【訃報】高木守道氏、死去。
ドラゴンズ、球界も代表する名二塁手として活躍し1974年のリーグ優勝に貢献、監督としても3度(代理監督を含む)指揮を執った高木守道氏が1月17日に急性心不全のため逝去されました。
— 中日ドラゴンズ公式 (@DragonsOfficial) January 18, 2020
ミスタードラゴンズとして多くのファンに親しまれた高木守道氏へ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 pic.twitter.com/XGIPufeDna
球界からの追悼コメント
高木守道さんは『初めて大人扱い、プロとしての自我を芽生えさせてくれた』立浪和義さん「10・8勝たせたかった」#中日ドラゴンズ #高木守道 #立浪和義https://t.co/6cdsCu7wW7
— 中日スポーツ (@chuspo) January 17, 2020
高木守道さんがお亡くなりになりました。
— 山本昌 (@yamamoto34masa) January 19, 2020
私を大人扱いしてくれて
一本立ちさせてくれたのは
高木監督でした。
勝つと喜んでくれて負けても叱られた事はありません。
本当信頼して使って頂きました。
一度だけでも胴上げしたかった。
10.8、二次政権のCS.
チャンスはありましたが...。
悔しい。
高橋周平:高木監督にドラフトで獲得しもらっていなければ、僕はドラゴンズに入団することができなかったので感謝の気持ちしかありません。心からご冥福をお祈りします。
現役時代
その年の5月に太陽ホエールズ戦に代走として初出場し、初盗塁を記録。
そして同じ試合でプロ入り初打席初本塁打も決めている。
3年目の1963年には二塁手としてレギュラーとなり規定打席にも到達、50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルも獲得した。以降3度の盗塁王に輝いている。
惹きつけられる華麗なる守備
そしてなんといっても高木守道氏の代名詞といえばバックトス・グラブトスですよね。
華麗なグラブ捌きはファンを魅了しました。
ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を3度受賞していますがそれも彼が30代になってから設立されたのでプロ入りの時から賞が設立されていたらもっと多く受賞していたに違いないでしょう。
監督時代
1991年のオフに前任星野仙一の辞任を受け監督に就任。
1992年より采配振るう。
1994年には前半戦で首位巨人に大差をつけられていたものの猛追し同率首位に立ち、この年の最終戦で勝ったほうがリーグ優勝という展開となるも敗戦。
これが日本プロ野球史上に残る「10.8決戦」であり、いまだに語り継がれる試合ですがドラゴンズファンには苦い記憶でもあります。
監督交代の話もあがっていたが後半の躍進が評価され翌年も続投となった。
しかし翌年には成績不振の責任を取りシーズン途中で解任された。
その年はリーグ2位になったもののクライマックスシリーズのファイナルステージで敗退。
翌2013年に12年ぶりのBクラス、4位に終わりシーズン終了後に退任。
野球愛
中日ドラゴンズOBの板東英二がパーソナリティを務めるラジオ番組では現役時代の思い出話を披露していました。
高齢ながら野球に関することには精力的で2020年2月には名古屋市内のイベントに出席の予定でしたが残念ながらそれがかなうことはありませんでした。
球界からもファンからも惜しまれつつ二塁手のレジェンドは旅立ちました。
竜一筋 中日元監督・高木守道さん死去#プロ野球 #中日 で活躍し「ミスター・ #ドラゴンズ」と称され、監督も務めた #高木守道 さんが17日、死去しました。78歳でした。
— 朝日新聞 映像報道部 (@asahi_photo) January 17, 2020
左の写真は現役時代の1966年に、右は2013年のシーズンを終えた際に撮影された写真です(留) pic.twitter.com/rWtxCP2PFg