後楽園球場
1952年(昭和27年)にプロ野球では正式にフランチャイズ制度が導入されたが、後楽園は巨人、国鉄、東急、毎日、大映の5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦にした。その後、1953年(昭和28年)に東急が駒沢球場へ、毎日と大映の合併でできた大毎が1962年(昭和37年)に東京球場へ、1964年(昭和39年)に国鉄が神宮球場へそれぞれ移転するものの巨人戦の大きな観客動員数に支えられ、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た。
競輪場跡に東京ドームが建設されたことで球場としての役割を東京ドームに譲り、1987年(昭和62年)11月8日に開催された巨人ファン感謝デーのイベントを最後に閉鎖・解体された。このイベント終了後、スタンドの椅子などを取り外して持ち帰ったファンもいたと言われている。
【ドーム球場に興奮!!】90年代はドーム球場の建設ラッシュでしたよね~ - Middle Edge(ミドルエッジ)
東京スタジアム
東京スタジアム(とうきょうスタジアム)は、かつて東京都荒川区南千住にあった野球場で、プロ野球・千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映(後の東京、ロッテ)オリオンズが本拠地として使用していた。施設の運営管理は、かつてオリオンズのオーナー企業だった大映の関連子会社である株式会社東京スタジアムが行っていたが、1972年(昭和47年)限りで閉鎖され、1977年(昭和52年)に解体された。また、「東京球場」という通称でも呼ばれていた。
当時のワンマンで知られた大映オーナー、永田雅一の願望で誕生。通称は東京球場。こち亀で取り上げられた成果か、認知度は意外とあったり。下駄履きで試合観戦ができる球場として、下町の人からは親しまれていた。
光の球場
当時セ・リーグ、とりわけ巨人に対して強烈なライバル意識を持っていた。その一端を示す事柄として、他のセ・リーグの首都圏球団である国鉄(後にサンケイ、ヤクルト)や大洋には東京スタジアムでの主催試合開催を許可したものの、最も収益が期待できるはずの巨人にだけは、基本的に最後までスタジアムの貸出を拒否し続けたということが挙げられる。
川崎球場
川崎球場
外野の広さは公称こそ両翼90m、中堅120mだが、実際はもっと狭く、また左中間や右中間の膨らみもほとんどなかった。実測値は両翼89m、左中間105m、中堅118m、右中間103mで、実際にはこれよりさらに狭隘だったとする説もある。実際に当時、一部新聞発表で両翼は実測87mと記載があった。そのため、当時の球場の中でも狭くて本塁打の出やすい球場として知られた。
ロッテの応援団さんというのは、本当のファンというよりも、「ロッテ社の社員関係者」が多く、会社で動員をかけられたとき(土曜日曜とか)はそこそこの人数がいるが、動員されないときは、ものすごく少なかったです。
当時、「南海ホークスのファンは関東では15人しかいない」と言われた時代(私はそのなかの一人)でしたが、「一塁側内野席のロッテファンよりも、3塁側の南海ファンのほうが多いんじゃないの?」と思ったことも何度もありました。