『ブルース・リー』の伝説:『燃えよドラゴン』(日本では1973年公開)から始まる「ドラゴンシリーズ」と後世への影響
ブルース・リーの驚異的な能力
「片手で指立て伏せ」ブルース・リーは、2本の指で片手「指」立て伏せが出来た。
ブルース・リーは、指で突くだけでジュースの缶に穴を空けることができた。
ブルース・リーが136kgのサンドバッグを蹴ると、天井にぶつかるほどパワーがあったという。また45kgのサンドバックは、ケリで破裂することも。
ブルース・リーは、極めてストイックなトレーニングメニューを日々こなしていた。その一端を紹介すると、キック2000回、パンチ5000回に加え、ウェストツイスト360回、シットアップツイスト100回、レッグレイズ100回、ラーニングツイスト200回、カエルキック200回……。
『燃えよドラゴン』 1973年に公開され、世界各国で大ヒットとなった。ブルース・リーとカンフーが世界的なブームとなり、多くのフォロワーが生まれた作品である。
ブルース・リーの死後に、『燃えよドラゴン』が公開され、世界的に知名度が上昇
『燃えよドラゴン』(英題:Enter the Dragon・1973年8月17日に米国で公開)
ゴールデン・ハーベスト傘下のコンコルド・プロダクション(香港)とワーナー・ブラザーズ(アメリカ)の合作。
配給、及びソフト化の権利は欧米と日本、韓国ではワーナー、日本、韓国以外のアジア(香港、中国、台湾等)ではゴールデン・ハーベスト(1993年からスターTVに移行)が保有する。2004年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。
『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。
『燃えよドラゴン』( 1973年12月22日に初めて日本公開)は日本でも大ヒット
『燃えよドラゴン』(英題:Enter the Dragon)概要動画 - YouTube
1970年前半は、カンフーは日本に普及していない頃だった。真樹日佐夫によると、当初ワーナーは本作品をメインとせず、他と抱き合わせて採算づけるために極真会館へ鑑賞を依頼した。真樹、兄の梶原一騎、大山倍達の3人がワーナー試写室に出向いて鑑賞し、大山は良く評価しなかったが(ただし公開時のパンフレットで好評と書いている)、梶原は「敵味方に関わらず銃を使えなくなる設定が良く、荒唐無稽さがなくて面白い」と絶賛している。結果として日本でも大ヒットに至った。
ブルース・リーの強いイメージと言えば「アチョー」と「ヌンチャク」
当時は、1日100回は「アチョー」と言ってる子供がいっぱいいました。
截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO』。リンダ・エメリーとの間に一男一女。息子はブランドン・リー、娘はシャノン・リー。
1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳であった。