中日ドラゴンズの主軸選手として活躍した谷沢健一の軌跡!
2021年5月27日 更新

中日ドラゴンズの主軸選手として活躍した谷沢健一の軌跡!

プロ1年目からレギュラーを勝ち取り、17年のプロ野球選手生活を送った谷沢健一。輝かしい記録の裏にはアキレス腱痛と闘い二軍落ちするなどの苦労もありました。

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谷沢健一

(やざわ けんいち、1947年9月22日 - )は、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)出身の元プロ野球選手。現在は野球解説者。左投左打、ポジションは一塁手、外野手。 1987年に「柏市民特別功労賞」の最初の受賞者となった[2]。
現役時代は中日ドラゴンズで17年間主軸打者として活躍し、引退後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオの解説者、西武ライオンズの打撃コーチを歴任した。現在はフジテレビ・J SPORTS解説者、東京中日スポーツ評論家として活動している。
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プロ入り前

高校生時代

千葉県、習志野市立習志野高等学校出身。
2年生で外野手のレギュラーとなり、控え投手もこなしていました。
3年生の時に夏の甲子園予選関東大会で準決勝まで進むが甲子園出場は叶いませんでした。
この年(1965年)ドラフトで阪急に4位指名されるが進学のため入団を拒否したそうです。

大学生時代

一般入試で早稲田大学に入学。
在学中に東京6大学野球リーグで2度優勝を経験しています。

2年時にはレギュラーに定着。1967年春季リーグでは打率.396で首位打者を獲得。
六大学打撃10傑の常連で、6期連続で打率3割以上を記録しベストナインにも6度選出されました。

プロ入り後

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中日ドラゴンズに入団し1年目から活躍

1969年、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
プロ1年目の1970年は開幕から左翼手として起用され規定打席に達し新人王も獲得。
1972年には3番打者として全試合に出場しています。
1974年には22本の本塁打を放ちリーグ優勝に大きく貢献し巨人の10連覇を阻止しました。

1976年には先に日程を終了していた張本勲の記録を驚異的な追い上げで逆転し首位打者を獲得。
初のベストナインにも選出されました。

ここまではまさに順風満帆に見えますよね。

順風満帆に見えたが

入団直後から1軍での活躍を続けていたが1978年に2軍落ちをあじわいます。

実は早稲田大学在学時より持病のアキレス腱痛があり、その都度痛み止めを打つなどして対処していましたが痛む足を庇う走り方などのせいで足の甲や踵が変形しておりいよいよ庇いきれないほど悪化してしまったのです。

様々な療法も試すも改善せず失意の中にいたところファンから何度も熱心に勧められた医者を訪ねます。

酒マッサージ

その医者は酒マッサージの創始者、小山田秀雄でした。
小山田は西鉄ライオンズのトレーナーとして従事していたことがあり、連投を重ねていた稲尾和久の肩を酒マッサージでケアした経験があったのです。
当初は全く信じられずにいたが小山田に熱心に誘われ治療を受けることに。

日本酒をたっぷり注いだ風呂につかり、念入りにマッサージするという方法や患部に日本酒を塗ってマッサージするという方法でアキレス腱痛を克服し、1980年には見事に復活しカムバック賞も受賞しました。
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復活後も活躍し1982年のリーグ優勝にも4番打者として貢献します。
1985年には2000本安打を達成し名球会入りも果たしました。(後に退会)

1986年シーズン終了後に引退。
この引退にあたっては監督に就任した星野仙一からの「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」という一言が引退の決め手となった、と引退記者会見で述べており、星野との確執等も噂されました。

現役引退後

引退後はテレビやラジオの解説者やキャスターを務め、
1994年、1995年は西武ライオンズのコーチも務めました。
その後もテレビ、ラジオでの解説者や評論家を務める傍ら、早稲田大学の講師も務めます。
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