via www.madbooth.com
人物
習志野高校卒業後に住友金属工業に入社し住友金属工業蹴球団に入部。
1992年に同クラブが鹿島アントラーズとなると共にプロ契約を結んだ。
鹿島では、小柄ながらパワフルで粘り強いマンマークとロングスローでディフェンダー(センターバック)として活躍し、チームの黄金期を支えた。
しかし、1995年のNICOSシリーズよりモーゼルが加入した頃からスタメンから外れる事が多くなった。
1996年に京都パープルサンガへ移籍。
序盤こそは活躍したものの、連敗脱出のためにシーズン中に各クラブから選手を補強していった頃から、再びスタメンから外れる事が多くなり、同年限りで現役を引退した。
1992年に同クラブが鹿島アントラーズとなると共にプロ契約を結んだ。
鹿島では、小柄ながらパワフルで粘り強いマンマークとロングスローでディフェンダー(センターバック)として活躍し、チームの黄金期を支えた。
しかし、1995年のNICOSシリーズよりモーゼルが加入した頃からスタメンから外れる事が多くなった。
1996年に京都パープルサンガへ移籍。
序盤こそは活躍したものの、連敗脱出のためにシーズン中に各クラブから選手を補強していった頃から、再びスタメンから外れる事が多くなり、同年限りで現役を引退した。
via mk25.fc2web.com
所属クラブ
1983年~1995年 鹿島アントラーズ(住友金属工業蹴球団)
1996年 京都パープルサンガ
1996年 京都パープルサンガ
via j-ob.or.jp
個人タイトル
1993年 Jリーグ・ベストイレブン
転換期
〈’94シーズンデータ〉
【出場試合時間】 29試合
【出場時間】 2571分
【得 点】 0点
'94シーズンは、ジーコが引退して、レオナルドが入団と鹿島アントラーズにとって、転換期となった時期でした。その時期をDFの一人として、見事に支えていました。
ドーハ組
ドーハの悲劇
20年前の同日に行われた最終戦では、日本代表はイラク代表と対戦。
日本は試合終了間際の後半ロスタイムに失点し、2-2の引き分けに終わったことで、初のワールドカップ出場権を逃した。
一方、日本が引き分けに終わったことで、同時刻に試合を行い勝利していたサウジアラビアと韓国が日本を勝ち点で上回り、ワールドカップの出場権を手にした。
via i.huffpost.com
大野俊三
1993年には日本代表にも選出され、国際Aマッチの出場こそ無かったものの、同年10月28日のドーハの悲劇もメンバーの一人として経験している。