獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで
2024年9月30日 更新

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。

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中2のとき、初めてプロレスを生観戦。
このとき広島県立総合体育館まで1人で行ったが、その後、広島で行われる全日本プロレス、新日本プロレスの大会は、すべて会場で観戦。
広島市から40km離れた東広島市で行われた大会も自転車で観に行った。
中3の夏休み、東京の親せきの家に遊びにいき、
「会社でプロレスのチケットもらったんだけど観に行く?」
といわれ、日本武道館で行われた「プロレス夢のオールスター戦」を観戦。
売店でミル・マスカラスのマスクを買い、帰りの駅のトイレで一生懸命かぶろうとしたがミニチュアマスクだったために無理だった。
その後、雑誌の通信販売でマスクを買って収集するようになった。
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中学校卒業後は新日本プロレスに入るつもりだったが、新日本プロレスのパンフレットに書かれていた入門規定の中に、
「身長 180cm以上」
とあり、165cm、70kgの山田恵一は、
「ダメだ。
とりあえずレスリングの基礎を身につけよう」
とレスリング部のある高校を探して受験。
面接で
「レスリングを3年間やり通します」
とアピール。
すると数日後、学校から
「本気でレスリングをやる気ある?」
と確認の電話がかかってきて、
「絶対にやります」
と即答。
すると高偏差値の広島大学付属高校に合格。
「おそらく筆記試験的には落ちていたけど部員確保で入れてもらえたんでしょうね」

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中学は、給食と運動をするために通っていたが、高校になるとさらに磨きがかかり、死に物狂いでプロレスラーを目指した。
朝5時に起き、新聞配達をし、約1時間かけて自転車で登校。
授業中は寝て、レスリング部で練習した後、帰りに広島トレーニングセンターに寄ってウエイトトレーニング。
「プロテイン代やトレーニングジムの月謝を考えたらバイトも休むわけにいかない!」
男子校なので女性と接触するのは学食のオバちゃんのみ。
高2のとき、徳島県で行われたレスリングの大会で、川田利明と対戦。
川田利明は1つ上の高校3年生。
中学校卒業後、新日本プロレスのテストに合格したが、『高校を卒業してから』といわれて入門が先送りとなり、レスリングの強豪、足利工業大学附属高校に一般入試で合格した。
この試合で、山田 恵一は判定負けし、川田利明は、そのまま優勝。
しかし大会後、山田恵一は、
「無名の年下に手こずりやがって」
と監督に怒られる川田利明を目撃した。
川田利明は、高校在学中に、インターハイ準優勝、国体優勝という成績を残し、高校卒業後、新日本プロレスではなく全日本プロレスに入門。
山田 恵一もインターハイ出場を果たした。
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170cmに満たない山田恵一は、新日本プロレスの入門規定、
「身長 180cm以上」
をみながら、
「どうにかしてレスラーになれないかな?」
と悩んでいたが、プロレス誌でマッハ隼人(国際プロレス、UWFで活躍)の記事を発見。
そこには新日本プロレスの入門テストを落ちた後、メキシコに渡って現地でレスラーになり、逆輸入レスラーとして日本に戻ってきたというマッハ隼人のストーリーが書かれてあった。
「こういう手があるんだ!」
まったく勉強をしてこなかった山田恵一は、NHKのスペイン語講座を観るようになり、いくつかの大学からレスリング推薦の話が来ていたが
「メキシコでプロレスラーになります」
といって断った。
車の運転免許を取ってから、格安チケットを手配しようと旅行会社「メキシコ観光」へ。
担当者に旅の目的を伝えると現地駐在員の「長島さん」を紹介してもらった。
そしてメキシコでは
「今、嫁が出産で日本に帰っているから」
といわれ、長嶋さんの家にステイ。
そこからルチャリブレの学校に通うようになった。
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ルチャリブレは、メキシコの伝統的なプロレススタイル。
日本の空手や柔道のように街にはルチャリブレを教える道場があって、誰でも習う事ができた。
「両国国技館くらいの階段を昇ったり降りたりして基礎体力トレーニングをこなしてから最後に受け身の練習をやって」
しばらしく道場で練習していると長島さんに
「麻雀仲間の知り合いに浜田さんっていう人がいて、プロレスラーらしいんだけど知ってる?」
といわれ、
「グラン浜田さんですよね?
もちろん知ってます」
と答えると
「じゃあ紹介するよ」
といわれ、グラン浜田と会うことになった。

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グラン浜田は、新日本プロレス旗揚げ時のメンバーの1人。
軽量級ながら元柔道のオリンピック候補。
新日本プロレスの前座で「台風の目」といわれた後、メキシコに渡ってキレのいいファイトでブレイクし、タイトルも獲得。
数年後、帰国し、新日本プロレスのリングで活躍したが、メキシコで家族を持ったため、日本とメキシコを往復。
山田恵一がメキシコに来るきっかけとなったマッハ隼人よりも実績のある、メキシコの第1人者だった。
グラン浜田の家は、メキシコシティを東西に横断する大通り、パセオ・デ・ラ・レフォルマに面した高層アパートの15階にあり、よく麻雀大会が行われ、長島さんもそのメンバーだった。
名前の通り、幸運に恵まれてマンションを訪れた山田恵一は、グラン浜田にマス釣りに誘われる。
早起きして湖で一緒に釣り糸を垂らしていると
「いきなりこっちでやっていくのは無理だよ。
今度、新日本プロレスがテレビ撮りでメキシコに来るよ。
試合もするから解説で来る山本小鉄さんに紹介してやるよ。
お前は日本でやった方がいいよ」
といわれた。
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その試合は、1983年6月12日、かつて闘牛場だったスタジアム、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスで開催され、タイガーマスクを含む、新日本プロレスのスターが出場。
山田恵一は、ドキドキしながら観戦。
そして試合後、グラン浜田から山本小鉄を紹介された。
山本小鉄は、新日本プロレスのライオンマークのエンブレムとキャッチフレーズ
「King of Sports(キング・オブ・スポーツ)」
の考案者。
新日本プロレスの道場の現場責任者として若手レスラーを指導する「鬼軍曹」と呼ばれ、アントニオ猪木から解説者になるように頼まれると真面目な山本小鉄は「話し方教室」に通い、
「これは危ないですよ」
「いまのはキツいですよ」
などとレスラー目線と独特の表現で試合を実況した。
ホテルのロビーで待っていた山田恵一をみて、山本小鉄は
「なにやってたの?」
「100m何秒で走れる?」
などと質問。
そして最後に、
「ウチはUWAと提携してるから、まずはそっちを紹介してやる。
今日は帰りなさい」
といった。
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山田恵一は、
「はい」
と答えたものの、帰ってから悩み始めた。
日本同様、メキシコにも複数のプロレス団体があり、山田恵一は、「EMLL」という団体のルチャリブレ学校に通い、レオン・チノというコーチに習っていた。
山本小鉄がいった「UWA」と「EMLL」のライバル団体だったので、
「不義理をして(UWAに)移るわけにはいかない」
と思った。
翌日、山田恵一は、山本小鉄を訪ね、
「すみません。
せっかくのお話ですが、僕はEMLLにお世話になっているのでUWAに移ることはできません。
もし新日本プロレスに入門できないのであれば、僕はEMLLに残ります」
といった。
山本小鉄は少し考えた後、
「よし、わかった。
じゃあ日本に帰って新日本の道場に入りなさい」
{エッ、マジで?)
こうして体格が規定に達していないだけでなく、実技試験もナシで新日本プロレスに入門することが決定した。
「メキシコに行ってから新日本入が決まるまで、ほんの1ヵ月くらいのことだったんでラッキーの一言ですよ。
当時はネットもなくて情報も限られている中、行き当りバッタリで動いて、気づいたら新日本プロレスに入れられちゃったっていう。
しかもテスト無しで‼
裏口入学でしたね‼!」
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帰国後、新日本プロレスに電話すると山本小鉄に
「話はつけてあるから」
といわれ、山田恵一は東京都世田谷区野毛1丁目3-22にある新日本プロレスの野毛道場へ。
道場の中からドタンバタンと音が聞こえ、扉を開けてみると初代タイガーマスク(佐山恥)が撮影を行っていた。
(ウワッ、タイガーマスクだ!)
と驚きながら
「すみません。
今日から合宿所でお世話になる山田という者です」
と挨拶。
するとタイガーマスク{佐山聡}は、
「うん?
寮はあっちだよ」
佐山聡は、山田恵一より背が低く170㎝もない。
小学生の頃からアントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、毎月、プロレス雑誌の発売日には、山口県の日本海側にある家から瀬戸内海側にある本屋まで、自転車で片道1時間走った。
入門8ヵ月後、藤原喜明に
「プロレスはお互いが協力するショーだ」
と教えられ、天地がひっくり返るような衝撃を受ける。
しかし打・投・寝、すべてOKの最強の格闘技を目指し、極真空手の創成期のメンバーで「鬼の黒崎」といわれた黒崎健時が指導し
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を調べて、入門。
新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスを使って通った。
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながらプロレスと格闘技の練習を続け、20歳でメキシコ遠征を命じられ、ルチャリブレの難易度の高い空中殺法をマスター。
その後、イギリスに渡り、メキシコに続き、イギリスでもトップレスラーに。
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