今やCMにまで出ちゃってるほど芸能界に溶け込んだ高田延彦。そんな姿をプロレスファンは決して喜んではいないはず。
そう「青春のエスペランサ」と意味の良くわからないニックネームをつけられていた頃の髙田延彦(当時は高田伸彦)が好きだった!!
そう「青春のエスペランサ」と意味の良くわからないニックネームをつけられていた頃の髙田延彦(当時は高田伸彦)が好きだった!!
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髙田 延彦(たかだ のぶひこ、1962年4月12日 - )は、日本の男性元プロレスラー、総合格闘家、タレント、俳優、実業家。本名・旧リングネーム:髙田 伸彦(読みは同じ)。神奈川県横浜市戸塚区(現在では泉区となった地域)出身。血液型はA型。
レスリングと格闘技の道場「高田道場」の主宰者であり、格闘技イベント「PRIDE」の統括本部長を務めていた。芸能のマネジメントはレプロエンタテインメントが受け持っている。妻はタレントの向井亜紀。
新日本プロレス入門
中学校卒業後、アルバイトをしながら独自の方法で体を鍛え、1980年に新日本プロレスへ入団した。道場では藤原喜明と前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えられた。
太りにくい体質で、新弟子時代は毎月のように体重のノルマを課せられて、それをクリアできなければ解雇される状態だった。
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1981年5月9日に保永昇男戦でデビュー。この頃の得意技は跳躍力を活かしたミサイルキック(トップロープからのドロップキック)。
1982年からはアントニオ猪木の付き人を務める。1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行しており、欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在となった。
第1次(旧)UWF~新日本プロレス~第2次(新生)UWF
藤原組長が中心となった第1次UWF。格闘色が強く打ち出されたことでプロレスファンも期待をしたものです。
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1984年に師匠藤原喜明の誘いで、新日本プロレスを離脱し、オープニングシリーズでは選手貸出しの形で参戦していたUWF(旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)に移籍して前田日明と合流。
後楽園ホールで、同時期にUWFに移籍した山崎一夫らと名勝負を繰り広げたものの、予定されていたアントニオ猪木の不参加などの要因で地方では不入りだったこと等から同団体は崩壊、その後UWF所属レスラーは新日へ合流した。
結局は出戻りしてしまったUWF組。
プロレスラーとしては、期待されていたのでタッグのベルトを取ったりとそれなりに活躍していました。
プロレスラーとしては、期待されていたのでタッグのベルトを取ったりとそれなりに活躍していました。
新日に参戦した期間には、越中詩郎を好敵手として「新・名勝負数え唄」と呼ばれる好試合を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争った。この当時は女性ファンからの人気も高くバレンタインデーにはチョコレートが段ボール箱2、3箱届いていた。
1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWFを立ち上げる。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で、前田、山崎とともに「前高山」と言われた。第2次UWFは一世を風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂した。
なぜかこの頃から太り始める。団体がうまくいかないストレスからの不摂生だろうか。
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