衣笠祥雄という人
中学卒業後、平安高等学校へ進学して野球部に入部。捕手として1964年の春夏の甲子園大会に出場します。春の選抜では、準々決勝まで進出しますが、土佐高校に惜敗。夏の大会でも春と同様に準々決勝まで勝ち進みますが、今大会優勝高の高知高校高に敗退しました。
プロ野球時代
【プロ野球】広島のYK砲!衣笠祥雄504本塁打&山本浩二536本塁打 赤ヘル旋風の主役!
リーグを代表する打者に成長した衣笠は、1975年に就任したジョー・ルーツ監督によって三塁手にコンバートされ、山本浩二と共に球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献しました。特に、オールスターゲームにおける山本との2打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている。
連続試合出場中に骨折
1979年 広島vs巨人 衣笠死球で乱闘 ラジオ実況
1979年のシーズンでは極度の打撃不振に陥ります。そのため、ついに古葉竹識監督は、先発メンバーから外す決断に踏み切ることになります。三宅秀史(元阪神)が持つ日本プロ野球記録の700まであと22試合というところでした。しかし、6回裏に代打での出場となったので、連続試合出場の記録は継続することに。
1979年8月1日、対巨人戦において西本聖投手から死球を受けた衣笠は、左の肩甲骨骨折という重傷を負ってしまいます。誰もが連続試合出場記録がストップすると思った翌日の試合、なんと代打で登場してきたのです。江川卓投手の投球に対して、1ボールからの2球目をフルスイング。そして次もまたその次もフルスイングの3球フルスイングの三振でしたが、この三振には誰もが驚き感動したのです。
試合後、衣笠は「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」と語っています。そして、「それにしても江川君の球は速かった」とも。代打で打席に立った際には、広島ファンだけでなく、巨人ファンやベンチからも大きな拍手が起こったそうです。そして続く3日の試合では、なんと2番三塁手でフル出場、あまりの不死身ぶりに周囲を驚愕させました。まさに鉄人たる由縁ですね。
遂に世界一
【衣笠祥雄】2215試合連続出場、骨折しても打席に立つ男
そして、運命の9月21日。衣笠は、満足な守備が出来なくなったと現役引退を表明。現役最後の試合では、2回に先制の17号2点本塁打を、3回にも二塁打を叩きだし、拍手喝采の中ベンチへ退いたのでした。
現在では、ボルチモア・オリオールズの中心選手だったカル・リプケン選手が、2632試合連続出場で世界記録保持者になっています。前記録保持者の衣笠祥雄選手とは、両選手が引退した後も二人が協力して、共に少年野球の発展などに力を注ぐなど意気投合をしていたそうです。
衣笠祥雄のプレイスタイル
【衣笠祥雄 鉄人】死球を西本聖から受けても出場し続け連続試合出場2215は日本記録!ライバル山本浩二に対してフルスイングからのホームランと三振というスタイルを確立。若い頃の貴重映像も!
衣笠祥雄は、常にフルスイングを貫いた選手。そしてこれほどの成績を残した強打者でありながら、なんと通算の犠打数も88と、500本塁打以上を記録する打者の中では群を抜いて多く、チームプレイに徹する姿勢が見受けられますね。
そしてもう一つの記録が、通算被死球161。これは日本プロ野球史上3位となります。しかし、衣笠の振る舞いはとても紳士的でした。死球の後も、何もなかったように一塁へ向います。死球で肩甲骨を骨折した時も、謝罪する西本投手に乱闘で危ないからベンチ戻るように即したとか。西本は衣笠の器の大きさに感激したそうです。
現解説者の大島康徳は、死球や危険な投球の対応で、すごいと思える選手は広島の衣笠さんだと言います。痛いはずなのに顔色も変えずに当たったところを手でサッとはらい一塁に向かう。もちろん避け方もうまく、下手な選手なら何度も大ケガをしてますよと述べています。ダンディーな衣笠の対応は、さすがプロといったところでしょうか。
koi-Carp ⚾🧤 Central 2022/1/18 09:53
こどものころ「広島x巨人」などで「ゴリラみたいと」テレビの前でいいました