後、非常階段をすごいスピードで降りてくる音がしたのでみてみるとアントニオ猪木だった。
「おはようございます。
今度新しく入りました山田と申します。
よろしくお願いします」
と挨拶。
アントニオ猪木は、
「おお」
といいながら、まったく止まることなく行ってしまった。
山田恵一は額が広く、前に突き出ているため、最初、先輩たちに、
「デコッパチ」
と呼ばれた。
それがやがて
「ハチ」
となり、最終的に、
「ハチベエ」
になった。
山田恵一は、巡業にいくと若手として先輩たちの試合をみていたが、年齢で15歳上、そしてプロレスラーとして11年先輩の藤原喜明に異質なものを感じた。
「人殺すんじゃないかって思わせるものがあって、相手を仕留めに行く姿とか鬼気迫るものがありました。
とにかく怖い、怒らせちゃいけない人だなって」
幼い頃から強い者に憧れていた藤原喜明は、工業高校の機械科時代、ボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンになり、20歳で退職し、料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、旗揚げから8ヵ月後の新日本プロレスに入門。
そして入門10日後、スピードデビューを果たすも、すでに23歳という遅咲き。
入門1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後、猪木とスパーリング。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思った。
「当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて『これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」
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ある日、山田恵一は、合同練習が終わった後、藤原喜明に
「おい、ボク、ボクシングやったことあるか?
ちょっとやってみようか?」
といわれた。
そしてボクシングのスパーリングが2R行われ、ボコボコにされた山田恵一は終わった後、
「ありがとうございました」
といって頭を下げた。
すると後頭部を
「ボカンッ!」
とやられ、しかも殴った藤原喜明が笑っている。
猛烈な怒りがこみ上げた山田恵一は、
「テメー、ブッ殺してやる」
すると藤原喜明は目つきが変えて
「オウッ、殺してみろ」
ケンカのようなスパーリングが始まり、再びボコボコにされ、最後は馬乗りになられ、周囲が止めに入るまで殴られ続けた山田恵一は、気づけば、寮の自分の部屋に寝ていた。
頭部にダメージを受けたためか、猛烈な吐き気がしたが、その日の夜、藤原喜明から電話が入り、
「大丈夫か?」
といわれ、
「ハイッ、練習ありがとうございました。
失礼なこといってすみませんでした」
「オウッ、気にすんなよ。
俺はお前みたいなヤツ、好きなんだよ。
また明日から頑張ろうな」
山田恵一は、うれしくて気持ちの悪さなど吹き飛んでしまった。
その後も藤原喜明にボクシングのスパーリングの相手に指名され、藤原喜明が若手に関節技を教える「藤原教室」にも参加。
前田日明は、山田恵一が新日本プロレスに入門した直前にイギリスから帰ってきたばかり。
同じ寮に住みながら雲の上の存在だったが、
「ハチベエ、渋谷行くぞ」
といわれ、遊びに連れていってもらった。
「もうハンパじゃない
レスラーの中には素人にナメられちゃいけないってのが強かったからさ。
力が強い、技術でも負けない、それはいいんだけど、酒飲む量でも素人に負けちゃいけない!
だから飲め!って。
飲まされて記憶なくなったこといっぱいあるもんね。
前田さんと飲んだら、だいたい帰りは記憶ないよ。
それに前田さんと高田さんが一緒に飲むとキングコングとゴジラ。
高田さんは素っ裸で踊ったりするんだぜ!
前田さんは強そうな人みるとケンカしたがるし、そういうの止めるの大変だったんだから!
もうメチャクチャ!」
山田恵一は、そんな高田延彦が行きつけの店で女性店員に
「新しい子入ったの?
頑張ってね!
応援してるわよ」
といわれて一目惚れし、
「この人のために頑張ろう」
と思い込んでトレーニング。
高田延彦が出かけるときは、連れていってもらえるように「僕、ヒマです」アピール。
Just a moment... (2588883)

新日本プロレスの寮には、
「座敷わらし(小さな女の子)をみた」
「誰もいないはずの2階の廊下を歩く音がする」
など数多くの怪奇現象の噂があり、テレビ番組の企画で除霊のために呼ばれた霊能者に、
「これは俺の力じゃ無理だ」
といわれ、山田恵一は高田延彦と一緒にバットを片手に1部屋1部屋、チェックしたこともあった。
アマチュアレスリングの試合でドロップキックを放って反則負けしたことがあるという破天荒なドン荒川は、イタズラが好き。
寮に住む若手に、
「夜中に霊がベンチプレスをする。
深夜3時を過ぎてガチャンガチャンと音がしたらそれだ」
と吹き込んだ。
すると深夜3時、本当に道場からガチャンガチャンと音がするため、真偽を確かめるため、山田恵一たちは恐る恐る道場へ。
そして扉を開くとベンチプレスをする人影が。
「で、出た~っ‼」
絶叫して寮に逃げ帰った後、道場では笑いが起こった。
ベンチプレスを挙げていたのは佐山聡。
笑い声の主は、隠れていた藤原喜明、ドン荒川、小林邦昭。
彼らが仕組んだイタズラだった。
続いてドン荒川は、
「昔、この辺で進駐軍の黒人兵士が殺されて、幽霊になって夜な夜なアメリカ国歌を歌う」
という話を聞かせ、200cm120kg、父親が岩国基地所属の黒人アメリカ海兵隊員だったという「人間バズーカ」ジョージ高野に軍服を着せ、前田日明の枕元に立たせた。
すると前田日明はドン荒川に
「怖いから一緒に寝てください。
僕が荒川さんの部屋に行きますから」
と懇願。
ドン荒川は
(しめた)
と思いながら、了承。
自分は部屋のドア側に、前田日明を窓側に寝させた。
外では佐山聡が釣り竿を持ち、小林邦昭が糸の先につけたアルコールを含んだ脱脂綿に着火。
窓の外に火の玉が出現すると前田日明は部屋を飛び出て朝まで帰って来なかったが、ドン荒川は、そのとき顔面を踏みつけられ、鼻血を出した。
山田恵一は、アントニオ猪木が入場するとき、
「はーい、どいてどいて」
といいながらガード。
しかし群がる人数が増え、過激なファンがガウンや髪の毛を引っ張ったりすると、
「どけ!オラァ」
とブッ飛ばした。
しかし外国人レスラーの世話係になると、サーベルを持ったタイガー・ジェット・シンや223cm、236kgのアンドレ・ザ・ジャイアントは、平気で客に手を出すため、唖然。
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