【山本浩二】ミスター赤ヘル・最後の舞台は…
山本浩司選手は1696年オフのドラフトで広島から1位指名を受け(後に改名して浩二)、入団一年目から一軍に定着。その年のシーズン終盤には「期待料」を込めてとは言えクリーンナップを任されるようになりました。その後、タイトルとは無縁の山本選手が初めてタイトルを獲得したのは1975年の事。この年、山本選手は打ちまくります。更に、この年選ばれたオールスターゲームの第1戦では衣笠祥雄選手と共に1試合2本塁打を記録するなど「赤ヘル旋風」を巻き起こします。山本選手は最終的に自己最高の打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁を記録。山本選手の活躍もあり、カープは初のリーグ優勝を果たします(日本シリーズでは阪急に敗退)。山本選手の「ミスター赤ヘル」という愛称はこの頃生まれました。
山本浩二選手のホームラン
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山本選手は1984年から打撃コーチを兼任します。コーチ兼任になると自分の成績を大きく成績を落とすという選手もいますが、山本選手はこの年打率.293、33本塁打という好成績を残し、チームの日本一に貢献します。山本選手が淫したのは1986年、40歳の時でした。リーグ優勝を花道にしての優勝でしたが、この年のペナントレースは大混戦。130試合制の129試合目にリーグ優勝が決まった為、山本選手の引退試合を組むことができず、日本シリーズ第8戦が山本選手の事実上の引退試合となったのです。
山本浩二 現役最終打席(1986年日本シリーズ)
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試合には敗れ、日本一は西武に譲りましたが、日本一のセレモニーが全て終わった後、山本選手は広島ナインから胴上げをされ、広島市民球場は「浩二コール」に包まれました。翌日に行われた引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。
1986年日本シリーズ終了後(山本浩二胴上げ)
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【山本選手のタイトル歴など】
首位打者:1回(1975年)、本塁打王:4回(1978年、1980年、1981年、1983年)、打点王:3回(1979年 - 1981年)。5年連続40本塁打以上(1977年-81年)を記録し、プロ野球通算18年で536本塁打を放つ「長距離砲」でありながら、231盗塁を記録する「俊足長打」の選手でした。
首位打者:1回(1975年)、本塁打王:4回(1978年、1980年、1981年、1983年)、打点王:3回(1979年 - 1981年)。5年連続40本塁打以上(1977年-81年)を記録し、プロ野球通算18年で536本塁打を放つ「長距離砲」でありながら、231盗塁を記録する「俊足長打」の選手でした。
【衣笠祥雄】最後まで鉄人だった
1965年に広島カープに入団した衣笠選手が頭角を現してきたのは1968年の事。127試合に出場し、ファーストのレギュラーを獲得します。その体の頑丈さと1974年までつけていた背番号「28」から、当時の人気アニメ「鉄人28号」から「鉄人」との愛称で呼ばれるようになります。1975年に外国人選手のポジションの兼ね合いからサードにコンバート。上述の山本浩二選手の後を打つ5番打者として強力クリーンナップ形成し、カープのリーグ初優勝に貢献します。
衣笠祥雄選手の野球人生
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衣笠選手と言えば、やはり1970年の10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録が有名ですがその記録が途切れる大ピンチが何度かありました。1979年はシーズン序盤から極度の大不振。当時の古葉監督が5月28日の試合に衣笠選手を先発メンバーから外す決断に踏み切りました。
更にこの年の8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまいます。西本選手がこのイニングで与えた死球が3個目という事と、更にその相手が連続出場記録を継続していた衣笠選手だったという事で球場は騒然となりました。医師の診断は左の肩甲骨を骨折する重傷。誰もが衣笠選手の連続試合出場記録はストップ…と思われた、翌日の試合で代打として姿を見せ、衣笠選手が打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こります。この打席で、江川卓選手の投球に三球三振しています。(全球フルスイング)。
更にこの年の8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまいます。西本選手がこのイニングで与えた死球が3個目という事と、更にその相手が連続出場記録を継続していた衣笠選手だったという事で球場は騒然となりました。医師の診断は左の肩甲骨を骨折する重傷。誰もが衣笠選手の連続試合出場記録はストップ…と思われた、翌日の試合で代打として姿を見せ、衣笠選手が打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こります。この打席で、江川卓選手の投球に三球三振しています。(全球フルスイング)。
国民栄誉賞を受賞
1987(昭和62)年6月22日、中曽根康弘首相(右)からプロ野球・広島の「鉄人」衣笠祥雄選手に国民栄誉賞が贈られました(写真の左は正子夫人)。13日に2131試合連続出場を果たし、ルー・ゲーリッグの米大リーグ記録を超え最終的に2215試合まで伸ばしました。(後にカル・リプケン選手がこれを上回る)
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161個という被死球を受けながら、衣笠選手の振る舞いは非常に紳士的。どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣うそぶりを見せながら一塁へ向かっていきました。そんな衣笠選手の人柄は相手チームからも尊敬を集めており、骨折しながら試合に出た、上記の巨人戦の試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」というコメントを残しています。
衣笠祥雄 引退スピーチ
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1987年の9月、満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たして引退します。この試合の2回、衣笠選手は先制の17号2点本塁打を放ち、3回に回って来た打席で二塁打を打ったのち、ベンチへ退いた。衣笠選手の功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっています。
【衣笠選手のタイトル歴など】
打点王:1回 (1984年) 盗塁王:1回 (1976年)
2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)
通算安打数:2543 通算本塁打数:504本塁打
衣笠選手は晩年、走力に衰えが見えたものの、1976年に31盗塁を記録して盗塁王を獲得しています。
【衣笠選手のタイトル歴など】
打点王:1回 (1984年) 盗塁王:1回 (1976年)
2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)
通算安打数:2543 通算本塁打数:504本塁打
衣笠選手は晩年、走力に衰えが見えたものの、1976年に31盗塁を記録して盗塁王を獲得しています。
【大野豊】心打つ引退スピーチ
軟式野球出身の大野豊選手は1977年にドラフト外で入団。1年目に1試合登板しましたが、自責点5、とったアウトは1つのみという事で、防御率135点という成績を残します。そんな大野投手が飛躍のきっかけをつかんだのは、南海から移籍してきた江夏豊選手でした。同じ左腕で、同じ豊という名前、同じ様に母子家庭という家庭環境で育ったという親近感からか、江夏投手は大野投手を実の弟の様にかわいがり、厳しく指導しました。それにより大野投手は成長をとげていきます。先発、中継ぎ、抑えと色々な役割を経て、1984年から先発に定着。同年の日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献します。
1991年に抑えに再転向、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献。ペナントレース優勝を決めた対阪神戦で胴上げ投手となりました。
1991年に抑えに再転向、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献。ペナントレース優勝を決めた対阪神戦で胴上げ投手となりました。
大野豊選手 ピッチング集
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1998年の中日ドラゴンズとの開幕戦で、開幕投手を務めます(当時42歳)。同年4月12日に通算146勝を挙げます。これにより記録された21年連続勝利は2009年に山本昌選手に更新されるまではセ・リーグ記録でありました。だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦で高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意。
9月27日の対横浜戦での引退試合でリリーフ登板します。この時、大野投手が投げた初球のストレートは146km/hを記録し、最後は142km/hのストレートで空振り三振に打ち取ります。この時対戦した中根選手は当初、引退試合の礼儀として三振するつもりで打席に入ったのですが、この初球のストレートを見て「これは本気でぶつからないと大野選手に失礼だ」と感じ、真剣勝負を挑んだ末、三振したと語っています。試合後のセレモニーで【我が選んだ道に、悔いはなし!】とスピーチ。詰めかけた大勢のファンの心をうちました。
9月27日の対横浜戦での引退試合でリリーフ登板します。この時、大野投手が投げた初球のストレートは146km/hを記録し、最後は142km/hのストレートで空振り三振に打ち取ります。この時対戦した中根選手は当初、引退試合の礼儀として三振するつもりで打席に入ったのですが、この初球のストレートを見て「これは本気でぶつからないと大野選手に失礼だ」と感じ、真剣勝負を挑んだ末、三振したと語っています。試合後のセレモニーで【我が選んだ道に、悔いはなし!】とスピーチ。詰めかけた大勢のファンの心をうちました。